《7》-3

 黒光りする受話器を持ったまま、良太郎はしばし無言でいた。


 動悸がする。息が荒くなる。暑さのせいでない汗がワイシャツを湿らせる。こうしてひとりで電話をかけられるのは僅かな時間しかないんだ、とどこかで理性が語りかけてくるが、どうにも口が動かない。あれほどまでに再会を望んでいたというのに。

 対して、邦正はまるでこの久方ぶりの会話を楽しむような口ぶりだ。


「義兄さん、いまどこにいるんだい。働いてるの? 職場?」

「……ああ」

「そうなんだ。仕事中じゃないの? 大丈夫?」


 離れていた年月など感じさせない気軽さで言葉を紡ぐ邦正の声に、良太郎の背筋はざわざわとざわめく。いま、邦正は四十二才のはずだ。加齢のせいだろう。受話器越しの声は記憶にあるそれよりかは、掠れて聞こえる。しかし間違いなく、耳に響くのはあの声だ。


 ――そうだ、この声を最後に聞いたのは――。


 ――義兄さん、ねぇ、どんな感じ? 僕、知りたいな――。


 瞬間、おぞましい記憶が良太郎の脳裏に蘇り、彼は思わず受話器を床に叩きつけたい衝動に駆られた。だがそれをなんとか堪え、唇を動かす。


 喉はすでにからからに乾いていた。


「そんなことはどうでもいいんだ……、俺は、お前に会いたいんだよ……それで、電話してんだよ」

「そうだろうね。で、義兄さんはいまどこにいるの?」

「東京だよ。東京の板橋だ」

「そう。意外と近くにいたんだね」


 邦正の口ぶりはあっけらかんとしていたが、良太郎の頭に浮かぶ面影はどこまでも禍々しい。切れ長で黒目がちの瞳、風にたなびく長髪。男にしては白い肌。まとわりつくような視線。おそらく電話口の向こうには、変わらぬ姿の彼がいる。

 誰よりも危険な男がいる。その思いは、確信に近い。


 その恐怖を振り切るかのように、良太郎は早口になりながら唾を飛ばす。一刻も早く用件を伝えてしまって、この電話を終わらせたい、もはや、その一心で。


「お前、東京に出てくる機会ないのかよ」

「そうだね、義兄さんがこちらに出てくるわけ、いかないもんね。聞けば、たかさんが亡くなったときでさえ行方知らずだったっていうし」


 さらり、と揶揄され、ついでに誰よりも気になっていた母の消息まで明かされ、良太郎はいよいよ電話を叩き切りたくなった。だが、必死に堪えて、言葉を絞り出す。


「分かっているなら、そっちから出てこいよ……!」

「そうは言うけども。僕は新しい仕事に就いたばかりでそう簡単には出ていけないのさ。……そうだね、会えるとしたら、十月」

「十月?」

「うん、十月十日。東京オリンピックの開会式の日。あの日、僕の職場、全員で東京見物するんだよね。なんでも慰安旅行の代わりということらしくて。そのときだったら、会えるけど」


 良太郎は、よりによりっての世紀の祭典の日に待ち合わせを求めてきた邦正に一瞬戸惑う。

 しかし、拒否する理由もなかった。


「……土曜日か。その日は半ドンなんだけどな。まあ、いいだろう。じゃあ、午後三時に会おう。場所はどこがいい」

「神宮外苑の近くだったら、どこでも」

「じゃあ、原宿駅に来い。絶対だぞ」

「……了解」

「すっぽかしたら、ただじゃ置かないからな」


 最後にそう凄んだ良太郎の声に、笑い声をくすくすと投げかけて、電話は切れた。


 途端に受話器を持つ手から力が抜ける。だらりと腕を下げれば、黒電話のコードもぐにゃり、と下に撓んだ。

 良太郎はしばらく、その格好のまま動けずにいた。

 ついに殺すんだ、という高揚感。しかし、それはまだ何ヶ月も先、というわけのわからない焦り。

 そして、つかみどころのない、心のなかを覆う黒い靄。


 あれはなんだったのだろう、と良太郎はそのあとになって思う。

 罪悪感ではないはずだ。たとえ己の目的が殺人であったとしても、邦正はそうされるだけのことを自分にしている、そう信じていたから。ずっと、ずっと。


 ともあれその日から、世間を賑わす五輪へのカウントダウンは良太郎にとって、他人とは全く別の意味を持つようになったのだ。


 そのことだけは、目の背けようのない真実だった。



 昭和三十九年十月十日の東京は、昨日までの雨が嘘のような晴天だった。朝からラジオ、それにテレビは沸きに沸き、なにもかもかが晴れやかな空気に満ちている。


 ――出来過ぎだろうが。


 職場の窓から見る青い秋空を眺めながら、良太郎はそう胸のなかで独り言つ。

 しかし、そんなに心に余裕があったわけでもない。いよいよこの日が来た、来てしまった、と朝から誰よりも落ち着かなかったのは良太郎その人であるし、加えて職場には仕事が山積みであった。

 

 良太郎はその日もきつく結んでいたネクタイを心なしか緩めつつ、算盤を弾き続ける。しかし、昼を過ぎても業務は終わりを見せない。

 ついに時計は午後二時を指し、良太郎はたまたま経理室に顔を見せた行原に直訴することを余儀なくされた。


「副社長。ちょっと所用があるもので、上がらせてもらいたいんだが」

「佐々木さん、珍しいですね。誰かと待ち合わせて、開会式でも見にいくんですか?」

「……まあ、そんなところだよ」


 どこか面白げな表情をした行原に、この野郎、と悪態を密かに突きながら、良太郎は曖昧に語を零す。どちらにせよ詳細を話すわけにはいかないのだが。

 すると、あっさりと行原の承諾は取れたので、良太郎は急いで退勤の準備に取り掛かった。下の工場からは、職人たちが集ってラジオを聴いているらしく、アナウンサーの興奮した声がひっきりなしに聞こえてきていた。次の選手入場は、というアナウンスからして、各国選手団の入場がすでに始まっているらしい。


 流れてくるオリンピック・マーチのメロディに背を押されるように、良太郎は職場をあとにする。


 経理室を出る寸前、久美子の強張った視線が背に刺さったことについては気づかないふりをして、良太郎はスーツ姿のまま、秋晴れの空の下を駅に向かい、走りに走った。



 ようやく、約束の時間ぎりぎりに着いた原宿駅は、ものすごい人混みだった。

 それはそうだ、開会式が行われている国立競技場とは至近距離にあるし、街を目を投げれば、あちこちの街頭テレビへと鈴なりになっている人々が認められる。


 ――誰もが、浮かれまくっていやがる。馬鹿馬鹿しい。


 そう思いながら、改札口を出たときのことだ。

 待ち合わせの相手を、探すまでもなかった。


「義兄さん」


 聞き覚えのある声音に、びくり、と肩を震わせて振り向いて見れば、雑踏のなかに邦正が立っていた。

 相変わらずの長い黒髪には白いものが見受けられ、男にしては繊細な顔立ちには皺も寄っている。しかしながら、そこにいたのは、まごうことなき彼だった。

 あいも変わらず、歳をとっても、馨の面影を讃えた顔がそこにあった。


 邦正は煙草を燻らせながら、にこり、と良太郎に微笑む。切れ長の目を細めて。


「久しぶりだね」

「……元気そうで、なによりだよ」

「義兄さんも」


 ふたりはごくごく平凡な挨拶を交わした。数多の感情を胸に沈めながら。


「ここは人が多すぎるな。どこか静かなところへ行こうか」


 やがて、良太郎が喉から搾り出した言葉を耳にして、邦正はまた薄く微笑する。それから、煙草を床に落として踏みつけて火を消すと、柔らかな声でただ一言こう答えた。


「喜んで」


 そして、歩き出した良太郎の背を追って、邦正は右足を引きずりながら、ゆっくりと歩き出した。

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