第七話 昭和三十九年 〜五輪の白い轍〜

《7》-1

 それからの六年というもの、良太郎と孝敏の間では、常にこんな会話が交わされた。


「お前、ほんとにあいつを殺す気があるんだろうな?」


 良太郎のときに詰問に近い問いかけに、孝敏は毎度のことながら、にやにやと笑い、答える。


「まあ、そんな怖い顔するなよ。それに邦正を殺りたい俺の気持ちは嘘じゃねえ。ただあいつ、花沼から行方くらましちまって、興信所でも手がかりがとんと掴めないって言うんだよ。だけど、あっちも必ず奴の尻尾を掴むと明言している。だからいまんところ俺たちが出来ることは、興信所に毎月金を払うしかないってわけよ。てなわけで、ほら、今月分の金、寄こせって」


 対して孝敏は、毎月良太郎の家を訪れるたびに、そう言って金をせびる。

 良太郎にはそれが言い訳なのか真実なのか、判断のしようがない。だから渋々と言った顔つきながら、良太郎はこう零しながら、財布から金をひねり出せずにはいられないのだ。


「……興信所に払ってるんじゃなく、お前の酒代に使ってたら、容赦しねえからな」

「そこは信じろって、なあ、相棒」

「お前に相棒呼ばわりされる筋合いはねえよ」


 こうして孝敏はその月分の金を受け取ると、機嫌を良くして鼻唄を歌いながら良太郎の元を辞するわけであったが、毎月このように穏やかなやりとりがされていたわけでもない。

 いつになっても金を巻き上げられるばかりで、一向に進まない調査とやらに業を煮やして、何度も言い争いになった。長屋中の人間が何事かと駆けつけてくるような取っ組み合いになったことすら、幾度かある。


 しかしそれでも、結局、良太郎は孝敏に金を渡すことを止めなかった。それを続けるからこそ、自分は生きる目的を持ち続けられる、そんな意識がどこかにあった。


 つまりは、思い詰めて考えることこそなかったが、良太郎の邦正への殺意は、いつのまにかに彼が生き続ける希望となっていたわけであった。


 なんとも、皮肉極まりないことに。



 一方、孝敏が主張するに、孝敏の兄であり、邦正の父である晴男が死亡した経緯については、このようなことであった。


「晴男兄貴は、邦正に井戸に落とされて死んだんだ」

「井戸に?」


 良太郎は訝しげに首を傾げた。

 たしか、いとが双子を連れて小野寺家の後妻となったとき、ふたりの子どもは九歳だったはずだ。であれば、邦正が父を殺したとなればもっと幼いときの出来事だろうから、そんなことが果たして可能なのか。

 そう疑問に思わずにはいられなかったのである。


「晴男とやらは、子どもに井戸に落とされるくらいひ弱だったのか? 身体でも悪かったとか?」

「いいや、違う。兄貴は最後まで頑健で知られる男だった」

「だったら、どうして」

「どう誘い出したのかは、分からない。それは邦正をとっちめて聞き出すしかねぇ。でも兄貴が井戸に落ちたと見られる時分、井戸の底を楽しげに覗いていたあいつの姿は、確かに目撃されてるんだ。笑ってたそうだよ。まだ七歳だったってのにな。恐ろしい奴だわ」

「……七歳」


 良太郎は背筋に寒気を感じながら、独り言つ。となると、邦正が花沼に来る二年前の出来事ということになる。

 そうして、続いて思い出すのは、自分が納屋で初めて馨を啜った夜の邦正の絶叫であった。


 ――「また殺してやっても、いいんだよ」。馨に向かって、あいつは間違いなく、そう言っていた。それが父親殺しのことならば、確かに筋は通る。


 だが、なぜ? なぜあいつは、父を殺した?



 昭和三十年代後半に入り、東京、ひいては日本は前にも増して賑々しく、騒がしかった。

 しかしそれは戦前や戦中の圧迫されるような忙しさとは異なり、高揚感と華やかさに満ちたものだった。


 本格的な高度成長期が訪れていた。

 ほんの十数年前、バラックの広がる焼け跡だった町の様子は、いまやその姿を忘れたかのように、あらゆる工事が進み、建物が建てられ、整備され、道が連なっていく。

 人間も昔に比べれば陽気になったような気さえする。よく笑うようになった気がする。


 良太郎にはそれが果たしていいことなのか、わからなかった。

 日本人の本質がそう簡単に変わるとは思いたくない。六年前、自分を訪ねてきた孝敏に指摘されたように、人間は簡単に変わらないし、変わらないという実感が彼のなかにはあった。だからこそ良太郎は邦正への憎悪をいまも募らせているし、殺したいと望んでいる。自分のなかに沸る猛々しい衝動は、たしかに消え去ってはいなかった。


 しかし、この国はどうなのか。

 少なくとも、見かけはすっかり変わってしまったように思える。軍国主義を捨て去り、民主国家として新しい憲法が敷かれて久しい。それまでの価値観が、まるでネガとポジが反転したように変わっていく。


 その流れのまま、日々は過ぎゆく。

 良太郎には追いつけないスピードで日本は変わっていく。


 しかし、と良太郎は苦々しく思うのだ。


 ――俺がそう簡単に変われないとしたら、日本だってそうなんじゃないか。なにより、そうでなければ俺が救われないじゃないか。自分ももう、四十五才だ。俺は、このまま時代に置いてきぼりにされて老いていくだけなのだろうか。だとしたら――。


 俺は、哀れな道化なのか?

 だとしたら、俺は、なんのために生きてきた? 

 そして、なんのために、生きている?


 大義を信じ、身体を張り、命を捧げたはずの国が、自分の想像と違う方向に姿を変えていく様相を、良太郎はただ無言のうちに見ていることしか出来ない。


 東京で開催されるオリンピックはもう今年の秋に迫っている。高まるお祭りムードは、今日も良太郎の肌をちくちくと刺す。

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