第十話 昭和五十六年 ~黄昏~
《10》-1
「私、昔っから父さんの長い髪があまり好きじゃなかったの」
亜紀が語るには、彼女が家を飛び出してきた理由は、両親、それも主に父である邦正との軋轢であったという。
「ヒッピーみたい、って家へ遊びに来た友だちから揶揄われることもあったし。それで、切ってくれるようずっと頼んでいたんだけど、父さん、頑として私の話を聞いてくれないのよね。なんでも叔母さんと約束したから、切れない、って言って。呆れたわ。そんな大昔の約束より、娘のことを思ってくれないのかって。そこがうまくいかなくなったそもそもの原因ね」
良太郎が九年ぶりに会った邦正に暴力を振るった日の深夜、ダイニングテーブルの前に座った亜紀は、そう言いながら、ボブカットの黒い髪を掻き上げた。
その仕草は、どことなく色っぽく、彼女がいままさに女と少女の狭間にいることを、向かいに座った良太郎に思い知らす。
「それから、なにかに付け気が合わなくなっちゃって。でも母さんも父さんのことばかり庇うのよ。仲良くしろって、言うこと聞けって。とにもかくにも、ぜんぜん私の気持ちなんかわかってくれない。だからもうずっと両親とは口聞いてなかったんだけど、この春、高校卒業しても就職せず家でだらだらしていたもんだから、先日、本気で父さんが怒っちゃって。で、出てけ、って言われたから飛び出しちゃったのよ」
「それは完璧にお前が悪いんじゃねえか。働きもせずにいたら、そりゃ、普通怒るだろうがよ」
呆れて良太郎が言葉を吐くと、亜紀はこれ見よがしに大きく溜息をついた。そして、良太郎にふてくされたような視線を投げかけて、独り言つ。
「やっぱりおじさんは、父さんの味方ね。結局、仲良いんじゃん」
「阿呆。俺は世間の一般常識を言っているだけだ。最近の若い奴は甘えが過ぎるんだよ。それに、子どもが親の言うこと聞くのなんぞ、当たり前じゃねえかよ」
頭上のダイニングの蛍光灯が切れかけているのだろうか、ぱちぱち、と微かな音を立てながら点滅する。
「そりゃ、そうだけど」
亜紀は口を尖らした。良太郎はその顔を見て思う。そういう仕草を見せるあたり、まだこいつは子どもなんだな、と。
すると、亜紀が思いもしない方向に話を振ってきた。
「ねぇ、おじさん。亡くなった叔母さんって、おじさんの奥さんだったんでしょ? 写真見て、確かに綺麗な女性だと思ったけど、そんな素敵な人だったの? 父さんがいまだに、固く約束を守らずにいられないほどの」
良太郎は眉を顰めた。己の死んだ妻の話を面と向かってされるのは、久々のことであったから、咄嗟に答えかねたのである。
もっとも馨のことを相対して話す人物がいるとすれば、他でもない亜紀の父である邦正しかいなかったが。
馨に対して思うことはたくさんある。あり過ぎるほどに。
だが、しばらく白髪頭を意味もなく撫でつける仕草を何度か繰り返したあと、良太郎は結局、こう答えるに留めた。
「……馨は、いい女だったよ」
「そうなの。なら、おじさんは、まだ叔母さんのこと好き?」
またも答えに困ることを亜紀はさらり、と聞いてくる。しかし、良太郎の口からその答えは意外にもすぐ、ぽろり、と零れ落ちた。
「ああ」
良太郎の明快な答えに亜紀の顔はほころんだ。そして、大きな声で心から羨ましげに叫ぶ。
「いいなぁー! 私も、早くそんなに長く思い合える人に出会いたいなぁー!」
「……別に思い合えたわけじゃ、ない……」
「え?」
亜紀が意外そうに目をぱちくりさせる。
これ以上馨の話題が続くのは心が軋んでならないので、良太郎は椅子から立ち上がりながら口早に話題を変えた。
「それはそうと、もう寝ろ。ガキがいつまでも夜更かししてるんじゃねえよ」
そう言いながら良太郎は亜紀を六畳間へと、前夜と同じく追い立て、さっさと間仕切りを閉める。
戸を閉める寸前、戸惑いの表情を浮かべた亜紀の顔がちら、と視界を掠めた。
しかし、戸惑っているのは良太郎その人も同様だ。
――なんで、俺は、こんなことを。邦正が心配している通り、なんらかの手で、あの女をめちゃくちゃにしてやってもいいわけじゃないか。なのに、なんで。
昨夜に続いて横たわるダイニングの床は、相変わらず冷たく、固い。
良太郎は落ち着かぬ気持ちをやり過ごすべく目を瞑る。
しかし、なかなか寝付くことができない。かえって気持ちは、ざあざあと秋雨に打たれる水面の如く波紋が広がる。
今日思いのままに嬲ったばかりの、邦正の苦痛に歪んだ顔が脳裏に浮かんだ。
誰よりも憎たらしいその面影に、程なく、心臓の鼓動が、どきり、どきり、と早くなっていく。
結局、十数分ののち、良太郎は目をかっ、と見開き、ゆっくりと床から半身を起こした。そして、タオルケットを台所の傍に寄せ、立ち上がる。
そして、良太郎は、乱れる心持ちに押されるままに、間仕切りの扉をゆっくりと開けた。
亜紀は枕に黒髪を乱し、布団のなかに身を横たえている。すでにうとうとしていたようだったが、良太郎の気配に薄目を開いた。
「……おじさん?」
囁きかけてくる眠たげな少女の顔をまじまじと見てみると、亜紀はそれほど邦正に似てはいない。母親似なのだろうか。良太郎は薄闇に立ちながらそんなことを考える。
そして、そのとき、良太郎はその事実に心底安堵したのだ。
亜紀が馨の面影を湛えていたら、そのとき、良太郎は亜紀の身体を漁る衝動を抑えられなかっただろうから。
それでもなお、心のなかではこんな欲情がどろどろと澱んだ黒い渦を巻いては、いた。
――いや……「それ」が出来ぬとも、いまここでひと思いに、こいつの喉を捻ってしまえば、済むことなんじゃないか? そうしてしまえば、あいつへの復讐としては十二分に事足りる。
いましかない、やっちまえ、やってしまえ、と己をせき立てる声が、遠雷のように脳内で轟いている。
しかしながら、十数秒の沈黙ののち、その声を押しのけるように良太郎の脳裏に浮かんだ言葉は、こうだ。
それは良太郎にとって意外なものでしかなかった。
――ここは、満州でもないし、戦時中でもない。そもそもいまは、そういう時代ではない。そして……。
良太郎は、頭に浮かんだ思わぬ感情をぎりぎりと噛み締める。
――そして、こいつは、馨じゃない。ましてや、邦正でもない。なにも知らない、ただの子どもなんだ。
途端にがくり、と強張っていた肩から力が抜けた。
そうして、一旦そう感じてしまえば、良太郎に出来たのは、荒ぶる報復の念をうやむやにすべく、大きく息を吐いたのち、こう亜紀に声をかけることだけだったのだ。
「……まだ起きてたのかよ。さっさと寝ろ。明日は早いぞ」
「……へ?」
「いつまでもここにお前を置いておくわけにはいかないんだよ。だから働き口を紹介してやる。たしか取引先の出版社が雑用係を探していたはずだ。寮もあるとのことだったし。わかったな?」
良太郎はそう亜紀に語を投げつけると、ぴしゃり、と荒々しい仕草で間仕切りを閉じた。
胸を駆け巡る、数多のどす暗い逡巡を断ち切るかのように。
――結局この好機になにも出来ないのか、俺は。まったくもって、男じゃねえな。
再び床に転がり、タオルケットを身体にかけながら良太郎は独り言つ。
――まあいい。亜紀を手中にしておくのは邦正への牽制になる。人質として扱うなら、こうしておくのも手だろうよ。
そう思ってみても胸中はなおも、激しくざわめく。だが、良太郎は目を閉じた。いろいろなことがあり過ぎた今日を早く終わらせてしまいたい、そんな気持ちになっていたから。
久々に馨の顔が瞼の裏に浮かぶ。いつも通り、優しく笑いかけてなどは、くれなかったが。
その翌日、さっそく亜紀を連れて、取引先に厄介払いしようとしてみれば、ちょうど猫の手も借りたかったんですよ、それも佐々木さんの紹介なら間違いないし、と意外な程喜ばれた。
さらに意外なことに、亜紀は働かせてみればなかなかに有能で、東京の暮らしに、あっさりと慣れてしまった。
そしてそれから早くも、五年の月日が流れ去ろうとしている。
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