《9》-3 *

 翌朝は早くから激しい雨が降っていた。


 そういえば秋雨前線が上昇してたな、などと良太郎はニュースの天気予報を思い出す。そして、夕べのうちに亜紀を家に上がらせておいて良かった、と思う。

 別に亜紀のことを思ってではない。濡れ鼠になった若い女が自分の家の前に座り込んでいる、などという騒ぎになったら、とてつもなく困るからだ。つまりは良太郎は世間体という観点からしか、亜紀のことを考えていなかった。


 で、あるから、閉じたままの扉の向こうに向かって、こう声をかけたのも、その感情からでしかない。


「おい、起きているのか。起きて顔洗ったら、さっさと帰れよ。俺はもう会社行くから」


 すると、微かにむにゃむにゃ、というような頼りない返事が聞こえてきた。どうやら起き抜けらしい。 

 ともあれ、ちゃんと話が伝わっていればいいが、と思いながら、良太郎は語を継ぐ。


「鍵はテーブルの上に置いておくからちゃんとかけて出ていけよ。ポストのなかに返しておいてくれればいいから」


 そして良太郎は会社に向かう。まだ出勤には早い時間ではあったが、亜紀と同じ空間に長く身を置いていたくなかったし、なにより六畳間にある箪笥に近付けなかったので、良太郎は昨日から着替えていないのだ。

 幸いなことに、会社には泊まり込んだ翌日用の着替えを常備してある。だったら、他の社員が出勤してくる前に、常務室でさっさと身支度を整えてしまおう、そう考えたのだった。


 傘を手に玄関を出る寸前、なにかの甘い香りが鼻を擽った。昔を思い出させる懐かしい匂いだった。


 それがテーブルに置かれたままの花沼の梨の香りだと気付いたのは、激しい雨のなかを足早に会社に向かって歩いているときのことだ。


 ――俺は遠くに来てしまったのに。まさか、今になってこんなことで故郷を思い出すとはな。しかし、それも今日あの女が出て行ってしまえば、また縁のないものになる。


 会社は良太郎のアパートから徒歩二十分ほどだ。近頃酷くなるばかりだという通勤ラッシュと無縁でいられるのはありがたい。

 それでも、天から降り注ぐ秋雨は激しく、会社に着く頃には革靴は半分濡れてしまっていた。


 早く建物のなかに入ってしまおう、そう思って忙しく動かしていた良太郎の足が、ぴたり、止まる。


 行原印刷工業株式会社の本社ビルの前に、黒い傘を差した壮年の男が立っているのが、目に入ったからだ。


 降り止まぬ雨のなか、その男のひとつにまとめた長い髪から、水滴がぽたぽたと垂れている様子を、良太郎はある種の感慨を持って、ただ静かに受け止めた。



「お前の方から顔を出すとはな」


 会社の常務室に入ってから、ふたりはしばらく無言でいたが、先に語を放ったのは良太郎の方である。


 良太郎はタオルで濡れた身体を拭いながら、淡々と声をかけたが、対する邦正といえば、髪と身に纏った白いシャツとグレーのズボンから滴る水もそのままに、じっ、と、ただ佇むのみだ。

 五十はとっくに過ぎてるはずなのに、その顔といえば皺は寄っているものの、思った以上に若々しく、相変わらず顔立ちは整っており、肌はやはり白い。しかし、その表情は沈痛そのものだ。切れ長の双眼も、床に広がるベージュのカーペットへと向けたままだ。


 良太郎は、刹那、寿史に馨を娶るように言われた日のことを思い出した。

 だが口にしたのは別のことだ。


「お前、さすが帝大出だけあって、頭いいな。よりによって、俺の家でなく会社に来るとはよ」

「……」


 邦正はなおも黙りこくったままだ。

 だから、良太郎は勿体ぶって告げてみせる。彼が自分のもとを訪れた理由、そのことを。

 それも、自ら罠に飛び込んできた獲物を、ゆっくり、嬲るような口調で。


「亜紀とかいう、可愛い可愛い娘のことか?」

「……やっぱり、義兄さんのところに転がり込んでいたのか……」


 邦正が目を下に落としたまま、ぼそり、掠れた声で呻いた。良太郎が思った通りの反応だった。

 そして、ついで邦正の口から漏れた懇願も。


「亜紀を返して下さい」

「返せだと?」


 良太郎は雨を拭ったタオルを応接用のソファーに投げ捨てながらせせら笑う。予想通りとはいえ、彼の目的、そしてこの場における自分の優位を思い知らされてしまえば、気持ちは愉快になるばかりだった。

 彼は嗤いに顔を歪め、ぎらつく目で邦正を睨みつける。


「人聞きの悪いこと言うんじゃねえよ。まるで俺が攫ってきたみたいな言い草じゃねえか。あっちから転がり込んできたんだろうがよ」

「……義兄さん、お願いです。どうか、亜紀には手を出さないでやってくれませんか」

「お前が俺に、そんな口聞けると思っているのか? それに……」


 良太郎はそう語を零しながら、邦正にゆっくりと歩み寄る。そして、いきなり足を振り上げると邦正の濡れた靴を勢いよく踏みつけた。


「ぐっ……!」

「人にものを頼むのには、それなりの態度ってものがあるだろうがよ!」


 それから、よろけた邦正の頭に手を回す。ひとつにまとめられた白髪交じりの長い黒髪が指先に絡む。急速に心に甦った憎悪と報復の喜びのままに、良太郎はこれ以上なく強くそれを掴み引き寄せた。

 邦正の切れ長の瞳が苦痛に歪む。


 良太郎からすれば、極めて愉快な状況でしかなかった。この九年、心の奥に眠らせていた激情が胸に満ちてゆく。


 良太郎は邦正の耳元で囁く。


「土下座してみろ」

「髪、離して、くれな、きゃ、それもできないよ、義兄さん……」

「そうだろうな」


 良太郎はそういうと邦正の髪を掴んだ手を離した。すると邦正は良太郎が要求した通りの体勢になる。自ら良太郎の足元に身を屈した邦正の髪が、カーペットを撫でる様子を、良太郎はただ楽しげに見つめていた。視線の先では邦正が床に額を擦り付けながら、こう叫ぶ様子が見受けられる。


「義兄さん、僕のことならどうしてもいい! 九年前のことも僕からばらしたりしない、だから、亜紀は!」

「ふざけんなよ!」


 良太郎の口から言葉が爆ぜると同時に、邦正の肩を強烈な蹴りが襲った。

 たまらず邦正がカーペットの上に転がる。だが、良太郎の蹴りは止まらない。さらには、口からとめどなく溢れ出す罵声も止まらない。


「そうだよなぁ! 可愛い娘となれば、お前の特別だもんなぁ!」


 なおも良太郎は邦正を蹴り飛ばす。そして、そのとき急にある言葉を思い出す。


 遠い日、夏の梨畑で掛けられたあの言葉だ。それは、まさにいま、邦正に投げつけてやるためにあるような台詞だった。だから、良太郎は躊躇わずこう喚いた。


「知っているか? 誰かの特別を奪うっていうのは、とてつもなく美味いもんなんだって、よ!」


 そして良太郎は身体を屈め、いまや動くこともできない邦正のシャツの襟を掴むと、彼の半身を無理矢理引っ張り上げるようにしながら囁いた。


「他でもない、の父親が言っていたことだ。だから、間違いねぇな」

「……うっ!」


 首を締め付けられて苦しいのだろう、邦正が苦しげな叫び声を上げた。だが、許しを乞おうとはしない。良太郎には些かそれが気に食わない。


 良太郎は邦正から手を離すと、テーブルの上にある灰皿を手に取る。


「お前にはしてやりてぇことがあるんだがな……まあいい。なぁ、せっかく灰皿あるんだから、煙草、吸えよ。ライター持ってるんだろ?」


 邦正がその声によろよろと上半身を起こす。そして、良太郎の険しい目に促されるように、ズボンのポケットをゆっくりと探り、煙草とライターを取り出した。ついで、震える手で煙草に火をつける。


 すかさず、良太郎は火のついた煙草を邦正の手から取り上げ、シャツをたくし上げるや、彼の白い胸元にそれを押し付けた。じゅっ、と皮膚が焦げる音がすると同時に、邦正がまた悲鳴を上げ、床に転げる。


 良太郎はけらけら嗤いながら、その様子を見守った。そして、とどめとして、一発の鋭い蹴りを邦正の右足に食らわせる。


「俺はもう、足悪くねぇぞ。ようやく疼かなくなった。生まれつき弱っちいお前とは違うんだよ! 俺は!」


 結局、良太郎が一方的な暴力から邦正を解放したのは、他の社員が出勤してくる時刻、ぎりぎりのことだった。


「せいぜいお前の娘のことは、可愛いがってやるよ」


 最後にそう嘯いた良太郎の前で、邦正はなにも言わなかった。

 右足を引きずり、肩をがくりと落として部屋から出て行く邦正の背を、良太郎はひたすらに冷たい視線で見送った。



 その日はいつもより仕事が捗った。


 なので、良太郎が自宅に戻ったのは、日にちが変わる寸前だった。


 カンカンカン、と、音を立ててアパートの階段を登ってみれば、部屋には灯りが付いている。半ば予想していたことではあったが、良太郎はどうしたものか、と大きくため息をつく。


 邦正に思い存分暴力を振るったことで、長年の憂さは確かに晴れてはいた。しかし、それでこの問題が解決するわけではないのだ。


 ――俺はどうすればいいんだ?


 ドアは内側から開いた。

 今日は白いブラウスにジーパン、といった格好の亜紀がそこにいた。


「……おじさん、おかえり。遅かったね」


 ――こうとなってしまえば、俺はこいつを「人質」に取るしかないのか? しかし、どうやって。


 その一日、仕事に夢中になることで意識の隅に追いやっていた疑問が胸に疼く。

 すると、思いもしないことが起こった。


 玄関ドアを閉めた途端、亜紀が良太郎の両手をいきなり握りしめてきたのだ。良太郎はぎょっとして、思わず動くことも出来ず、その場に固まった。


 亜紀の火照った手から伝わる熱が、じわりじわり、と身体中を駆け巡った。

 ついで、こんな亜紀の声が耳を打つ。


「おじさん、お願い。ここに置いて。そのためなら、私、なんでもする」


 亜紀のあどけない顔は懸命さに満ちている。そして、次の言葉を言うために自分の帰りを遅くまで待っていたのだということを悟るにあたり、良太郎は動揺した。


「ねえ、おじさん。私、そのためなら、なにされてもいい。いいんだよ」


 狭いダイニングに、なんとも言い表わしがたい空気が満ちる。


 しかし、結局、数十秒の沈黙ののち、良太郎が出来たことといえば、亜紀の手をゆっくり引き剥がしながら、こう呟くことぐらいだったのだ。


「……テレビドラマの見過ぎだろうがよ、不良少女が」


 緊張に身を固くしたままの少女にそれだけを告げて、良太郎は亜紀に背を向けた。

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