《10》-2
原宿を訪れたのは、あの東京オリンピックの日以来だった。
邦正にまんまと逃げられた苦い思い出の地だ、あれから近づくことなどなかった。それでも五月の今日、駅に降り立ったのは呼び出しを受けたからだ。それもよりによって、遠い日に逃げられた相手の娘に。
懐かしい記憶をなぞるように改札口を潜れば、待ち合わせ相手がひらひらと大きく手を振る。黄色のワンピース姿の亜紀の頭を一目見て、良太郎は思わず辟易したように語を漏らした。
「……はあ、お前も“聖子ちゃんカット”かよ」
「あれ、おじさん意外。松田聖子のこと、知っていたんだ。テレビなんか全然見ない、って言っていたのに」
「知っているさ。嫌でも目にするんだから。うちの若い女性社員、ほぼほぼその髪型で頭が痛くなる。全くなにが良くて、あんな十代の小娘の髪をみなで真似するんだか。だいたい亜紀、お前だってもう二十四だろ」
すると亜紀がぷうっ、と頬を膨らませて抗議してくる。
「やだ、まだ二十三」
「変わらねえよ。昔だったら嫁に行っている年頃だ」
良太郎は不機嫌も隠さず亜紀に言い放つ。
ゴールデンウィーク中ということもあり、周囲はあの日を思い返せと言わんばかりに人で満ちあふれている。違うとすれば、その人間の殆どが流行のファッションに身を包んだ若者ばかりということだ。なかには良太郎の理解の範疇を超えるような、やたらけばけばしい格好の男女もいる。
そんななか、所在なげに佇む良太郎は白のポロシャツにグレーのズボン、といった変哲もなにもない六十二歳男性の身なりであり、心は落ち着かないことこの上ない。
なので、良太郎は亜紀にこう呪詛を吐かずにはいられなかった。
「呼び出すなら、もうちょっと俺の行きやすい場所にしてくれないかね」
良太郎の苦言に、亜紀が苦笑いしながら肩をすくめた。
「たしかに悪かったと思っているけど、仕方ないじゃない。中原さんのお店、この近くなんだもん。さ、待たしちゃうから、早く行きましょ」
そして亜紀はさっさと雑踏のなかをずんずん歩き出す。
良太郎は心底亜紀に呼び出された用件とやらが面倒くさくて仕方なかったが、ここまで来て帰るわけにも行かない。
渋々ながら、良太郎も亜紀の背を追って人混みを割るように歩き出す。
頭の上に広がる五月晴れの空はやたら眩しく輝き、陽気はもう汗ばむほどだった。
中原章の雇い主である喫茶店のマスターは、店へと入り、勧められるまま席に着いた良太郎が出されたコーヒーを飲み干す間、ひとしきり中原の働きぶりと人柄を褒め称えた。
「いや、こんないい青年いませんって。えっと、佐々木さん、でしたっけ? とにかく彼は間違いありませんよ。高卒で山形から出てきて五年、勤務態度は真面目だし、遅刻もしない。オーダーの手際も良いって、お客さんにも評判なんです。そのうえ性格は朗らか。ぜったい亜紀さんを幸せにしますって」
マイセンらしきコーヒーカップを口に運びながら良太郎は、目の前で縮こまっている中原、と紹介された青年にぎらり、と視線を投げる。歳をとり、最近は柔らかくなったと言われど、なおも険しい良太郎の目つきだ。てっきり萎縮すると思っていた。
ところが中原は大人しそうな青年ではあるが、おどおどしつつも良太郎の顔から目を逸らそうとしない。
ほう、と良太郎は感心した。
――こいつ、こう見えてなかなか肝の据わった男なんじゃねえか。図々しい亜紀とはお似合いかもしれん。
とは、思ったものの、自分がこの場で承諾を出すべき問題ではないということもよくわかっている。だから良太郎は空になったカップを、がちゃん、と乱暴にソーサーに置くと、改めて中原に向き直った。
「で、中原さんとやら、あんたは俺になにを頼みたいんだ? 俺はこいつに職を紹介したに過ぎないんだぞ。親でも保証人でも、なんでもない」
「佐々木さん、それはよく分かっています」
「だったらなんで、俺をここに呼び出した?」
「おじさん、それはね、私が……」
「いや、亜紀ちゃん、ちゃんと僕から言うよ」
中原が隣から口を出しかけた亜紀を遮る。そして、中原は正面に座っている良太郎を真っ直ぐ見据えると、こう語を継いだ。
「佐々木さん、ただの亜紀の親戚でしかない方にこんなお願いをするのはご迷惑とはわかっています。ですが、亜紀は佐々木さんを心から信頼しています。そしていまだ、亜紀は自分の両親を恐れている。こんなことを知ったら、埼玉に連れ戻されるんじゃないかと」
良太郎はこそばゆさに肩をすくめる。
亜紀に信頼されていると言われても、彼としてはただただ困るばかりだ。
だから、予想はしていたが、次の中原の言葉を聞いて、良太郎は大きくため息をつかざるを得なかった。
「だから、僕たちが結婚したい旨を、亜紀のお父さんと交流のある佐々木さんからまず伝えてほしいんです」
「俺はあいつと交流なんて、ねぇぞ」
「でも、亜紀が就職するとき、保証人の書類を取り寄せるときは連絡とってくれましたよね?」
「だから、あいつに連絡したのは、そのときが最後だ。しかも電話一本しただけだ。会ってもいない」
良太郎は憮然とした。
途端に有線の音楽が強く耳に飛び込んでくる。記憶が正しいならば、松田聖子の新曲「夏の扉」だ。特に興味もないのに、しっかり覚えてしまっている自分に少し呆れる。
そして、この状況を、仕方ないと半ば諦め、中原の意向を受諾しようとしている己のお人好し加減にも。
いったい、いつから、こんなものわかりのよい人間に自分はなったのか。
しかしながら、この先の自分の生の短さを考えれば、もうどうでもいいことなのかもしれない。今日も体内の不穏な疼きを感じるにあたり、皮肉げながら、そんな諦観にも似た思いもある。
――こんなことで、今度は俺から連絡を取るとはな。もうあいつとは縁が切れたと思っていたのに。
ともあれ、そう心中で呟きながら、良太郎は大きく息を吐いた。
「……わかったよ。だがな、連絡するだけだ。結果については期待するなよ」
良太郎の返事に、亜紀と中原の顔は、わかりやすいほどに弾けた。満面の笑顔だ。
「ありがとう、おじさん!」
「ありがとうもなんも、逃げようがないじゃねぇか。父親に似て悪知恵が働きやがって」
そう、嘆息混じりに嫌々要請を受け入れた良太郎に、中原がとどめのように唾を飛ばす。
「僕たちが結婚できたら、もちろん式にも呼びますからね! あ、仲人も頼みたいです!」
良太郎は苦虫を噛み潰したような顔で、破顔する若いふたりの「現代っ子」をやり過ごすしかない。
なお、カウンターの奥でニマニマしているマスターに対しては、事情も知らないで、この糞が、としか思えなかった。
――これが、俺があいつと会う、最後になるのだろうか。
いそいそとカウンターから出された二杯目のブルーマウンテンを啜りながら、良太郎の胸をそんな感慨を、ふと、掠める。
特別に寂しさは感じない。むしろ、せいせいするくらいだ。
しかし、一瞬、心に浮かんだ空虚感、または、いつだかも感じたことのある黒い靄は、なんなのだろう。
数日後、ゴールデンウィーク明けのことだった。
良太郎は会社の常務室にて、邦正を待っていた。
亜紀と中原と会った日の夜、良太郎はいけすかない用件はさっさと済まそうとばかりに、邦正に電話をした。
思いのままに暴力を振るったあの日以来、五年ぶりの接触である。邦正は電話口にて驚いた様子を隠さなかったが、少なくとも声からはたいした動揺は見せずに良太郎に応じた。亜紀の件も淡々と受け止めたようだった。
しかしながら、良太郎が電話を切りかけたとき、邦正はこう口を挟んだのだ。
「義兄さん、そういう重要なことなら、直接話したいんだけど」
「はぁ? お前にとっては重要かもしれんがな、俺にとってはこうして口で伝えちまえばいい程度のことなんだよ。それに俺は忙しいんだ」
だが、電話口で忌々しげにそう語を放った良太郎に邦正は折れなかった。
「そうはいっても、僕は父として、亜紀のことについて、ちゃんと直に礼を言いたい。会社まで行くよ。いつがいいかい」
それは、頑として譲らぬ様子の口調だった。たとえまた良太郎に嬲られることがあったとしても、構わない。言外からはそのような覚悟も滲み出ていて、良太郎は正直戸惑う。
だが結局、電話の最後には、邦正が会社を訪れることを渋々認めたのだ。
良太郎は苛々としながら壁の時計を見る。約束の時間は午後二時だった。そしていまは既に二時二十分。
――遅えよ。俺は時間にだらしない奴は嫌いだぞ。また殴られてぇのか。
しかしながら、受付に電話をしてみれば、既に邦正は到着しているとのことなのだった。受付の女性社員が電話口で話すには、こういうことであった。
「小野寺様、常務の部屋に向かう途中に、ロビーでたまたま居合わせた社長に、声をかけられてたんですよね」
「社長に?」
嫌な予感がした。
果たして、その良太郎の予感は、約束より三十分遅れで部屋に顔を出した邦正の第一声によって裏付けられたのだった。
五十代後半らしく、顔の皺は深くなりながらも、肌色は白く、いまだに長い髪をひとつにまとめて背に流したその姿を現した瞬間。
邦正は良太郎に言った。
「……義兄さん、死にたいのかい?」
投げつけられた思わぬ言葉には、わかりやすいほどに怒気が込められていて、良太郎は椅子に座ったまま、軽く眉を顰めた。
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