《6》ー3

 紅白歌合戦の紅組司会は、今回初めて、NHKの専属人気女優である黒柳徹子が務めており、彼女の声がラジオから流れるたびに孝敏はニヤニヤと無精髭を緩ませた。


「俺、好みなんだよなあ。この女。美人じゃあないかもしれないが、ちょっと愛嬌のあるあの声と顔つきがさぁ、たまんねえ。なあ、佐々木さんもそう思わないかい?」


 孝敏がずかずかと良太郎の家に上がり込んでからしたことといえば、まずは、勝手に台所から湯呑みを持ち出すことであった。

 そしてそのなかに、持参してきた酒瓶から日本酒を注ぐ。そしていまはそれを飲みながらラジオに聞き入っている。


 他でもない自分の家を訪ねてきた用件についてはなにも語ろうとしないその様子に、良太郎は落ち着かない気持ちでただ孝敏を見守っていた。

 しかしそれにもいい加減、限界がある。

 良太郎はついに荒々しく、ラジオの音楽を遮るように語を放った。


「お前、なにしに来たんだよ。こんな年の暮れに。まさか俺と紅白歌合戦をのんびり聴き入るために来たわけじゃないだろう?」


 すると孝敏が、にやり、と笑った。そして畳に堂々と寝そべったまま、眼球だけをぎょろり、と動かし、良太郎を見据える。


 射すくめられるようになり、良太郎は刹那、思った。


 ――こいつの目、ちょっと黒目がちのところは、馨に似ているな。たしかに叔父だというのは、間違いないのかもしれない。


 そんな良太郎の思考を知ってか知らずか、孝敏はただ悠然と姪の夫の顔を見つめていた。それから、突如、言葉を零す。

 それも、訪問の目的の核心に当たる台詞を、極めて、さらり、と。


「佐々木さん。あんた、邦正が憎くないのか?」

「え……?」

「あんた、花沼にいられなくなったのは、邦正のせいだろう? それを俺は知っているぜぇ」


 良太郎の背筋を、冬の寒さのせいではない悪寒が駆け上がる。

 目の前のこの男は、自分が邦正にを全て知っているのだ。それを悟り、良太郎の精神は粟立った。同時に耐え難い恥ずかしさに、身がかっ、と火照った。


「なに、そんな顔することじゃねぇ。花沼じゃみんな、知っていることだ。俺はあそこの人間じゃねぇが、訪れてちょっと探ってみれば皆が皆、声を潜めながら教えてくれたよ」

「……それがなんなんだ! お前は俺を脅しに来たのか?」

「まあ、そう荒ぶるな。それに別に俺はそういうつもりじゃねぇし」

「これが荒ぶらずにいられるかよ! じゃあ、お前の目的はなんなんだよ!」

「お前、邦正をりたくねぇか?」

「は?」


 孝敏の思いもせぬ言葉に、火照った頬が今度は瞬時に固まった。それから、冗談でも言われているのかと思い、半ば呆然としながら孝敏の顔を改めて見る。

 するとその表情はなおもニヤついているものの、黒目がちの瞳に浮かぶひかりはどこまでも真剣なものだ。


 いや。それはもう、またも背筋が寒くなるほどに、殺気に満ち満ちていた、と表すべきか。


 そして、言葉を失った良太郎に、孝敏はぎらぎらと光る目でついに真意を伝えてきたのだった。


「俺はね、佐々木さん。あんたと手を組みたいんだよ。邦正を殺すために。というのも、俺も奴には恨みがあってね」

「……恨み? 邦正に?」

「そうだ。俺は奴に、俺の兄、菊池晴男を殺された」


 先程と変わりなく流れているはずのラジオの音は、いつのまにか、異界から聞こえてくるような遠さに感じられる。良太郎は声を震わせる。


「お前の兄、って……それはつまり……」

「そうだ。つまりは邦正はね、自分の父親を殺したんだよ。俺はその仇を討ちたいわけさ、あんたといっしょに」


 良太郎は息を飲まずにいられなかった。


 紅白歌合戦は終盤に入っていた。

 ラジオからはダークダックスの「ともしび」が聞こえてくる。ゆるやかで物悲しげな独特のロシアの旋律は、良太郎の気に触るものだった。

 我に返った良太郎は衝動的にラジオのスイッチを叩き切る。そんな彼の前で、孝敏は流れるような滑らかさで言葉を紡いでいた。

 しかしその内容は、どこまでも深く暗い呪詛でしかなったのだが。


「俺はねえ、晴男兄貴を尊敬していたんだよ。兄はいい男だった。いい長男で、いい兄だった。嫁にしたいとのことだってとっても大切にしていたよ。それから勿論、いととの間に生まれた双子もな。特に、邦正については念願の男児だったからな、『御国のために正しい男であってくれ』とそれはそれは心を込めて名を付けたんだ。そののち奴が小児まひで足が悪く、兵役に就けないと知ったときは、流石に落胆していたけどな。それだけに、俺は奴が憎くて仕方ねぇ」


 静まり返った部屋のなかで、邦正への憎悪を語る孝敏の声は続いていた。どこからか、除夜の鐘がゆっくりゆっくり響いてくる。


 その響きに重なるように、孝敏は話し続ける。良太郎の顔を改めて見据えながら。


「なぁ、佐々木さんよ。いまのあんたは、蝉の抜け殻だ。あの昭和二十年の夏、時代を捨てたこの国と同じようなもんだ。だがな、その前の姿を捨てたにせよ、牙を抜かれたにしろ、その中身は変わらないんだよ。日本も、そしてあんたも。人も国も、本質なんかそんな簡単に変わりゃしねえ。そうじゃないのか?」


 そう声をかけられた時、良太郎の心の臓は跳ねた。

 そうして、ゆっくりと、なにか、忘れかけていた感情が胸の奥に散らつき始める。


 ずっと、ずっと、自分があの夏になくしてしまったと信じ込んでいた、昏い激情が渦を巻き始める。

 それは懐かしくも、心地よい感覚だ。赤子が子宮にて浮かぶ羊水のように、浸りきってしまえば、なによりも安心できる。


「噛みついてみろよ。前みたいにさ、猛々しくさ、あいつに。やられたなら、やり返そうぜ。それを一緒に俺とやろうぜ」


 鐘の音が遠くから聞こえてくる。冬の夜の静寂を縫って鳴り響いている。

 己の覚悟を質すように。


 たっぷり数分の沈黙のあと、良太郎はついに、こう言葉を紡いだ。


「……よし、わかった。やってやろうじゃねぇか」

「交渉成立だな。それでこそ男だぜ」


 途端に孝敏が破顔する。

 そして彼はぎらつく目はそのままに、ちゃぶ台の上に置きっぱなしになっていた良太郎の茶碗に酒を注ぐ。そして、それを手に取り、良太郎の前に差し出す。


 良太郎にはもはや、その酒を飲み干すことにも躊躇いを感じなかった。ぐひぐびと喉を鳴らし、一気に茶碗を空にする。

 息をつきながら、孝敏の顔を見れば、至近距離で男ふたりの視線が絡み合う。


 孝敏が笑いながら、ぼそり、と語を零した。


「おう、いい目になったな。佐々木さん。さっきまでの死んだ魚のような目とは、大違いだ。それでこそ、噂に聞いていたあんただよ」

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