第六話 昭和三十三年 ~蝉の抜け殻~

《6》-1

 ――あの眩しいひかりはなんだ。なんのひかりだ。


 ああ、あの梨畑だ。真夏の梨畑だ。袋をかけられた実が風に、ざわわ、とざわめいている。

 では、あそこにいるのは誰だ。

 四つん這いになって、白い肌を露わにしているのは誰だ。


 ――母さんだろうか?


 いや。

 あれは、違う。母さんじゃない。


 ――俺だ――。


 尻をみっともなく露出して、泥のうえに、立膝になって。

 男に組み伏せられているのは、俺だ。


 ――そうだ、あそこは、梨畑じゃない。あの、あの、真夏の墓地じゃないか――。


 なら。

 傍に立って、そんな俺を見下してる男は。煙草を美味そうに吸いながら嗤っている男は。


 ――あいつじゃないか! あの、馨にそっくりの……あいつじゃないか!



「佐々木さん! 佐々木さんってば! もう昼休み終わっていますよ!」


 良太郎は飛び起きた。


 途端に視界に飛び込んできたのは、四畳半ほどの広さしかない休憩室の天井だった。天井には茶色い染みが目立ち、蛍光灯の真白いひかりは眼を刺すこと眩しくて仕方ない。

 しかし、良太郎は額の脂汗を拭いながら、深く安堵した。降り注ぐのが真夏の陽でなく、ここがあの梨畑でも墓地でもないことに。


「大丈夫ですか? 佐々木さん。なんかすごく、うなされていましたけど。午後の仕事、出来そうですか?」

「……馬鹿いえ。たかが夢ごときで働けなくなる俺じゃねぇよ」


 良太郎は心配そうに自分を見下ろす行原の細面ほそおもてに、忌々しげに語を放った。ついで、枕代わりにしていた二つ折りの座布団を部屋の隅に投げると、ゆっくりと畳の上に立ち上がる。


 また訪れた何度目かの冬に、じぐじくと疼く凍傷の痛みを堪えながら。


 行原のあとに続いて休憩室の扉を開ければ、もう午後の仕事を始めている工場の人間の視線が、一斉に良太郎の顔に刺さる。だが、良太郎はそれを気にする風でもなく、階段を上り、工場の二階にある事務室のドアを押し開けた。そして自分の机に座ると、途中で終わっていた帳簿の計算を再度始まるべく、算盤を手に取る。


 しかし、いまだ良太郎の頭のなかには、さっき見た夢の残像がこびりついてならない。


 もうあれから十年になるというのに、忘れられない屈辱の記憶。

 土にまみれて見上げた夏空の深い青。


 さらには臀部を貫く猛烈な激痛までも。


 ――まるで昨日のことのようだ。しかもこの数年、絶えることなく夢に出てきやがる。しつこく、どこまでもしつこく。


 そう思うほどに手元の帳簿を捲る手は震え、訳もわからず苛々と感情が昂る。

 しかし、それを発散する相手はいま、良太郎の周囲にはいない。いや、発散したくとも、良太郎その人自身が、それを誰かにぶつけるに至るエネルギーを持てずにいる。


 終戦から十三年。そして帰国してから十年。

三十九才になった良太郎の心身はなおも、抜け殻のような有様であった。




 帰国してから、ここ東京は板橋にある印刷工場に転がり込むまでの十年は、良太郎にとっては遁走の年月であった。


 ようやくシベリアから花沼村に戻ってきたというのに、妻の馨は空襲に巻き込まれて死んでいた。しかも邦正の言葉を信じるなら、それは己の所業が巡り巡っての因果の果てなのだという。


 その衝撃に打ちひしがれる暇もなく、良太郎は邦正の策謀により、男に恥辱の限りを尽くされた。それは良太郎の身体、そして精神に深刻な打撃を与えずにいられなかった。満州の戦地、シベリアの極限を耐え抜いてきた彼を、その出来事は完膚なく叩きのめし、心を折った。


 良太郎が取れた行動といえば、結局、復員後数カ月のときを経て、故郷から逃げ出すことしか出来なかった。

 老いた母のことだけが心残りではあった。だが、故郷にいれば邦正の存在に心かき乱される。そのうえ、誰よりも慰めてほしかった馨はいない。さらに悪いことに、あの墓場での出来事は狭い集落のなかにてうっすらとだが噂になりつつあった。

 

 結果、良太郎は逃げるように花沼村をあとにしたのである。あてもなく東京に転がり込み、日雇いの仕事を見つけては、その日の糧と寝床をなんとか確保した。


 それでも運が良かったのは、そんなその日暮らしが限界に近づいた頃、偶然、イルクーツクの収容所ラーゲリで苦楽を共にした行原と路上で再会し、彼の家が経営している印刷工場に職を得ることができたことであった。


 彼の話では、ちょうど経理のできる人間を探していたのだという。これは、戦前、菓子屋で会計を務めていた良太郎からすれば願ってもない話であった。

 さらにありがたかったことといえば、行原は、苗字を「小野寺」でなく再び「佐々木」と名乗るようになっていた良太郎の事情に深く触れなかったことであろうか。


 良太郎はこの十年を振り返り思う。


 ――結局は、俺は幸運だったのだろう。戦死もせず、シベリア抑留を生き延び、その上、東京で行き倒れることもなく、今、こうして仕事を得て暮らしている。しかし、しかしだ――。


 良太郎は事務室の窓に視線を投げる。そこからは、遥か遠くにではあるが、赤い巨大な東京タワーが威風堂々とそびえ立っているのが、晴れた冬空にくっきりと浮かんで見える。


 ――なにが、世界一の電波塔だ。なにが、もはや戦後ではない、だ。ふざけやがって。皆が皆、調子に乗りやがって。


 彼には、神武景気を経て、復興に賑々しく浮かれる日本の何もかもが苦々しかった。


 自分はいまだ、敗戦の只中にいるというのに。国として敗れ、兵士として負け――。

 そして、男としても蹂躙されたその痛手から立ち直ることができずにいるというのに。


 ――俺は、誰よりも立派な大人の男になったはずだ。誰よりもそうあるべく努力してきた。

 なのに、どうしてなんだ?

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