第九話 昭和五十一年 〜忘れた頃に来た女〜

《9》-1

 会社の大会議室を使った臨時株主総会が終わったのは、昼を超した午後一時過ぎのことだった。


 といっても、特に紛糾したわけではない。会合はつつがなく進み、その日の議案であった人事は揉めることもなく可決された。


 であるから、散会する人波のなか、良太郎はとりあえずの安堵の心持ちで席を立つ。すると社長の行原が上機嫌で声をかけてきた。


「いやぁ、無事に終わってよかった、よかった。これからは常務としてよろしく頼みますよ、佐々木さん」

「こちらこそ」


 良太郎はなにしろ腹が減っていた。緊張が解けたからにはなおさらだ。だからさっさと遅くなった昼飯でも食べに行こうと行原へは簡単極まる返答で済まし、会議室を足早に去ろうとしたわけだ。


 しかし、良太郎の足は止まった。行原が小柄な身体を張って良太郎の前に立ち塞がったのだ。

 良太郎は眉を顰めた。


「なんか用ですか? 俺、立ちそばでもさっさと食ってきたいんですけど」

「いや、就任祝いに、一緒に昼食でも、と思ったんですけど……。相変わらず食い気がないですね」

「俺は腹にたまれば十分なんですよ」


 良太郎は行原にぶっきらぼうに答え、部屋を出ていく。

 いまや行原印刷工業株式会社の社長である彼に、そんな口の聞き方をできるのは、社内では良太郎くらいだ。


 そんな彼に、反感を持つ者もいる。しかし、行原その人が「佐々木さんにはシベリアでよくしてもらった間柄だから」と取りなすことで、良太郎は会社内での地位を保つことがなんとかできていた。


 もっとも良太郎もそのことはよく理解していたので、口調以外は行原に対して調子に乗ることはない。そのような立ち振る舞いを続けていたおかげで、定年退職まであと数年、という微妙極まる時期に、万年部長で終わるとばかり思っていた自分に、中小企業とはいえ、常務の座が転がり込んできたとしたら、それは幸運な出来事といえるのだろうか。


 そのことは、良太郎にもよくわからなかった。

 と、いうか、わからない、というより、どうでもいい、というのが本音であった。

 

 このまま気楽な独り身として死んでいくであろう自分の人生の終わりが見通せる年齢に、とっくに良太郎はなっていた。


 廊下を進めば、すれ違う社員たちが慌てて礼をする。給湯室の前を通り過ぎてみれば、後ろからお喋りな女子社員たちの囁き声が耳を掠めた。


「あれ、今度常務になった佐々木さんよね。なかなかのロマンスグレーって感じ。ちょっと目つきがね、怖いけど」

「そこも男らしくてかっこいいじゃない。そういえば、奥さんも子どももいないらしいわよ、あなた、狙い目かも」

「いやだ、まさかぁ。でも、だったら愛人契約なんていいかもね」

「なーに言っているのよ、馬鹿ねえ」


 ――馬鹿野郎、全部聞こえているぞ。それにしても近頃の日本の女はどうなっているんだ。嘆かわしいったら、ありゃしねえ。


 良太郎は毒づく。

 おかげで、顔も自然と不機嫌に歪んでしまったらしく、会社の玄関を出るまでには、怯えた社員たちの視線が幾つも背に刺さった。若手であればあるほど、その傾向は顕著だ。


 ――本当に、近頃の若い奴らは。俺はお前らの年齢のときには、戦地やシベリアで命を削っていたんだからな。この惰弱が。平和ボケが。兵隊にでもなってみろってんだ。


 またも眉間に皺が寄る。彼には、周囲の若い世代が、鬱陶しいことこの上なかった。

 しかしながら、五十七歳ともなってみれば、そんな自分が時代錯誤なのも身に沁みている。そして思い返す。


 結局、自分は戦後という時代に置いて行かれたのだと。


 ――俺は二度も敗残兵になったんだな。


 近頃は、街の雑踏のなか、ふと、そんな認識を噛みしめたりも、する。



 遅くまで残業しているのが常の良太郎も、その日は早く帰された。本当は会社の財務関係の資料に目を通していたいところだったが、わざわざ行原が常務室に顔を出し、苦笑交じりにこう言ってきたのである。


「佐々木さん。上の役職の者が遅くまで仕事していたら、下の者も帰るに帰れませんよ」


 社長直々にそう言われては、良太郎も立つ瀬がない。

 彼は溜息交じりに退勤の準備をし、会社を出、九月はじめのまだ蒸し暑い夕風のもと、家路を辿る。家は、あいもかわらず十条にある小さな安アパートだ。


 常務となったには、もっといいところに引っ越せばいいのに、と行原には言われたが、誰が訪ねてくることもない。誰とも暮らすこともない。そうとなれば、良太郎にとって、ここは手狭でもなんでもない。簡素ではあるものの、一人暮らしには格好の住居だった。

 だから、カンカン、と靴音も高く階段を上り、アパート二階の自宅ドア前に人影が見えたときは、肝が冷えた。


 孝敏がまた訪れてきたかのように錯覚したのだ。


 伊藤のついでになぜか孝敏まで殺し、邦正と遺体を埋める羽目になってから、早くも九年が経過していた。

 しかしながら、あの夜の記憶はなお、鮮明だ。額がぱっくり割れた孝敏の死に顔は、いまだ、夢に出てくる。伊藤に身体を漁られる悪夢に比べれば、何倍もましであったが、それでも目覚めるたびに陰鬱な気分になる。


 だが、思わず挙動を固まらせた良太郎に、人影が声を掛けてきたとき、その疑念は氷解した。

 甲高く、そして、まだ幼ささえ感じさせる、若い女の声がしたのだ。


「これ、お土産」

「は?」

「もっといいもの買ってこようと思ったけど、あいにくウチの辺り田舎で、それくらいしかなかったの」

「はあぁ?」


 釣られてなんとも間抜けな声を漏らした良太郎に、女がなにか白い袋を差し出す。大きく丸く膨らんだ袋を見れば、夕闇の下ではあったが、そこにはなにか、オレンジ色の文字が印字してあるのがわかる。反射的にそれを目で辿り、そして、良太郎は呆気に取られた。


 それもそのはずだ。

 良太郎の目には“埼玉のニコニコ果実 花沼の梨”という一文が飛び込んできたのであったから。


 夕暮れの赤い光のなか、立ち尽くす良太郎に、袋を差しだしたままの姿勢で、若い女が立っている。まじまじと見てみれば、まだ化粧もしていないあどけない顔立ちが目前にあった。よく会社の若い女子社員がしている髪型だ、たしか、ボブカット、というのだったか。パーマをかけていない肩までの黒髪が風に揺れる。彼女の着ているピンクの半袖Tシャツと長くて白いスカートがふわふわと舞い、視界を掠める。

 そして、ふっくらとした唇が、おずおずと、動いた。


「……ねえ、おじさんは、佐々木良太郎さんでしょ?」

「……なんで俺の名前を知っているんだよ?」


 驚きを隠せぬまま応じてみれば、女はなおも訳の分からぬことを言う。


「おじさん、お父さんのお友達でしょう?」

「お父さん? お友達?」

「私、小野寺亜紀って言うんだけど」

「……小野寺……?」


 次の瞬間、あの夜から意識して脳から排していた邦正の面影が、胸に爆ぜる。


 呆然としつつも、白いビニール袋から漂ってくる、甘く芳醇な梨の香りが、やけに懐かしく鼻を擽った。


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