《8》-3

 どのくらい自分は、夜の河原で立ち尽くしていたのだろうか。


 それはそのあとになってから思い出そうとしても、うまくいかない。

 良太郎が正気に戻ったのは、荒川の水の轟き、そして、邦正の落ち着いた声音に鼓膜を打たれてからのことだった。


「……さて、義兄さん。このあとは僕を殺すだけ、ってところなんだろうけど。そうはさせないよ」

「……なに?」

「僕がオリンピックの開会式の日、義兄さんに呼び出されてから、周囲に気を配っていなかったとでも思うのかい? だとしたら、義兄さんは本当におめでたいね。僕だって同じように、義兄さんのことは調べていたさ。住所だって、勤務先だって。それに僕は家族に、自分が帰ってこなかったら、警察に通報するように常に言ってあるんだよ」


 良太郎はライターの光のなかで微笑む邦正の言葉に唖然とした。しかし、邦正の冷静な声は、なおも暗い河原に響き渡る。


「さっき堤防の下に、このへんでは見かけぬ車が停まっているのを見て、僕にはすぐに義兄さんが近くにいるとわかった。だから、そのことを、兄さんの名前と住所を添えて家族に公衆電話で伝えてから、伊藤先輩と落ち合ったんだ。だから、明日の朝までに僕が家に帰らなかったら、義兄さんは間違いなく警察に捕まる」


 良太郎は目を見開いた。

 ようやく邦正を殺せると思ったのに、なぜか足元に転がっているのは伊藤、そして孝敏の死体で、しかも邦正に逆に脅されているという現況に、心は完全に動転していた。

 こうとなると、良太郎としては邦正に呪詛の言葉を喚き散らすくらいしかできないではないか。


「……この悪党が!」

「義兄さんに言われたくないよ。それはそうと義兄さん、これからどうするの? 車でこのふたりの死体でも、埋めに行くわけ?」

「あれは俺の車じゃねぇよ! 俺は乗ってきただけだ」

「ああ、そうなんだ。じゃあ、ひとりでなんとかしないといけないねぇ。でも、ということは、車の運転はできないってことかな? そうするとなおさら困ったことになるね」

「……うるさい……!」


 良太郎は邦正を睨みつけて怒鳴り散らす。

 ライターの火に照らされた邦正の顔は、炎の光加減でのっぺりと闇のなかに浮かんでいる。そのせいか、心なしか目の前の彼は実年齢より年若く見え、不気味ですらあると良太郎は感じていた。その感情を打ち消すためにできることといえば、そうすることくらいしかなかった。


 それにしても、あまりにも忌々しい状況に良太郎の気は狂わんばかりだ。

 たしかにすべてのことを投げ打って邦正を殺すつもりではいた。だが、ここで邦正を殺せば、伊藤と孝敏をも手をかけたことが警察に芋づる式にばれるとなれば、状況は変わってくる。三人も殺したことが分かれば、極刑は免れないことくらいは理解できるからだ。


 流石の良太郎にも、いくらなんでもそれは恐ろしすぎた。

 しかし、そうとなると、いったいどうすればいいのか。良太郎は思わず頭を抱えた。


 ところが、邦正がそれから良太郎に申し出た言葉は、この状況以上に想定外なものだった。


「なんだったら。僕が手伝ってあげてもいいけど。僕、運転できるし」

「……はぁ?」


 良太郎は唖然とする。しかしながら邦正は飄々としたものだ。


「つまり、死体を埋めに行くのを手伝ってあげてもいいと言っているのさ。僕にとっても厄介な相手を片付けてくれた礼としてね。……ただし、条件があるけど」

「条件?」

「そう。金輪際、僕に近づかないこと。もちろん僕だけじゃない。家族にもだ。特に、僕には今年九歳になる娘がいる。もしも危害を加えたら、僕は今夜のことを全て警察にばらす。どう? お互いに、いい条件だと思うんだけど」


 秋の夜更けの河原で大の男ふたりの死体を前にして、悪びれもせず共犯関係を提案してみせる邦正に、いまやすっかり良太郎は恐れを感じていた。


「僕はその昔、あの墓地で、義兄さんと同じやり方で、他でもない義兄さんに復讐を遂げてしまったから、共に同じ地獄に堕ちることくらい、怖くもなんともないんだよね」


 薄笑いを浮かべての邦正の言葉に、いつしか夜風のせいでない震えが胸中を駆けずり回る。

 そして、こんな声も。


 ――こいつはやっぱり、危険だ。怪物だ……。いや、毒蛇だよ……。


 そして結局、良太郎は邦正の提案を飲むしかなかったのだ。



 数十分後、良太郎が苦労してカローラの後部座席に孝敏と伊藤の死体を積み込んだのを確かめると、運転席に座っていた邦正は慣れた手つきで車のエンジンをふかした。そして助手席に良太郎が座ると、思い切りよくアクセルを踏む。


「どこに向かうんだ」

「近くにちょうどいい里山があるんだ。あそこなら、まず見つからない。ところで、聞き忘れていたんだけど、この、義兄さんと連れ立ってきた人はどういう関係なんだい?」


 邦正がハンドルを掴んでない左手で、後部座席の孝敏の遺体を前を向いたまま指差す。その口調も、死体を埋めに行くといういまのシュチュエーションを全く気にかけてなどいない、という気さくさで、良太郎は改めて肌を粟立てざるを得ない。


「お前の叔父だよ」

「ああ、なるほど。父さんの名前を口にしていたのは、そういうわけか」


 邦正が納得したように頷く。

 それを見て、良太郎はぽつりと、彼にずっと質したかったことを口から漏らした。


「お前、なんで自分の父親を殺したんだよ」

「父さんを殺したのは僕じゃない」

「嘘つけ。お前が井戸の傍にいたのを目撃されていると聞いたぞ」


 すると、暗い車内で、邦正がすっ、と切れ長の目を細めた。薄く笑いながら。


「ああ。あれはね、姉さん。僕の着物を着ていたから、分からなかったと思うけど」

「……馨……?」


 邦正の思わぬ答えに、良太郎の全身に鳥肌が広がる。


 義理の兄がぶるっ、と身体を震わせた気配を感じ取って、運転席の義弟は視線を前から動かぬまま、くすくすと声を立てて笑った。


「父さんはね、生まれつき足が悪かった僕を気に食わなくて、そりゃあよく暴力を振るったんだ。それには姉さんもすごく怒ってた。姉さんが僕に髪を伸ばすように言ったのは、父さんが、僕か、姉さんか咄嗟に区別がつかないようにだ。そうすれば、逃げ出せることもあったから。ところが父さんはそれに怒って、今度は姉さんにも手を出し始めた。許しがたいことにね」


 車の外は墨汁を溢したかのように黒く、どこを走っているのか良太郎には見当も付かない。しかし、ここがこの世のどこでもない異界である、と言われても、そのときの良太郎には納得できてしまうような気がした。


 そんな心待ちをなぞるように、邦正の告白は続く。


「だから僕たちは父さんを殺すことにした。僕より力のある姉さんがやる、と決めた。だけど僕は、姉さんが疑われて欲しくないから、僕の着物を着るように頼んだ。そういうことさ」


 ――「ずっと僕らは、分け合って生きてきたんだから」。


 いつか遠い日に言われた邦正の言葉を、良太郎はいまさらのように思い出す。深い疲労と目眩を感じ、助手席に深く背もたれると、目を瞑る。


 そのとき瞼の奥に浮かんだ馨の切れ長の瞳は――記憶に残るどれよりも美しく、妖しいほどに魅惑的で――。

 そして、気高いまでの、狂気を孕んでいた。


 暗い水の底に、見る者を引きずり込む目だった。

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