終章 夏、梨畑にて

平成元年(昭和六十四年)

 故郷と長らく縁を絶っていた人間の処遇には、時間も労力もかかる。

 ましてや、それが、死してしまった人であればなおさらだ。


 それでも、良太郎の死後、約一年の時間は要したが、なんとか邦正はやり切った。戸籍謄本をはじめとしたあらゆる故人の書類を取り寄せ、役所に通い詰めた。行原の協力で、無縁仏扱いになっていた遺骨もなんとか探し当てた。

 そして、平成元年の晩夏である今日、邦正は良太郎の遺骨を手に花沼市の小野寺家の菩提寺を訪れた。


 墓地の光景はあの夏からあまり変わっていなくて、邦正の胸は僅かながらざわつく。季節もそんなに違わないからだろう。側に亜紀とその息子である涼太がいなければ、邦正の心は間違いなく過去に囚われてしまっていたに違いない。墓地を跳ねる孫と娘の明るい笑い声は、邦正を現実に繋ぐ、確かなよすが以外の何物でもなかった。


 もっとも、自分はそう振る舞えたとはいえ、骨壺のなかの良太郎が果たして平静でいられたかと考えると複雑な気持ちになる。良太郎にとっては、二度と訪れたくない場所であろうから。


 しかし、迷いながらも、結局邦正は手にした骨壺を小野寺家の墓に納骨した。なにより、そこには馨の骨壺もある。だったら、こうするのも悪いことではないはずだ。

 邦正は良太郎の最期を思い出しながら、そう、自分を納得させたのだ。



 八月の終わりの日曜日だった。花沼はちょうど梨狩りのシーズン真っ盛りだ。最近、梨農家でも観光農園を経営するところが増えてきて、今日も道路は観光客の車でひしめきあっている。

 それを見て、邦正はふと、亜紀にこう声をかけた。


「亜紀。章君のお土産に、梨を狩っていったらどうかな? 金なら父さんが出すよ」

「いいの?」

「せっかく花沼まで来たんだからね。それに涼太に梨狩りを体験させてあげるのも、悪くないと思うよ」


 亜紀の息子、涼太は一歳になったばかりだ。歩けるようになったばかりの小さな足をちょこちょこ動かして、父娘の後ろを懸命についてくる様子がなんとも愛らしい。

 邦正はひょい、と孫を掴み、肩の上に持ち上げる。すると涼太はきゃっきゃっと上機嫌に笑い、邦正の心はいよいよ和んだ。


 それから、近場にあった観光農園へと三人で向かう。

 すると亜紀が、ふと、思い出したように言った。


「ねぇ、父さん、梨って『ありの実』ともいうらしいね」


 邦正の足がその瞬間、ぴたり、と止まった。そして胸に満ちる感慨のまま、独り言つ。


「……なるほどね」


 立ち止まってしまった父に、亜紀が訝しげに声をかけてくる。


「どうしたの」

「いや、なんでもないよ」


 それだけ答えて、邦正はまた歩き始める。

 夏の終わりの陽は、すでに傾き始めていた。

 


 辿り着いた観光農園は、現職時、世話になったことのある農園だったので、梨狩りは亜紀と涼太に任せ、邦正は経営者のもとへ軽く挨拶に伺うことにした。


 経営者は急に自分の梨畑を訪れた邦正にびっくりしたようだったが、退職以来顔を合わせてなかった分、話は思った以上に弾み、長引いた。これでは涼太が梨狩りに飽きてしまうな、と案じ始めた頃、ようやくひとしきりの話が終わり、邦正は辞すべく改めて挨拶を述べる。


 すると、最後の最後で、こう尋ねられた。


「小野寺さん、髪、切られたんですね。あれほど在職中はみなさんにいろいろ言われながらも、切らなかったというのに。なぜですか?」


 邦正は曖昧に微笑む。

 そして、そう周囲から聞かれるたびに答えることにしている言葉を、さらっ、と放った。


「まあ……昭和も終わりましたしね。僕の気持ちの変化としては、そんなところでしかありませんよ」


 相手が、わかったような、わからないような笑みを口に浮かべる。

 それでよかった。

 わかってもらう必要がある人間は、もうこの世から、とっくにいなくなっているのだから。

 だから、邦正にはそれで十分だった。


 

「父さん! 遅いよー!」


 農園に戻ったのは、すでに夕暮れだ。

 案の定、亜紀の腕のなかで涼太は眠ってしまっていた。亜紀の足元に置かれたプラスチックの緑色の籠のなかは、梨がぎっしり詰まっている。


「ずいぶん摘んだな」

「涼太が喜んじゃって。もう終わりだって言っても、もっとやりたがるから、最後は大変だった。いまはおとなしく寝てくれているからいいけど」


 亜紀の口調はほとほと参った、という声音であったが、表情からはそれほど困った様子は見受けられない。娘と孫が楽しい時間を自分の故郷で過ごせたことに、邦正は深く満足し、心からの笑みを皺だらけの頬に刻んだ。


 それから、娘の腕のなかで眠る孫の頭を撫でながら、言葉を零す。

 いつか孫が産まれたら、投げかけたいと思っていたことだったが、この先、あまり言う機会もないだろうから、今のうちに伝えておくことにする。


「涼太には、好きに生きて欲しいな。男だからとか、こういう時代だからとか、そういうのとは関係なく」


 晩夏の光が梨畑に揺れる。

 観光農園を渡る風にも、僅かながら秋の気配が感じられる。それを感じ取ったとき、邦正の心にはなんとも言い表せぬ寂しさが過った。

 だが、それを隠すように、極めて明るい口調で、次は亜紀に言葉を投げかけた。


「亜紀も、自由に生きろよ。あと……母さんを大事にしてやってくれ」

「やだ、なに。父さん、改まって」


 亜紀が戸惑ったような顔をしながらも、にこにこと笑ったので、邦正は内心、ほっ、とする。

 しかし、亜紀の次の言葉は完全に不意打ちで、一瞬、息が詰まった。


「そうそう。今日しみじみ思ったわ。父さんはおじさんのこと、本当に、好きなのね」

「……」


 無言になってしまった父の顔を見上げながら、亜紀が語を継ぐ。


「おじさんは私に、なんにもしなかったのよね。ただひたすらに、優しかっただけ」


 それらの言葉に込められた亜紀の意図がなんだったか、邦正には咄嗟に判断ができない。

 だから、また、さっきのように、頬に曖昧な微笑を浮かべる。

 彼にはそのとき、それしか、できなかった。

 そうとしか、できなかった。



 花沼駅で亜紀と涼太を見送ったあと、邦正は駅のロータリーでタクシーを拾った。


 目的地だけを手短に運転手に伝え、走り出した車のなか、邦正は座席に深く身を預けると、目を瞑る。

 すると、脳裏に響いてきたのは、己のこんな声だ。


 ――姉さんを僕から奪った義兄さんの生を、僕はなかったことにしたかったんだ。意味のないものにしてやりたかった。義兄さんの大切にしていたものを、全部ぶち壊して。


 夜を迎えようとしている町並みが、すぐ横を通り過ぎていく気配を頬に感じなから、邦正は物思いに耽り続ける。考え続ける。


 地獄のどす黒い劫火に灼かれても構わないほどに、誰よりも嫌悪し、憎悪した男のことを。


 ――だけど、僕がそうしようとすればするほど、義兄さんの生の輪郭は僕のなかで増していく。皮肉なことに、いまも。ずっと、ずっと。これは、いったい、なんなんだ。


 そこまで考えて、ふと、邦正は瞼を持ち上げた。そして、ズボンのポケットから、黒い革の手帳を取り出す。

 ぺらり、捲れば、頁の間から色褪せた白黒の写真が姿を現した。

 それは、良太郎と馨の結婚写真だった。邦正は心を郷愁に浸らせながら、国民服の新郎と、角隠しに留袖姿の新婦が映る「ふたりきり」の写真を見つめる。


 ――だいたい、義兄さんは狡いんだよ。最後の最後に、ひとりだけ、救われて。だけど義兄さん、僕が義兄さんを許すのは、ここまでだよ。これ以上、姉さんの元でのうのうと幸せになんてさせない。


 タクシーは目的地に近づいていた。邦正は深呼吸し、ともすれば荒くなる動悸と息を整えた。

いよいよ、そのときが近づいてきている。この一年というもの、幾度も考えては懊悩した末に決めた、決着の付け方を示す瞬間が。

 邦正は手帳と写真を再びポケットに戻しながら、己の覚悟を質すように、心のなかで呟いた。


 ――そうとなれば……僕が義兄さんの人生を否定するためには、僕は、義兄さんの遺したなにもかもをも、自分のものにするしかないんだ。そうだ、もう、それしかないんだよ。


 そうしているうちにタクシーは止まった。邦正は財布から千円札を取り出すと、運転手に渡す。


「お釣りは取っておいてください」


 運転手が破顔し、丁寧な礼を邦正に述べたので、邦正も笑いながら車を降り、夕暮れの町へタクシーが去るのを見送った。

 そして、到着した「花沼警察署」の玄関口に足を向ける。

 右足を引きずりながら、ゆっくり、ゆっくりと。こう念じながら。


 ――義兄さんのことなんて、誰もが忘れてしまえばいい。義兄さんなんて、いなかったことにしてしまえばいい。


 署の前に立つ警備の警官に一礼しながら向かえば、入口の自動ドアは、なんの躊躇いも見せず、すんなりと邦正をなかに招き入れた。

 彼に、それでいいんだと、そう告げるように。


 ――だったら、僕は、義兄さんの罪すら、消してしまおうじゃないか、僕ごと。


 邦正は顔を上げた。髪を切ってしまった肩の軽さには、いまだ戸惑う。しかし、決意に迷いはない。

 休日の夜ということで、警官は受付にひとり座っているのみだ。まだ若手らしく、ひたすらに暇なこの時間を持て余している様子が、あどけない顔からも窺える。


 邦正は、ゆっくり彼に近寄ると、まるで道を尋ねるようなさりげなさで、いきなり、こう語を放った。


「あの。僕、二十二年前になるんですが、人をふたり殺して、埋めたんですよね。ええ、一年ほど前に、隣町の里山で見つかったと報道された白骨死体のことです。そのことをお話しに伺ったんですが」


 物腰柔らかにそう語りかけてきた初老の男を前にして、若い警官の顔はわかりやすいほどに強張る。


 それから、邦正はこう述べた。


 梨畑を渡るそよ風のように、穏やかな囁き声で。

 でも、ここが肝心だとばかりに、これ以上なくはっきりと。

 その瞬間も微笑みを崩すことなく。


「僕が全部、ひとりでやりました」


 次の瞬間、警官は椅子から飛び上がると、邦正にそこにいるように厳しい口調で告げてから、署の奥へと慌てて駆け出していった。おそらく上役を呼びに行ったのだろう。


 その背を見送りながら、邦正はひとり、呟く。


「……なあ、これでいいだろ、義兄さん。義兄さんのことを覚えているのは、僕ひとりだけでいいんだよ。だから、僕たちの終わりとしては、これが正解なんじゃないかな」


 邦正は煙草を口に咥えた。

 ライターで火を灯し、煙を燻らせながら、警察署の窓に視線を放る。


 外はもう漆黒の闇だった。四角く切り取られた暗がりを掠めて、煙草の白い煙が宙に広がる。

 まるで、いまこの瞬間も胸を燻す、数多の感情を見せつけるかのように。


「これが憎しみ以外の気持ちだとしたら……僕は、僕たちの昭和を、どう振り返ればいいんだろうね……義兄さん」


 静まりかえった夜の警察署にて、邦正は切れ長の目を細めながら、唇を微かな笑みに歪め、ただひとり、そう独り言つ。


 赤く燃え尽きた灰が崩れて、ぼとり、床に落ちても、邦正が足元に視線を投げることは、ついぞ、なかった。




※『梨子割』あとがき

https://kakuyomu.jp/users/tsuru_yoshino/news/16818093077423485429


※『梨子割』 執筆資料一覧

https://kakuyomu.jp/users/tsuru_yoshino/news/16818093074466111788

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梨子割(なしわり) つるよしの @tsuru_yoshino

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