第十一話 昭和六十三年 〜絡んだ生の果て〜

《11》ー1

 芳醇な果肉の香りが、ふたりの老いた男の鼻腔を擽る。


 北向きの病棟にしては明るい光が溢れる病室にて、邦正は椅子に座りながら、持参した梨を剥いていた。


「これは贈答用の梨だよ。最高級の幸水だ」

「……長十郎じゃないんだな」

「それはだいぶ昔の話だね。いま花沼で作っている梨はだいたい、幸水か豊水」


 部屋は六人部屋だが、そこそこベッドの間隔が広く、仕切りのカーテンを閉めてしまえば個室感覚でいられるのがありがたい。それでもなお同室の患者のお喋りやTVなどの雑音は入ってきてしまうが、それは大部屋にいる以上仕方ないことなので、良太郎はベッドに横たわりながらも必要以上に眉を顰めることはなかった。


 それより気になるのは、なぜ今日、七年の空白を経て、邦正が自分を見舞いにやってきたか、ということだ。

 まあ、予想なら、少しはつく。それだけもう、自分の寿命が長くないということなのだろう、と。しかしながら、それは良太郎自身がいちばんよくわかっているので、いまさらのことでしかない。だから特に、気分が落ち込むこともない。


 それでも久々の義弟の訪問には、多少心がひりひりする。もう会うことなどないと信じきっていたのだから、なおさら。


 そんな良太郎の心中を知ってか知らずか、ベッドサイドに座した邦正は、ただ器用に果物ナイフを操り、梨を剥き続けている。そして、ややもってから、梨に目を落としたまま、良太郎にこう語りかけてきた。


「義兄さん、今朝、亜紀が子どもを産んだよ。男の子だった」

「そりゃあ、めでたいなぁ」


 良太郎は掠れた声でこう言い、笑みを浮かべた。開口一番、そのような祝福の言葉が乾いた唇から零れたことがなんだか可笑しかったからだ。

 でも彼としては、そのまま祝いを述べて口を閉じるには、それは自分に強く関係する出来事ではない、という思いが強すぎた。


「……まあ、俺にはどうでもいいことだが。それをわざわざ伝えに来たのか?」

「そういうわけでもないよ」


 空調の風が仕切りのカーテンをふわりふわり、と揺らすなか、邦正はこともなげにそう答える。そして、勝手知ったる手つきで病室備え付けの棚を開けると、皿を取り出し、その上で白い果肉を露わにしたまんまるの梨を切り分ける。それはそれは、丁寧な所作だった。


 ベッドサイドには、官能的までに甘い芳香が漂い続けている。


 とても懐かしい匂いだった。あの梨畑を過ぎる光と風の感触さえ、そのときの良太郎には容易に思い出せた。


 不意に、狂わしい香りが強くなる。見れば、邦正が切り分けた梨の小さな一片をフォークに刺して、良太郎の口元に差し出している。


 少しの躊躇いのあと、良太郎はゆっくりと口を開く。今日となればもう、拒む必要もないだろう。そんな気持ちになっていた。だから、良太郎はゆっくりと梨を食みながら、極めて自然にいつのまにかこう語を零していた。


「結局、俺をここまで生かしたのは、お前への執着だよ……俺には、お前しか残んなかったんだ、俺の人生はなんだったんだ……」


 果汁が口内にじゅわっ、と染み渡る。それもまた懐かしい。今も昔も、やはり至福の味わいだった。

 ゆっくりと喉を滑っていく果肉の余韻に浸っていると、邦正が今度はこんなことを言い出した。皺の寄った手で結んだ髪を掻き上げ、そしてこれまた皺の寄った唇を微笑みに緩ませて。


「……そうか、僕は義兄さんの人生を『あったこと』にしちゃったんだね」

「なに?」

「前にも言ったことがあるけどさ」


 邦正の言葉の意味がわからず、良太郎は臥したまま、ぎょろりと目玉だけを邦正に向ける。その視線の向こうで、邦正は微笑していた。

 しかしながら、微笑みつつも、その言葉の内容は良太郎の胸を強く軋ませるものだ。


「僕はね、義兄さんの生を『なかったこと』にしたかったんだよ、ずっと」


 良太郎は黙って邦正の声に耳を傾ける。彼の顔から目を逸らさぬまま。

 すると邦正は二切れ目の梨を良太郎の口に差し入れてきた。良太郎は再び甘い果肉を咀嚼しながら、呪詛とも告白ともつかぬ邦正の言葉に、ただ聞き入る。

 反駁することもなく、受け止める。


「僕は義兄さんが大嫌いだからさ。強くあることも、男であることも、みんな否定してやりたかった。義兄さんが拘った人生の全てを、全部否定してやりたかった」


 なぜだろう。酷いことを言われているのは理解できる。それほど自分の感性は死を間際にしているとはいえ、鈍ってはいない。だが、不思議なことに、それほど腹は立たない。なるほど、そういうことか、とただ納得し、良太郎は頷く。顎が微かに動いただけだったかもしれないが、それも構わなかった。


 視線の先の邦正の瞳は、歳をこんなに重ねたというのに相変わらず切れ長で、黒目がちで、そして、最後会ったときのように静かな水面のように凪いでいる。その目つきのまま、彼がまたなにかを目の前に差し出してきていた。


 今度は梨ではない。

 梨を剥くのに使っていた、果物ナイフだった。

 ただ、自分に向けられているのは、鈍く光る剥き出しの刃ではなく、木製の柄の方だった。受け取ってみろ、と言わんばかりに。


 良太郎はゆっくり、点滴に繋がれている痩せた腕を持ち上げる。震える掌を広げ、指先をナイフの柄にそろりそろりと近づける。


 隣のベッドにも見舞い客が訪れてきたらしく、挨拶をし合う声が、カーテン越しに響いてくる。その向こうのベッドの患者は検温の時間なのか、看護婦がやって来て声を掛けているようだ。どこかのTVからは、数日前に発生した海上自衛隊の潜水艦と遊漁船の衝突事故の続報が報じられている。

 そして、そのあとには関東地方のなにかのニュースが続く。


 喧騒ともつかない、遠くの世界の音を聞きながら、良太郎はなんとか届いた手で柄を掴もうと、指を開く。

 だが、ナイフの柄は震える彼の指を掠っただけで、あっけなく落下し、床に転げた。


 かたーん、とナイフが床で転がる音が耳を打つ。


 同時に、鼻がつんとし、良太郎の目から不意に涙が溢れた。なぜだかは、自分でもよくわからない。

 しばらく、わからないままに涙を流していると、不意に邦正の声が響いてきた。その口調には、まるで自分を慈しむような柔らかさが感じられ、良太郎は思わず小さく苦笑せざるを得なかった。


「力強くもない。男らしくもない。義兄さんはやっと、ただの義兄さんになれたね」

「邦正、この期に及んで、お前の顔など見たくねぇ……失せてくれ」


 溢れる涙の熱さに反比例して、意識が急激に薄れていく。

 すべての感覚があやふやになるなか、それでも最後に邦正にそう苦言を申し立てられたのは、全ての終わりにしては上出来だ、と良太郎は胸で独り言つ。


 すると、頭上で揺れる気配から、こんな声が降り注いできた。


「邦正じゃ、ない」


 良太郎は思わず瞼を持ち上げる。渾身の力を持って。

 そのとき、果たして瞼は開いたのかどうか。自分の眼球は目前の人間を確かに認識できたのかどうか。


 それもわからない。


 しかしながらそれがどうでもよくなるほど、良太郎が感じ取れたその面影は、彼女に似ていたのだ。


「じゃあ、お前は、馨……馨なのか?」


 彼女がゆっくりと頷く。そして笑う。

 あの冷たい笑みではなかった。そして切れ長の瞳からも、冷たい光は感じられなかった。

 良太郎はそれに驚く。驚きながら、呟く。


「かをる……、やっと俺の目を見て、やさしく笑ってくれたな……」


 そうして呟いてみれば、自分がなぜいま、泣いているかがようやく理解できた。


 あの呪文が聞こえる。

 遠く近く、ゆらりゆらりと、頼りない意識のなかを揺れながら。


 おとなはつよい。

 おとなの男は、いちばんつよい。

 おとなでも女は、よわい。

 男でも子どもは、よわい。

 女の子どもは、いちばん、よわい――。


 そこまで呪文を諳んじた良太郎の意識は、ぐらり、と否定に揺れた。

 そして、いま、目の前にいる女のことを思う。


 ――いや、違う。馨、お前は誰よりもつよかったな。男の俺なんかよりも、ずっと、ずっと。


 良太郎のなかを、数多の刻が通り過ぎていく。


 ――男は、つよい。おとなの男は、いちばん、つよい。つよくなくてはいけない。だけど、なあ、馨。そうでない俺でもよかったのか? むしろ、そうでない俺なら、お前は愛してくれたのか?


 全ての怨念を、憎悪を、焦燥を、後悔を、慕情を超えて、ものすごい速さで年月が瞬き、流れ落ちていく。

 点滅する光と闇の渦のなか、良太郎は生涯最後の問いかけをした。


 ――意識のおわり、唇に降ってきた、この、優しく、柔らかく、熱い感触は、馨、お前なのか……?

 なぁ、かをる……。

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