《9》-2
動転する身を翻してアパートのなかに入ってしまえば、諦めて帰るかと思いきや、亜紀はなかなかにしつこかった。
いや、別にしつこく扉を叩かれた訳でもない。チャイムをがんがん鳴らされたわけでもない。亜紀がしたことといえば、良太郎が部屋に籠もってからも、静かに扉の前で座り込んでいただけである。甘く香る梨が入った袋を膝に抱えて、ただ、じっと。
しかしながら、良太郎は落ち着くどころではなかった。最後に邦正と会った九年前、たしかに彼は言っていた。自分には九歳になる娘がいると。
とすると、あの若い女は邦正の娘だろう。だいたい花沼の梨を手にした、「小野寺」と名乗る女など、そのくらいしか心当たりはない。だが、なぜよりによって自分の家などを訪ねてきたのか。
良太郎にはそれもまた、まったく思い当たる節がない。
時計の針が夜八時を指しても、扉の外には亜紀の気配がする。
時々体勢を変えているのだろうか、がたん、がたん、とドアに背をぶつかる音が響いてくる。それは気晴らしにテレビを付け、ボリュームをいつも以上に上げてやりすごそうとしても、なかなか消えてくれない。
そうこうするうちに、九時のニュースが始まった。帰りがけに買ってきたスーパーの惣菜で適当な夕飯を済ませ、あとは風呂に入り寝るだけ、という時分である。しかし、まだ扉の前の物音は消えないのだ。
時折、アパートの他の住人が階段を上がってくる音が響いてくると、良太郎はいったい隣人からどう亜紀は見えているのかと気が気でなくなる。警察に突き出した方がいいのかもしれない、と、幾度も考えたが、自分も後ろめたい身ではある。邦正との関係を聞かれた挙句、過去の出来事が藪から蛇となるのはなんとしても避けたかった。
――どういうことだよ。なんなんだよ、いったい。
やがて、ニュースも終わりを告げる。
意を決して、大きく溜息をつきながら、良太郎はまだ着たままだったワイシャツ姿でダイニングの椅子から立ち上がると、恐る恐る玄関に立つ。そしてドアを開ける。
思った通り、亜紀はまだそこに座り込んでいた。
九月とはいえ、この時間となれば夜風も寂しさを孕んでいる。膝を抱えた亜紀が顔を上げ、ふたりの視線が絡んだ。
先ほど思った通り、まだあどけなさの残る眼差しが良太郎の目を射貫く。
良太郎は観念した。
「分かったよ……なんだか知らねえが、家にとりあえず入れよ……」
亜紀が大きく安堵の息をつきながら、にこりと破顔した。
良太郎が残しておいた惣菜の天ぷらの残りに、亜紀はぱくぱくと食らいついた。
よほど腹が空いていたのか、なかなかにいい食いっぷりだ。良太郎の椀についだ冷えた豆腐の味噌汁をも、彼女は美味そうに啜る。
良太郎はワイシャツの裾をまくり上げた腕を組んで、亜紀の夕食の様子を黙って見守っていたが、やがて、皿が空になったのを見計らって、ぼそり、と声を放つ。
「いわゆる家出少女かよ」
すると、亜紀が小さな声で答える。いきなり訪れてきて家の前に居座る行動と、先ほどの豪快な食いっぷりにしては、大人しく、弱々しい声音だ。
女というよりかは、まだ少女のか細い声だった。
「……うん」
「なんで俺のところなんかに来たんだ」
「父さんの手帳に、住所と名前が書いてあったから。それしか私、東京につてがなかったし、それに……」
「それに?」
「なんか、大事なお友達みたいだったから、もしかしたら家に入れてくれるかな、と思って」
「大事なお友達? 馬鹿言え、俺はお前の父親とそんな関係じゃねえよ」
「そうなの?」
亜紀が目を見開いた。なんとも意外そうな顔つきだ。
「あんなに、大事そうに、古い写真が手帳に挟んであったから、てっきりそうかと思っていた」
「写真?」
「そうよ。おじさんの結婚式の写真。白黒の古い写真」
その亜紀の言葉に、良太郎は遥か遠い昔となってしまった馨との祝言を思い返す。たしかに、あの日、写真館にて一族で記念写真を撮影した覚えはある。とすると、そのなかには邦正も映っているのだろう。
「おじさん、若い頃と変わってないね。ハンサムで。特に目がそのまんまで、さっき見たとき、すぐわかった」
良太郎は失笑した。
「あいつが、そんな写真を大事に取っていたとはなぁ。だが、それは、俺目当てじゃねえよ」
「そうなんですか」
「そうだよ」
すると、良太郎の皮肉めいた顔つきが気になってか、亜紀はその後黙り込んでしまった。気まずい沈黙の帳が、狭いダイニングに満ちる。付けっぱなしだったテレビの音声が、存在を主張するかのように大きく響いてくる。
やがて、良太郎が嘆息しながら語を吐いた。
「わかったよ。今日は泊まっていけ。俺、台所で寝るから、好きに布団使え」
「え、でもそれは、申し訳ないです」
「そんなところだけ遠慮するようなら、そもそも、押し掛けてくるなよ。阿呆らしい」
良太郎は呆れたように言い放つ。
「明日には花沼に帰れよ、いいな」
そして六畳間から枕とタオルケットを持ち出す。まだ秋の初めだ。このくらいの寝具でも今日はしのげるだろう、そう思いながら。それから、亜紀を半ば無理矢理に六畳間に追いやり、ダイニングの扉をぴしゃり、と閉める。
ひやり、冷たく固いダイニングの床に転げると、背中は遥か彼方のイルクーツクの
――台所と六畳間に間仕切りがあると、こういうときは助かるんだな。
逃げるように東京に出、独り暮らしを始めて約二十五年。
そんなことはいままで、考えもしなかった事柄であるから、良太郎にはこの状況が忌々しくもなんとも意外で、思わず唇を歪ませる。
そして亜紀の気配を意識から遠ざけるべく、タオルケットを勢いよく頭の上から被った。
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