《10》ー3 *
「なんの話をしに来たんだよ……」
「とぼけないでほしいな、さっきロビーで会った社長さんから懇願されたんだよ。ご親戚の方から、なんとか説得してほしい、って」
苦笑気味に放った言葉に対して、邦正の顔は険しい。
良太郎は思わず、馨との婚姻を告げられた日、円タクに乗る寿史を見送ったときの邦正の顔つきを思い出す。急に蘇った懐かしい日の記憶に良太郎が浸りかけた刹那、さらに邦正の厳しい声が飛んできた。
「義兄さん。どうして前立腺がんの治療を拒否しているんだい?」
「……行原、あいつ、余計なこと言いやがって……」
「どういうことなんだよ? 聞けば手術が必要だっていうのに、診察さえ行ってないらしいじゃないか」
ぼやいた良太郎を見据える邦正の口調はもはや、詰問だ。
それがなんとも可笑しくて、良太郎は乾いた笑い声を部屋に響かせた。
「お前がそんな心配してくれるとはな。笑っちまうぜ」
「話を逸らさないでくれるかな!」
邦正が良太郎の台詞を遮るように凄んだ。
まるで、ことの次第を知って心底怒っているような有り様だ。良太郎からすれば、ますますそれが面白くて仕方ない。まさか、邦正にこんなに己を案じているような素振りをされるとは。
全くもって意外極まりない。ありがたさなど微塵も感じず、良太郎はただただ、醒め切った心のなか、そう呟いた。
しかしながら、邦正はいまや切れ長の目をらんらんと怒らせている。
「僕はそういう、命を粗末にする人間は嫌いだな」
「はっ、お前に嫌われたって、別に悔しくねぇよ。だいたい亜紀のことがなけりゃ、お前とはとっくに縁が切れてんだよ。だいたい、そう望んだのもお前だろ?」
「……亜紀については、感謝している」
挑発するように笑う良太郎に、邦正が苦しげに語を零す。それが演技のようには見えなくて、良太郎は苛ついた。そして、だんだんと胸のなかで黒い怨念が湧き上がりつつあるのを認識し、顔を顰める。
これ以上、邦正に感情を掻き乱される人生はごめんだ、そう強く思っているのに。
――なのに、うまくいかない。どうしても、うまくいかない……! どうして、どうしてなんだよ!
瞬間、突如昂った感情に押し流されるように、憤怒の言葉が爆ぜた。
「勃たねぇからだよ!」
唐突に常務室に響き渡った良太郎の怒鳴り声に、邦正がぴくり、と眉を顰める。
「手術をしたら、二度と勃たないかもしれない、と医者に言われたからだよ……!」
「二度と?」
「そうだよ。俺はあの夏から何十年、ずっと勃たねぇんだよ! お前に陥れられてから、ずっと、ずっと! いいと思う女の前だけじゃねぇ、商売女ですら勃たねぇ! 男になれねぇんだよ!」
良太郎は一気に捲し立てた。
何十年と抱えていた恥辱が、ついぞ誰にも漏らしたことのなかった苦悩が、これ以上なく激しく、昼の穏やかな光が差し込む部屋にて爆発する。その剣幕に邦正は一瞬、息をのんだ。
しかし、すぐに切れ長の目を、すっ、と細めると、極めて冷静に良太郎に問いかける。
「……義兄さん、そんなにもう一度、セックスしたいの?」
「違ぇよ!」
予想していた問いだった。
だから、良太郎は迸る激情のままに邦正の質問を否定する。そして、絶叫する。あれからずっと、ずっと、胸の奥に溜めていた策謀、または歪んだ願望を。
「すべてはお前のせいだよ! 俺は、俺は……お前に咥えさせてやりてぇんだよ! 俺がやられたように! ずっと、ずっと、そう思ってきたんだよ! そのチャンスを失うようなら、俺はもう死んだって構わねえよ!」
目前の邦正が驚いたように目を見開いたのが、視界に入る。
その、馨に誰よりもよく似た眼差しが忌々しくて、良太郎は一息に、ずっと叩きつけたかった言葉を放った。
「俺は……! 俺はそれくらい、お前が嫌いなんだよ! お前に仕返しできなきゃ、死んだって構わないほど……大嫌いなんだよ!」
気がつけば、良太郎は椅子から立ち上がってわめき散らしていた。
感情がもつれる。こんがらがる。混線する。
それがわかっているから、今まで向き合うことも、口に出すこともしなかった事柄だった。しかし、結局、自分は邦正に、誰よりも嫌悪している人間に、人生を狂わされてばかりなのだ。
どうにも制御できないこの矛盾が馬鹿らしくて、可笑しくて、そして腹立たしくて仕方がない。
だからこそ、良太郎は息を弾ませながら、邦正を渾身の力で睨みつける。そうすることで邦正が、この場から、いや、この世から失せてしまえばいい。そう願わんばかりに、激しく。
しばらく続いた沈黙を割ったのは、邦正の方からだった。
それは、良太郎が全く思いもしない言葉だった。邦正は、静かに、噛んで含めるように、こう言ってきたのだった。
「……じゃあ、義兄さん。僕がいまここで、咥えてやれば、治療を受けるのかい?」
「はぁ?」
良太郎は呆然として邦正の顔を見つめ返した。
その表情に、冗談を言っている様子はない。むしろ、これ以上なく、沈痛で、真剣だ。
そして、なにより、憐れみに満ちていた。
いつか鉄橋の上で見せつけられた、良太郎がいちばん嫌いな邦正の顔だった。良太郎は思わず目を背ける。そして嘲笑うように答える。
「馬鹿言え。俺は男でいることを諦めたくねぇ」
すると、対する邦正も吐き捨てるように応じる。
「……どこまでも馬鹿馬鹿しいね。あなたは」
「なんだと?」
「よく考えてみなよ」
良太郎の瞳のなかで、邦正の唇がふっ、と歪んだ。
「男らしく、なんて考えが、義兄さんをここまで幸せにしてきたかい?」
「なんだよ……男であることを選べもせず、選びもしなかったお前に言われたくねえよ……! だいたいお前に言われることじゃねえ……!」
「なに言っているのさ。関係大ありだよ」
思わぬ邦正の反駁に、震える声で答えてみれば、邦正の表情が途端に険しくなった。
そして、次に、常務室に響き渡る大声で怒鳴り散らしたのは、邦正だったのだ。
「義兄さんが、そんなに男らしくあることに拘らなければ、姉さんだって、もっと幸せだったかもしれないんだよ! 強くあることだけに拘った挙句、好きだったくせに、愛してるのひとつも言えず、愛しているらしきこともできずに、義兄さんは姉さんに接してきちゃったんだろうが!」
「……黙れ!」
「その末、姉さんは死んだんだ! 僕からしたら、ちゃんちゃらおかしいよ!」
「うるせぇよ! やめてくれ!」
邦正の叫びに重ねるように、良太郎は再び喚かざるを得なかった。
突如持ち出された馨の存在に、良太郎の心はこれ以上なく乱れされていた。
だから、邦正がこう言いながら近寄ってきたとき、咄嗟に良太郎は逃げることができなかったのだ。
「そんな簡単に死なせなんかしない。姉さんのもとになんか逝かせないよ」
右足を引きずる音がカーペットを掠める。大きな机の向こう側から、ゆっくり邦正が良太郎の方に歩み寄ってくる。その瞳を良太郎の双眼から逸らさずに。
あの目だった。
切れ長の、黒目がちの、馨に似た目だった。
妖しい焔が、ゆらゆら、燃える目だった。
そして、毒蛇のように絡みつく目だった。
「……!」
気がつけば、良太郎は邦正に押し倒されてていた。床を転がる痛みよりも、邦正にそんな力強い挙動が可能だった驚きに、良太郎の意識は持っていかれる。同時に、それほどまでに自分が衰えていることにも。
しかしそれでも、自分の股間のジッパーを、他でもない邦正の手が弄るのを感じたたとき、良太郎は我に返らずにいられなかった。
そして、長くもつれた髪、それからそのすぐ後に、柔らかく熱いなにかが、下着越しの性器に触れた。
「……やめろ!」
熱い感触が邦正の唇であることに気付き、良太郎は混乱のなか、力一杯足を振り上げる。その蹴りは運良く邦正の右足に命中したようだった。
邦正が呻きながら良太郎から身を離し、そして、彼も床に不様に転がる。
ふたりの男は、しばし、息を荒げながら、床に座り込んでお互いの顔を見交わした。
「馬鹿が……」
良太郎が掠れた声を漏らす。
「……勃たないみっともないブツなんて、お前に咥えさせたってなんの意味もねえよ……それに嫌がるお前の口に捩じ込むからこそ、意味があるんだろうが……」
そのとき邦正は、良太郎の顔をただどこまでも凪いだ面持ちで見つめるだけで、なにも口にしなかった。
彼が言葉を放ったのは、乱れた髪を直しもせず立ち上がり、ゆっくりと足を引きずりながら扉に近づき、いまだ床に座り込んだままの良太郎へと視線を投げたときのことだった。
「亜紀のことは、感謝している。その僕の気持ちは本当だよ」
邦正がドアのノブを捻りながら、良太郎に告げる。
「ありがとう。義兄さん」
それだけ言って彼は良太郎の視界から消えた。
それまでの暴風雨のような激しいやりとりを、まるですっかり忘れ去ったかのように、去りゆく邦正の眼差しは、どこまでも静謐であった。
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