《7》-2

 好景気に沸いていたのは、良太郎の職場も同じだった。


 出版物の需要が高まり、印刷工場は忙しさを増しつつあった。社屋も急遽、活版部を独立させるなどの慌ただしさだ。しかしそれが容易に叶うほど会社は儲かっていたわけであり、それは会社の経理を担当している良太郎が誰よりもよく分かっていた。


 それだけに忙しさも増す。

 その年の初夏、良太郎は残業して仕事を片していた。経理課の一室には、その前々年、青森から集団就職で上京してきた事務員、荒木久美子と良太郎のふたりきりだ。


 良太郎は久美子を最初見たとき、ごくごく自然にこう思った。


 ――典型的な田舎娘だが、可愛いな。小さな目は比べるべくもないが、艶やかな黒髪は馨を思い出させる。


 馨が死んでからもう十数年が経つというのに、良太郎の脳は好みの女を見ると自動的に馨との共通点、あるいは差異を弾き出す。

 そのたびに、自分の心にいまも如何に深く馨が刻まれているかを実感し、良太郎は戸惑う。


 夫婦として過ごしたのは半年足らず、しかも夫らしいことは、気が向いたときに身体を求める、そのくらいのことしかしなかった。良太郎が薫に向けていたのは愛情というより、どちらかといえば憎しみであり、そしてその反動から来る独占欲でしかなかった、といまになればわかる。とても愛などといえるものではなかった。


 しかし、なら、なぜいまだにこんなにも懐かしく、彼女のことを思い出すのだろう。おそらく馨も自分のことなど愛していなかった。きっと彼女は、良太郎に戦地で死んできてもらいたかったのだ。良太郎は出征時に見た馨の顔を思い返す。万歳三唱に沸く花沼駅のホームに佇む妻の顔だ。


 列車に乗り込む間際、今一度と軍服の肩越しに振り返ってみれば、自分を見つめる切れ長の瞳には凍える光が浮かび、形の良い唇は薄笑いに緩んでいた。


 そしてそれが、良太郎が見た馨の最後の姿となった。


 ――俺のせいであいつは死んだんじゃない。たまたま、偶然が重なっただけだ。それに邦正がアカになんぞ被れてなきゃ、馨は東京に行くことなんかなかったわけだから、どちらかといえば、あいつのせいじゃないか。


 結局、馨のことを思い返せば邦正のことを思い出してしまう。良太郎はそんな自分の思考が忌々しくてならない。


 よりによって、心底殺したいと思っている相手の面影が、亡き妻の顔と重なる。


 それが、堪らなく苦しい。いまもって、耐え難いことこの上ない。



「佐々木課長。この、副社長から回ってきた領収書ですけど」


 唐突に耳元で声がして、良太郎はとめどもない思考の迷宮から我に返った。


 気がつけば久美子が数枚の領収書を手に、良太郎のすぐ後ろに立っていた。良太郎は最近白髪がめっきり増えた髪をかき回しながら、久美子が手にした領収書に目を落とす。


「ああ、これね。接待費として計上しといてくれ」

「でもこれ、トルコ風呂のお店のですよね」

「だからそうなんだよ。好景気とはいえ、行原も仕事取ってくるのに必死なんだよ。そのくらいあんたもわかるだろ?」


 良太郎は胸中で、「面倒くさい」領収書を寄越してきた行原に悪態を付きつつ、久美子に説明する。すると久美子がまだあどけなさの残る顔を歪ませて、語を零した。


「私には分からないですね。男の人のやることが」


 思わぬ久美子の反駁に、良太郎は思わず彼女の顔を見た。


 相変わらずの小さな瞳には、なんだか妙に熱っぽいひかりが躍っている。良太郎はそれに僅かながら動揺しつつも、嘲るように言葉を放った。


「最近の女は、なにかと生意気で困るね。それにしてもあんたも、もの申すようになったもんだな。ここに来たばかりのときは、訛りがひどくって、そもそもなに話してるかわからなくって、俺は苦労させられたもんだが」

「そりゃあ、私だってもう東京三年目ですから」

「だったらいい加減、物分かりのよい大人の女になれってんだよ」

「そうですか」


 久美子はそっけなく答える。

 しかしながら、その瞳はなおもどこか妖しげで、良太郎はどうにも落ち着かない気持ちになる。


 開け放った窓の網戸を伝ってくる夏の夜の風が蒸し暑くて、そんな気がするのだろうか。それとも網戸の破れ目から紛れ込んだらしい虫が、蛍光灯の下で蠢く羽音のせいだろうか。


「それでしたら、言いますけど」


 久美子がそっけない口調のまま、唇を動かした。


 口紅が塗られた赤いそれをみて、化粧の仕方も様になったな、などと良太郎はどこかうわの空で考える。


「なんだよ」

「私、佐々木課長のこと、好きなんですけど」


 心の臓が跳ねた。


 しかも悪いことに、その日の仕事後、久美子は良太郎の後を付いてきた。

 そう、長屋まで。



 梅雨の訪れを間近に控えた、湿った空気が流れてくる早朝だった。


 唐突に、良太郎の長屋を孝敏が訪れた。扉を叩けば、意外に早く良太郎がさっさと顔を覗かせたので、孝敏は驚いたように口を開く。


「おう、起きていたのか」

「なんだよ、こんな朝早くに。今月分の金は先月末渡したばっかだぞ」


 良太郎の顔は不機嫌そのものだ。

 しかし、その理由は己の早朝の突然の訪問、だけではなさそうな落ちかぬ顔つきを目前に見やり、孝敏は意外に思う。

 そしてそのわけを数分前の出来事に見つけるや、良太郎にニヤニヤと笑いかけた。


「そうか、なるほどね。さっき、そこですれ違ったお嬢さんと、お楽しみのあとだったのか? それにしては、あのお嬢さん、ご機嫌斜めの顔してたが。なあ、佐々木さん」


 途端に良太郎が目つきを険しくした。そして孝敏の丸首のシャツの襟ぐりを引っ張り、家のなかに引き込む。

 引き戸を、ぴしゃり、と鋭く閉めると良太郎は狭い玄関に突っ立ったまま、孝敏を睨みつけた。


「人聞きの悪いこと、玄関先で言いふらすんじゃねぇ!」

「なんだぁ、違ったのか」


 孝敏は怒鳴る良太郎を気にするふうもなく、ぼさぼさの髪を掻きむしりながら、いつも通りずかずかと、微かに化粧の香りが匂う家に上がり込む。


 そして畳の上に腰を下ろすと、笑い顔はそのままにこう言った。


「酒をくれよ」

「朝っぱらから飲む気かよ、なに考えてるんだ」

「当然さ。邦正の行方がやっとわかったんだ。これが、祝杯を上げずにいられるかよ」


 良太郎は、思わず目を見開いた。



「奴はさ、なんと先週、ひょっこり花沼に戻ってきたらしいんだ。しかも、嫁さんと子どもを連れてだというんだ。集落は大騒ぎになったらしいぜ」


 良太郎が戸棚から取り出した焼酎の瓶を渡すと、孝敏は栓を口で器用に開け、吐き出すと、そのままごくごくと酒をラッパ飲みし始めた。普段の良太郎だったら、あまりの無作法に怒って殴りつけるところだが、邦正が見つかったという報に心は乱され、それもできない。


「それでさ、奴は花沼に家を構えるつもりらしくてさ。駅の近くにアパートを借りたあと、さっそく町の職業安定所で職探しをしたそうな。この人材不足のご時世だ。すぐに町の農機具屋に就職が決まったそうだぜ。平田農機具というけっこうでかい会社だ」


 孝敏は顔を赤らめながら良太郎にそう説明した。良太郎は黙ってただ、孝敏の声に聞き入るのみだったが、話がひと段落したところでようやく口を開く。


「で、どうやって殺る?」

「まあまあ。居場所が知れたんだ、そう焦ることはねぇ。これからじっくり、策を練ろうじゃないか」

「俺はいますぐにでも、あいつを殺したいんだがね」

「そうだろうが、ちょっとは時を待て。流石に町に来て早々にお陀仏になったとしたら、警察の目に付きすぎる。俺はそのうち、ちょっと花沼の様子を伺ってくるよ。ああ、佐々木さん、あんたはいいよ。いまもって故郷には帰り辛いだろ?」

「……」


 そうと言われると、良太郎は押し黙るしかなかった。

 花沼は最近、村から町になったのだという。しかし、狭い界隈であることは変わらず、そこに生きている人も変わっていないのは確かだ。そうなると、自分が邦正にされたことの噂は、まだ根強く残っていると思った方がいいだろう。


 しかし、これだけは、ということを良太郎は口にした。なんとしても孝敏に念を押さねばならぬことを。


「……分かったが、様子を見てくるだけだぞ。余計なこと、するなよな」

「余計なこと?」

「とぼけるな。お前ひとりで邦正を殺してきたら、ただじゃおかねぇ、ってことだよ」


 すると、孝敏がすっと、口を窄めた。


「それはしねぇよ。もっとも、あいつに勘づかれたら、別だがな」


 それから、孝敏は焼酎を飲み干すと、千鳥足のまま帰っていった。

 故郷の様子は連絡してやるよ、そう良太郎に言い残して。


 長屋の路地を危なっかしい足取りで歩き、去っていく孝敏の後ろ姿を睨みつけながら、良太郎は思う。


 ――ついにこのときが来た。……だが、あいつは信用なんねぇ。


 良太郎は家のなかに身を翻すと、忘れぬうちにと、そこらに転がっていたチラシの裏に、鉛筆で殴り書く。


「平田農機具」と。


 そして、そのチラシを折りたたむと、壁の衣紋掛けに下がっている、スーツの上着のポケットへと、乱暴に押し込んだ。それから、上着を手に、出勤の準備を整える。


 いつの間にか朝も遅い時刻になっていた。朝食は諦め、良太郎は慌ただしく家を出る。しかし今日ばかりは、空腹も気にならない。


 ――俺は、間違いなく、殺ってやるんだ。一日も早く、間違いなく、この手で。


 出勤してからは、経理室でいつものように机に向かいながら、部屋でひとりになれるタイミングを探す。

 久美子のじっとりとした視線が気になりはした。

 しかし、それに耐えつつ良太郎は電話をかけるタイミングをひたすらに待つ。


 結局、好機が訪れたのは、昼近くになってからのことだ。


「やあ、義兄さん? 久しぶりだね」


 汗ばむ手でダイヤルを回し、その名を電話口で伝えると、驚くほどすぐに、そして気さくな返事が返ってきて、良太郎は絶句した。

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