《7》-4
十数分後、ふたりは、原宿駅近くの細い鉄橋にいた。下の線路を、轟音をたてて山手線が通り過ぎていくのに目をやり、邦正がおかしげに語を放る。
「静かなところ、って言ったのに、こんなところでいいの? 義兄さん」
「仕方ねぇだろ。どこもラジオだの、テレビだの、中継がうるせぇんだから」
「そうだね。まったくもってお祭り騒ぎが過ぎるのは、僕も同感」
良太郎はその邦正の言葉を意外に感じ、思わず顔を見返す。
「お前、そういえば職場の連中と離れ離れでいいのかよ」
「いいんだよ。会社は、競技場には入れないけど、神宮外苑に入れる券は手に入れられたらしくて、だから皆でそこに行ったらしいんだけど、僕は自由行動にしてもらったんだ。僕は、五輪になんて興味ないから、ちょうどよかった」
電車はひっきりなしに鉄橋の下を走り、轟音が会話を遮り、ふたりの髪を揺らす。なので、良太郎は全神経を集中して邦正の声を拾わねばならなかったが、不思議と彼の声音は耳にすっ、と入ってくる。
まるで親しく懐かしいものを受け止めるかのように。
「まったく、日本って、おめでたい国だと思わない? ねぇ、義兄さん。僕はそういうとこ、好きじゃないんだよな」
「それは俺も同じだ」
「あれ、意外。義兄さんのことだから、率先して日本万歳、ってやっているのかと思ってた。昔みたいに」
そうして邦正はくぐもった声で、くすくす、と笑う。
その仕草も笑い方も、なにもかもが昔と変わらない。自分が忌避し憎んだあの姿と、なんら変わらない。
その光景を目にして、良太郎の胸には改めて邦正への嫌悪感、そして怨念が渦を巻き出す。
同時に、自分が確かに生きていると確かめるのに足りる熱が、心に満ち溢れる。
「でも、僕から見れば義兄さん、そんな変わったように思えないんだよなあ。なんといっても、その目がさ」
「……俺はお前とそんな話をするために呼び出したんじゃねぇよ! お前が俺にやりやがったことを、忘れてねぇんだよ!」
遂に良太郎の口から激情が爆ぜた。すると、邦正も唇を歪ませる。
「それを言うなら、僕だって、姉さんを奪われたことを
「馨が死んだのは俺のせいじゃない! お前のせいじゃねぇか!」
すると邦正が目を細めて良太郎を見る。
それはどこまでも憐れみに満ちた視線だった。
「……ああ、義兄さん。本当にあなたはかわいそうな人だね」
「なんだと?」
「義兄さん、あなたは、人からの愛され方、そして愛し方さえも知らなくて。ただただ強くあろうとだけして、それが正義だと勘違いしたまま、いまに至って。その末、時代には捨てられて」
息を飲んだ良太郎の前で、邦正はただ笑う。憐れみ、そして蔑みを双眼に満たして。
「これがかわいそうでなくて、なんだというのさ」
「……やかましい! 惰弱なお前に言われることじゃねぇ!」
良太郎の絶叫が鉄橋に炸裂した。
ひたすらに腹立たしかった。強いはずの自分を、弱いはずの邦正に嘲笑われ、それだけでなく、憐れみまで向けられたこと、それが良太郎の脳髄を「あのとき」以上の強い恥辱として駆けずり回っていた。
そして、今日の目的を改めて、はっきりと思い出す。
心に刻み込まれた邦正への長年の殺意を、くっきりと認識する。
また一台、眼下を山手線の列車が駆け抜けていく。
巻き上がる風を頬に感じながら、良太郎は強く、強く、念じた。
――次、次こそ電車が来たら、こいつを突き落としてしまおう。電車の音に紛れてしまえば、悲鳴を上げられても分かりゃしねえ。そうだ、それでこいつとは金輪際、おさらばだ。
「義兄さんの人生なんか、なかったことになっちゃえばいいんだ」
黒髪を風に巻き上げられながら嘯く邦正へと、じりじり、にじり寄る。鉄橋の端に少しずつ、追い詰める。確実に突き飛ばすべく、両腕をゆっくり、慎重に、邦正の身体に差し伸べる。
その次の瞬間、視界をなにかが掠めた。
抜けるような青い空になにかが大きく舞ったのだ。
「……!」
良太郎の両眼は上空に奪われた。
空に、スモークが鮮やかに浮かび上がっている。五機のブルーインパルスが青空に舞い、それぞれ円を描いたのであった。
五個の円は重なり合い、みるみるうちに目指したかたちを成す。
やがて、青空にこれ以上なく見事に、オリンピックのシンボルマークが出来上がった。
どこか遠くから、歓声が聞こえる。
いったい、自分はどれだけの間、頭上を見上げていたのであろうか。
恐らく相当長い時間だったのだろう。
なにしろ、良太郎が我に返ってみれば、それこそ煙のように、鉄橋から邦正の姿は消えていたのだから。
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