第八話 昭和四十二年 ~ハード・デイズ・ナイト~
《8》-1
「あのときは、全く余計なことしてくれたよなぁ。佐々木さんよぉ」
「だからその件はさんざ、謝ったろ。しつこいよお前。それにこうして今日は、ようやく花沼に向かうことができてるんだから、いいじゃねぇか」
助手席に座る良太郎は、孝敏の毎度のぼやきに眉を顰めながら答えた。車窓はすでに暗く、秋の夕暮れはもうすぐ闇に溶けようとしている時刻だ。しかしながら国道十七号線を走る車の流れは多く、ひっきりなしに対向車の白いライトがふたりを照らす。
良太郎がその眩しさに顔を背けるように運転席の孝敏の横顔をちら、と眺めれば、彼の表情は先ほど苦言を漏らしたにしては楽しげだ。
――それもそのはずだな。こいつにとっては念願の日が来た、ってところなんだから。もちろん、それは、俺にとっても、そうだ。
そして良太郎は強く唇を噛み締めながら、心に強く誓う。
――今度こそ、俺はへまはしねぇ。今度こそ、あいつを仕留めてやる。
東京オリンピック、つまりは良太郎が呼び出した邦正に逃げられてから、三年が経過していた。
あの直後、良太郎の独断による邦正の呼び出し、ひいては彼を取り逃したことを打ち明けられた孝敏は、烈火の如く怒った。
「馬鹿野郎! 勝手なことしやがって! なんのために俺たちが六年も金払い続けて、あいつを追っていたと思うんだ! 俺が花沼まで様子を見に行くまで待てと言っただろうが!」
「さっさと行かなかったお前が悪いんだよ!」
ふたりの怒鳴り合いは、長屋中を揺るがし、果てには警官まで駆けつける殴り合いをやらかした。結局、警官には、なんとか、酒の席でのただの揉め事だ、と言い含めて帰ってもらったのだが、またふたりきりになってからも、狭い家のなかの雰囲気は最悪だった。
「とにかくこれで、邦正に近づくのが難しくなったことは間違いねぇ。あいつだって、身辺を警戒してくるだろうからな」
あちらこちらの壁が派手にへこみ、ちゃぶ台やら食器の破片やらが乱雑に転がった部屋のなかにあぐらをかいた孝敏はそう忌々しげに呻いた。良太郎としては、自分のやったことの結果であるから、なんとも答えようがない。
しかしそれでもふたりが決裂せずに済んだのは、ともに「邦正を殺す」という目的を捨てていないことを互いに再確認したからだ。良太郎は、けじめとして、それまで折半していた興信所への金を、自分が七割引き受けることを申し出た。安月給のサラリーマンでしかない良太郎には、正直痛い出費だ。しかしそれでも、彼は諦めたくなかったのだ。
なんとしても、邦正を殺すことを。
こうして、良太郎と孝敏の共謀関係はなおも続くことと相成り、そして今年、昭和四十二年、思わぬ情報がふたりに届く。
それも、良太郎にとっては思いもしない獲物をも牙にかける、またとない機会を伴って。
事態が急変したのは、その二ヶ月前、夏の終わりのことだった。
晩夏の夜、いつものように金をせびりに来た孝敏が、良太郎の家に来るやいなや、思わぬことを言い出したのだった。
「興信所から、ちょっと面白い報告が届いているんだよな」
「面白い?」
良太郎は顔を顰めながら素早くドアを開け、孝敏をアパートの自室のなかに引き込む。
良太郎が長らく暮らした長屋を去り、十条駅近くのアパートに引っ越してから、三ヶ月ほどが過ぎていた。長屋が前を通る道路の拡張工事のため撤去されることになったのが転居の理由だったが、警察沙汰を起こして居心地が悪くなっていた良太郎は、好都合とばかりに新居に移ったのだ。
もう四十八歳になるというのに独り身という素性は、多少不動産屋に訝しげに扱われたものの、それも勤め先の固さと社歴の長さで事なきを得た。今度の家も六畳の和室と四畳半の台所という質素さではあったが、トイレはもちろん、狭いながらも風呂付き物件だったのがありがたい。
引っ越し時には、少しながら家具も新調した。そんなわけで台所に置かれた真新しいダイニングテーブルの前に孝敏はいそいそと座すると、いきなりこう述べた。
心なしか、声を潜めて。
「実はさ、邦正が脅迫されているらしいんだよ」
「脅迫? 誰に? 父親殺しのことでか?」
「いや、違う。というのも……どうやら、あいつ、行方知れずだった間に、ちょっとした政治活動やっていたらしいんだよな。つまりは、活動家っていうか。まあ、違法なことをしていたわけじゃないらしいんだが」
そこまで孝敏の話を聞いて、良太郎の脳裏に懐かしい光景が浮かぶ。それは、帝大から帰省して小野寺家に戻るたびに、縁側でなにやら小難しそうな本を読み耽っていた邦正の横顔だった。
だから、良太郎は納得したように呟いた。
「……あっち寄りのか」
「そうそう。まあ、それであちこち転々としてたから、消息がなかなか掴めなかった、ってこと。どうやら今の嫁さんもその仲間だったらしい。しかし、お前さんの故郷はなかなかに保守的な土地柄だろ?」
「まあ、そうだな。革新かどっちか、っていったらそっちの方だろうな」
「だろ? それでさ、どうやら邦正はさ、昔の仲間に、勤め先に素性をばらすぞ、って脅されているらしい。そういうことだそうだ」
「そういうことかよ」
良太郎はようやく話に合点がいったとばかりに頷く。
しかしながら、邦正が脅されているというこの機会をどう生かすべきか、すぐに考えが浮かぶものではない。それは孝敏も同じであるようで、すっかり白くなった無精髭を撫でながら、どうしたものかという顔をしている。
しかしながら、次に孝敏が明かした事実に、良太郎は計り知れない衝撃を受ける。それも、全く予想もしていなかった方向からの。
「……これにどうつけ込むべきかねぇ。まあ、いまわかってるのは、そういう事情と、邦正を脅している男の名前くらいなんだけどさ。伊藤、っていうらしいんだが」
「……なんだって……?」
視界がぐらり、と揺れた。
孝敏が明かした名前に、良太郎は本当に頭を殴られたかのように椅子の上でよろめく。ついで、心の臓が裂けるような激しい動悸を刻み始める。
それは、良太郎が忘れたことのない名前だったから。いや、忘れようとしても叶わなかった、という方が正しいのかもしれない。
夏の墓地。草いきれ。降りそそぐ眩しく、白い陽光。
邦正の燻らす煙草の匂い。
そして、地べたに転がる自分を捩じ伏せた、あまりにも禍々しい裸体の感触。
さらには、獣のような荒々しい呼吸。
己のあらゆる箇所を弄ったいかつい手。
蘇ったおぞましい記憶に息を震わせながら、良太郎は独り言つ。
「……間違いねぇ。そいつは、あいつだ……。忘れたことはねぇ……だったら、やることはただひとつだよ……」
「は?」
孝敏は思わぬ良太郎の反応に目を丸くしている。だが、良太郎はそんな孝敏に構うことなく、殺意にぎらつく目で前を見据えると、確固たる意志を持ってこう語を放った。
「……そいつごと殺っちまおう。それしかねぇ……!」
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