《6》-2
「佐々木さん、今年も埼玉には帰らないんですか?」
年の瀬を迎え、今日は工場の仕事納めの日だった。いつもより早く終業時刻を迎え、全従業員を前に行原の父が挨拶の口上を述べる。そんな一連の退屈な儀式が終わり、ようやく職場を退出しようとした良太郎に、行原はそう声をかけてきた。
良太郎はさっさと一人暮らしの長屋に戻りたかったので、不機嫌に口を尖らせながら、鞄を手に行原に応じた。
「帰らねぇよ。帰ってもあそこに、俺の居場所はねぇんだ」
「でも、東京に来てから一度も帰省してませんよね、佐々木さん。いいんですか?」
行原のその言葉は良太郎の心を抉る。母がどうしているか、さぞかし自分を案じているだろう、そのことは常に気にはなっている。
しかし、故郷に戻れば邦正と必ず顔を合わせることになるだろう。そう思うほどに、どうしても埼玉に向かおうとする彼の足はすくむ。
だから、行原の言葉が己を心配してのことだと分かってはいても、良太郎はいよいよ目を険しくして、作業服姿の行原に突っかかるのだった。
「それがお前になんの関係があるってんだよ」
「そう言われると困りますが……。な、なら、正月休みのどこかで、僕の家に遊びに来ませんか? 嫁もそろそろ佐々木さんに挨拶したいって言ってましたし」
「馬鹿か。誰が新婚家庭の邪魔なんぞ、正月からできるってるんだ」
良太郎はそれだけ言うと、その場に行原を置いたまま、足早に工場を後にする。
外に出ると師走の末の木枯らしが頬を刺す。あの、イルクーツクの寒気を思い返せばそれは大したものではなかったが、そのときの良太郎にはなにより寂しさが心に沁みた。今年娶ったばかりの妻と正月を過ごす行原の姿を想像してしまえば、その虚しさはなおさらだ。
――誰もが、なにもかもが、俺を置き去りにして幸せになっていく。素知らぬ顔をして。
そしてそういうとき、必ず良太郎の胸に浮かぶのは、亡き馨の面影だった。彼女の肌の熱だった。
――あいつにいて欲しかった。誰よりも近く、傍に。
それはいまとなっては誰にも零すことのできない、自分勝手な感傷でしかない。
そういう自覚はあった。しかし、良太郎はあんな身勝手に接しておきながら、いま、馨の存在を激しく乞うていた。
もはや叶うことなどない願望だと、臓腑に沁みるほどわかりきってはいるのに。
大晦日のその日、周囲の世帯持ちの長屋が賑やかに大掃除や正月の買い出しを行うなか、良太郎はただひとり家に篭っていた。
家といっても、申し訳程度の台所に、六畳弱の畳一間と便所のみがついた狭い空間だ。良太郎は畳に敷きっぱなしの煎餅布団の上に、ごろりと横たわって年越しの喧騒をやり過ごそうと試みる。
次第に夜は更け、昭和三十三年最後の夜が東京を覆っていた。
やがて、昼から付けっぱなしのラジオから、華やかな音楽が流れ出す。いつのまにか時刻は九時を回り、今年第九回を迎えたという、NHK紅白歌合戦が始まっていた。白組の一番手は岡本敦朗だ。伸びやかな美声が、高らかに「若人スキーヤー」を歌い上げている。
年越しの準備らしいことはなにもしていなかった良太郎は、ひとまず飯を食うか、と、朝炊いた白米の残飯を茶漬けにして掻きこんだ。彼にとっては、なんてことのない夜だった。もうすぐ年が終わろうとも、明けようとも、特に心に迫るものはない。
そのときまでは。
様子が変わったのは、ラジオから築地容子の「青い月夜のランデブー」が流れ出した頃である。激しく玄関の引き戸を叩く音がした。ついで、野太い男の声が聞こえてくる。
「佐々木さん、なあ、佐々木良太郎さん。いるんだろう? 開けてくれよぉ」
良太郎は茶碗から顔を上げ、虚を突かれたように玄関を見つめる。ここで暮らし始めてから、自分を訪ねてこの家に人が来るなど初めてのことであった。思わず、家を間違えたのではないかと思ったが、聞こえてくる声ははっきりと己の名前まで告げているので、そういうことでもなさそうだ。
良太郎はまだ飯粒が付いた茶碗と箸をちゃぶ台に置き、恐る恐る引き戸に近づく。戸は外からガタガタと震わされている。
途端に胸がざわついたが、こんなに騒がしい物取りはいないだろうと思い直し、鍵をひねって思い切りよく戸を開いた。
すると、そこにいたのは五十歳くらいの見知らぬ男だった。顎にはところどころが白くなった無精髭が散らばり、ぼさぼさの髪が夜の風に揺れている。はっきりいって、一目でまともな勤め人ではないとわかる風体である。
良太郎は顔を顰めた。
だが、良太郎が戸を閉めようとした瞬間、男は素早く家のなかに片足を差し込んできたのだ。
「なんだよ、あんた!」
声を荒げた良太郎に対し、男は悪びれる様子もない。それどころか、飄々とした調子でこう唇を動かした。
「そういきりたつなよ、佐々木さん。俺はあんたの親戚だよ」
「……はぁ?」
すると男は、唖然とした良太郎に悠々と身分を名乗る。それは思いもしないものだった。
「初めてお目にかかるなあ。俺はあんたの妻の馨、その実父の弟さ。つまり馨の叔父だよ。菊池
予想もしなかった男の正体に身を強張らせた良太郎の前で、孝敏と名乗った男はすばやく玄関に身を滑り込ませてくる。そしてこう、不敵に笑った。
「ようやく探し当てたよ。お邪魔するぜぇ」
孝敏は手にしていた酒瓶が入っているらしき風呂敷包みを、高々と良太郎の目前に掲げて見せた。
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