《8》-2 *

 車はやがて国道十七号から県道に入り、埼玉県内を進んでいた。

 あたりは寂しくなり、車の量も目に見えて少なくなってきたものの、金曜の夜ということもあってか、それでもライトはひっきりなしに行き交う。テールランプの赤い灯がアスファルトの路面に跳ねている。


「それにしてもお前、いい車乗ってやがるなあ。これ、トヨタのカローラか?」

「ああ、そうだよ。去年発売されたばっかだぁ。結構したんだぜ」

「……そいつは、いいご身分なことで」


 良太郎はこれ見よがしに舌打ちする。


 彼は今日もくたびれた赤いネクタイと焦げ茶のスーツ姿だが、対して孝敏の身なりは、初めて会ったときとは比べものにならないほど羽振りが良い。紺のジャケットから見え隠れする右手首には金のブレスレットまで光っている有り様だ。すっかり白くなったぼさぼさの髪と無精髭さえなんとかすれば、良太郎の上司だと説明されても違和感がないかもしれない。


 孝敏に渡している金がすべて興信所に渡っている、と信じているほど良太郎はお人好しではない。自分に会いに来るたびに身なりが整っていく孝敏を見るに辺り、おそらく自分の金が勝手に使われているであろうことは想像が付いていた。それをきつく質したことも一、二度ならずある。


 しかし、いつしか、良太郎は孝敏をとっちめることをやめた。


 ――こいつが共犯者として役に立つのなら、金くらいくれてやる。


 良太郎は次第にそう思うようになり、孝敏の存在を割り切ることに決めた。彼の詳しい素性を知りたいとも思わなかったので、住んでる場所や家族構成も確かめたことはない。と、いうか、興味が持てなかったのだ。彼が邦正の叔父であり、邦正を殺したいほど恨んでいること。それだけで良太郎には十分すぎたのである。


 ――だから、こいつとも今夜で縁が切れる。いいことだよ。


 車窓から吹き込んでくる秋の夜風が冷たくて、窓を閉めようとドアについているハンドルを回転させながら良太郎はそう思う。

 良太郎にとってのすべては、邦正をこの世から消すためであり、その目的を果たしたら孝敏とはすっぱり別れてやろうと心に決めていた。

 そういう意味でも、今宵は待ち焦がれた夜であった。孝敏の気分も上々のようで、彼の唇からはいつの間にかに鼻唄が漏れている。


 そのメロディが、昨年、来日公演で日本中を熱狂させたビートルズのなにかの曲であることに気付き、良太郎は思わず心中で笑った。


 ――たしか「ハード・デイズ・ナイト」とか言ったっけな。よく若い連中が口ずさんでいるやつだ。似合いもしないもの、歌いやがって。ああ、早くこいつともおさらばしたいもんだよ。あと僅かの辛抱だ。


 次第に道は細くなり、対向車も少なくなってきた。窓の外を見れば、わずかな街灯の白い灯の向こうには、田んぼらしきだだっ広く黒い闇が広がっている。


 花沼町まではもうすぐだった。

 あれ以来、近づくことも叶わなかった故郷が、じりじりと迫ってくる。



 孝敏が車を止めたのは、荒川らしき川の堤防の下だった。


「この堤の向こうの河原で、毎週金曜の午後八時、邦正と伊藤は落ちあっているとのことだ」

「間違いねぇんだろうな」

「興信所からの情報だ。大丈夫だろう」


 そこは人家からも離れており、堤防と田んぼ、そのなかにある小さな林の茂みが黒いシルエットとなって浮かび上がるばかりで、車のライトのほかには、ぽつりと置かれた公衆電話ボックス以外の灯はない。


 しかし、良太郎には分かった。

 よりによって、と遠くなった春の花見会の日を思い出す。


 ――あいつと出会った河原だ。ここは。


 あれから何十年が経過したのだろう。良太郎は長き年月を指折り数えてようとして、途中でやめる。そんなことになんの意味があるのだろう。間違いないのは、ここで結んだ邦正との因縁が、いまこの瞬間に至るまで続いていることだ。

 そして、それを断ちに自分はここにいまいるのだ、ということ。


 孝敏と良太郎はなんとはなしに無言になり、車を降りた。

 そして黒い斜面を這い上れば、水のざわめきが聞こえてくる。登りきった堤防の眼下に広がるのは、滔々と流れる荒川の黒く幅広い水面だった。

 川の中央に視線を投げれば、自分が幼い頃にはなかった大きな堰の黒い塊が見える。


「あれが待ち合わせ場所の目印らしいぜ。さあ、八時まであと十分ばかりだ。俺たちも隠れようぜ」


 ちょうどよいことに、河原には枯れかけた葦と芒の茂みがあった。ふたりは身を縮めてそのなかに潜り込んだ。枯れ葉と枝がちくちくと身体のあちこちを刺すのが些か煩わしいが、スーツのポケットから果物ナイフを取り出して柄を強く握りしめるに及び、意識を持ってかれることはなくなった。


 ――満州で、タコツボの中に潜みながら、敵兵を待ち伏せしているときみたいだな。


 いつしか掌にじっとりと滲んだ汗でナイフが転げ落ちないように気をつけながら、良太郎はぼんやりとそんなことを考えていたときのことだ。


 不意に河原の石を踏み締める足音が、響いてきた。それもふたり分の。


 ふたつの黒い人影が、河原をこちらに向かって歩いてくる。

 そのうちひとりが、口元に手を差し伸べ、煙草に火を付ける様子が至近距離で見えた。


 ライターの火に浮かび上がった顔を囲う長い髪が、河原を渡る夜風に、ふわり、揺れる。


 邦正だった。


 咄嗟に茂みから飛び出しそうになった良太郎の膝を孝敏が掴んだ。そして、ぎらり、と夜目に分かるぎらつく双眼で良太郎を見据え、少し待て、と無言で制する。良太郎はなんとか堪えて、茂みのなかでより小さく身を縮こませた。

 

 すると、風に乗って、煙草の火のほかには真っ暗な河原を、邦正と伊藤らしき会話が聞こえてくる。

 双方とも聞き覚えのある声だった。


「しつこいね、伊藤先輩も。僕はいまさら、先輩たちの仲間に戻る気はないんだよ」

「俺は諦めねえぞ、小野寺。お前はいい同志だったじゃねぇか。俺たちのもとを逃げ出したのも、真紀子がお前を誘ったからだろう? お前の意志じゃないはずだ」

「違うよ。僕は僕の意志で離れたんだ。どちらかというと、真紀子がそれに同調して付いてきたに過ぎない。僕はもう、先輩たちのに付き合う義理はないんだ」


 河原の砂利が大きく掻き乱せれる音がした。

 邦正と伊藤を見て見れば、いまやふたりの影は重なり合っている。どうやら伊藤が邦正の襟首を掴んで引き寄せたらしい。


「どうしてだよ」

「僕には国を守るだの、変えるだの、いわゆる大義というか、そういったすべてのことが馬鹿馬鹿しいんだ」


 声を荒げた伊藤に対して、邦正の声はか細い。しかし、声音は細いながらも底知れない拒絶と冷えた諦観にも満ちていて、ふたりのやりとりに耳を傾けている良太郎の背筋を、ぞわっ、とさせた。

 そんな良太郎の目前で唐突に、場面は急変した。


「結局、どんなに社会が変わっても、結局、僕は僕でしかないからさ。それがわかっちゃったから、もう、僕にはなにもかも、十分なんだ」

「……裏切りやがって!」


 突然、伊藤がそう鋭く叫ぶと、邦正に殴りかかったのだ。不意を突かれた邦正が声もなく地表に崩れ落ちる。黒いふたつの塊が、至近距離でもつれ合うように河原を転がる。伊藤はどうやら、邦正の身体に馬乗りになって、彼の首を締め上げているようだった。


 邦正の苦しげな呻き声が耳に飛び込んでくる。

 それを認識したときが、良太郎の我慢の限界だった。


 気がついたときには、良太郎は果物ナイフを振りかざして、伊藤の黒い背をめがけて、茂みから身を躍らせていた。こう絶叫しながら。


「馬鹿野郎が! こいつを殺していいのはなぁ、この俺だけなんだよ!」


 そして次の瞬間、良太郎の両手に懐かしい感覚が蘇った。

 銃剣で敵兵を刺し殺したあのときと、まったく同じ感触だった。河原に断末魔が響き、伊藤らしき黒い塊が踠き、そして動かなくなる。


 指先の生暖かい血のぬめりを感じとりながら、良太郎は大きく息を吐いた。

 良太郎が手にしたナイフは、確かに、伊藤の背を突いていたのだ。


 そうしてしまえば、あとやることは、ただひとつしかない。良太郎は身を反転させ、地に崩れた伊藤の隣に座り込んでいる邦正らしき影に躍りかかる。その表情は暗がりでは、確かめることはできない。しかし、良太郎は構わず邦正の喉と思われる箇所に刃を振りかざす。

 獣のような雄叫びを口から漏らして。


 ――やった、俺は、俺は、ついにこいつを……!


 ところが、良太郎の身体は後ろから強く引き止められた。遅れて茂みから飛び出た孝敏が良太郎を羽交い締めにしたのであった。


「やめろ、邦正をまだ殺すな! 晴男兄貴のことを聞き出してからだろ!」


 その声に、一気に片をつけるつもりだった良太郎は激昂した。伊藤を刺し殺したばかりの彼の脳は、いまや、平静ではいられなかったのだ。


「なんだよ! 邪魔するな! 殺らせろよ!」


 途端に、乱闘が起こった。ごつごつした石が、ひっきりなしに頭に当たる。孝敏と良太郎は暗い河原を転がりながら殴り合う。そして、良太郎が孝敏の上になり、思い切り頭を殴りつけたときのことだ。


 嫌な音がした。

 そして、孝敏の身体が、ぐにゃりと力を失い、横に転がる。


 良太郎が我に返ったのは、すぐ横から響いてくる邦正の静かな声を耳にしてからだ。


「ああ、義兄さん。流石というか、なんというか。二人も殺しちゃうなんて」


 そして、良太郎の目を光が射る。邦正がライターの火を付けたのだった。


 孝敏が大きな石に頭を打ちつけて、どす黒い血に顔を汚しながら、伊藤の横で死んでいるのが、明かりのなかに浮かび上がった。


 ぱっきりと、まるで梨の実のように割れた白い額が、やけに生々しく網膜に焼きつく。


 そして、邦正といえば、長髪を乱しながらも、緩やかに唇を歪めて微笑んでいた。

 相変わらずの切れ長の目で、息を切らして思わぬ展開に呆然と立つ良太郎を見つめながら。

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