第五話 昭和二十三年 ~絡まる~

《5》-1 *

 ナホトカ港から引き揚げ船に乗り込む寸前、ソ連当局者からの要請で「スターリン元帥への感謝状」を書かされたのは誠に噴飯ものだった。


 しかし良太郎は他の抑留者と同じく、それに従った。

 ソ連のそのようなにはもはや慣れっこだったし、逆らう気力もなかった。ただ、皮肉に顔を歪ますことができた自分の胆力は、頼もしく思えた。それはようやく帰国できるという喜びあってこそ生まれたものだったかもしれないが。


 そんな心持ちで船に乗り、船上で日本赤十字の看護婦に、こう、日本語で労りの言葉を掛けられたときは、二十九才となっていた良太郎の目にもあの「さくら」以来の涙が滲んだ。


「ご苦労様でした。お帰りなさい」


 良太郎は全身で、柔らかで慈しみに満ちた母国の響きを感じとる。


 ――ああ、やはり日本の女はいいな。


 そのようにしみじみと思ってしまえば、船が舞鶴港に入港するまでの間、ひたすらに思いだしたのは馨のことだった。

 もう遠くなった敗戦後の貨車のなか、彼女のことだけを考えて望みを繋いだのを思い返す。それまでの過酷な日々、思い起こすことも出来ず胸に押さえ込んでいた慕情があふれ出す。

 ついで、堪えがたい欲情も。


 ――啜りたい。思いっきり、心ゆくまであいつを。昔のように。


 あの肌、あの熱、そして切れ長の黒目。いくら愛してやっても、最後まで冷ややかな色だけを湛えていたあの瞳。

 それら全てを、再び手中に出来るのだと夢想するほどに、良太郎は身体を火照らせた。

 ついで、こんなことさえ考える。


 ――あいつも、そろそろ、俺が恋しくなっている頃合いかもしれん。


 それは、あとから思い返せば、あまりにも愚鈍な思考でしかなかったのだが。



 であるから、ようやく日本の地を踏み、埼玉に着き、心を逸らせながら懐かしい小野寺家の門を潜ったとき、敷地内のどこにも馨の姿が見当たらなかったことに、良太郎は虚を突かれた面持ちになった。


 その日は、母のたかも所用で外出中とのことで、復員した良太郎を迎えたのは義母のいとである。穏やかな午後のひかりのなか、井戸で水汲みをしていた彼女は、所在なげに自宅の庭に佇む良太郎を一瞥するや、言った。


「あら、良太郎さん。ようやくお戻りなさいましたか」


 それから、全く持って感情の籠もらない、形ばかりの労りの言葉をいくつか投げかけられたのは、記憶にある。それに些かむっ、としたことも。

 しかしそれらは、次のいとの言葉で、すべてが虚ろになってしまったのだ。


あの子が生きていたら、さぞかし、喜んだでしょうにねぇ」

「え?」


 初夏の風を受け、背後で手入れの行き届かない梨畑がざわめく気配がする。陽は柔らく差し、緑に萌える木々と影を交差させながら、眩しく揺れている。


 その渦中で、良太郎は思いもしないいとの台詞に、耳を疑った。



 足を引きずりながら訪れた故郷の菩提寺の墓地は、眩しい木漏れ日に包まれ、まるで一枚の絵画のような様相だった。


 そのせいだろうか。邦正が亡き妻の墓の前に跪き、長い黒髪を夏の風にたなびかせ、鮮やかなひかりのなか一心に祈っている姿は別世界めいていて、良太郎はここがあれほどまでに恋い焦がれた故郷だという実感が持てなかった。


 だから、目の前にあるのが馨の墓標だという現実も、どこか受け入れがたい。

 そんな光景のなか、いまここに、たしかに存在するいのちは良太郎と邦正のふたりのみだった。やがてそれを示すように、邦正の唇から、ふふふ、というくぐもった笑いが漏れる。

 そして邦正が、ゆっくりと良太郎の方に身体ごと振り向いた。


 生来、馨にそっくりだった面影は、齢二十五を迎えてもなお、生き写しかと思うほどに似ている。ことに男性にしては白い肌に細い顎、その輪郭を囲むように広がる黒い髪はまたも伸びていて、妻を思い出させる以外の何物で無く、思わず良太郎は、震えが身体中に走るのを、止めることができなかった。汗ばむほどの陽光の中にいるというのに。 


「ずいぶん、遅かったね。義兄にいさん。足、なんか具合悪いの?」


 邦正が僅かに微笑みながら、良太郎に声を掛ける。その声だけはか細いながらも若い男性のそれで、良太郎は我に返る。


 ――そうだ、目の前に居るのは、馨ではないのだ。


 馨はその土塊の下に骸となって埋まっている。良太郎は、彼女の墓参に来たのだ。邦正に会うためではない。良太郎はそう己に言い聞かせる。


「ああ。イルクーツクにいたとき、凍傷で右脚を悪くした」

「へえ、右脚。ソ連あいつらも粋なことをしてくれるものだね。それじゃあ、いまや、僕とおんなじじゃないか」

「一緒にするな。お前の脚が悪いのは生まれつきじゃないか。それに俺の脚はもう完治している」

「……それは残念」


 邦正はいかにも皮肉だとばかりに、口の端を歪めて薄く笑った。

 良太郎は思わず彼を張り倒してやりたくなったが、続いて響いた邦正の声がその衝動を抑えつけた。


「姉さんの墓参りに来たんじゃないのかい」


 挑発するようなその口調に苛つきながら、良太郎は邦正を押しのけるように馨の墓の前に歩を進める。そして、さっき彼がそうしていたように跪いた。ついで、ポケットから線香の束を取り出し、マッチで火を付けようとしたが、湿気っているようでなかなか火が付かない。

 すると邦正がすっ、と横から良太郎の手に新しいマッチを差し伸べてきた。至近距離で長い黒髪が、ゆらり、揺れる。


「ずいぶん用意がいいんだな」

「たまたま持っていただけだよ、煙草用に」

「お前、帝大でそんなことを覚えやがったのか。御国のために役に立てなかったくせに、そういうところだけは相変わらず一人前だな」


 そう言いつつも良太郎は、邦正の手からマッチをひったくるように奪うと、いつのまにか震え出していた手で擦りつけた。漸く火が点り、線香から辛気くさい匂いが煙り出す。良太郎はそれを嗅ぎながら、しばし、目を瞑って土塊に手を合せていたが、そうしているうちに得も知れぬ激情が心のなかで渦を巻いて、気が付いたときには良太郎は邦正の胸ぐらを掴んでこう怒鳴っていた。


「どうしてお前が生き延びている! どうして、馨が死んで、お前が生きている?」

「義兄さん、手に髪が絡んで、ちょっと痛いよ」

「知ったことか! また、男のくせにこんなに長く髪を伸ばしやがって! この非国民が!」

「姉さんから受け継いだ髪だからね」


 その邦正の冷たい声に良太郎ははっ、として、乱暴に手を彼の胸元から振りほどいた。反動で、どさり、と邦正は墓地の地べたに転がった。しかし地に伏せつつも邦正の顔には、なおも、良太郎を嘲る笑いが色濃く宿っている。そして、その表情に一瞬怯んだ良太郎の隙を突いて、邦正は素早く良太郎の上着の裾を掴むと、強く自分の方に引き寄せた。 


 不意を突かれて良太郎の身体は均等を失い、次の瞬間、邦正の上にどさり、と崩れ落ちていた。 


 邦正の髪がふわり、と良太郎の頬を擽る。その不快な感触がぞわぁ、と良太郎の背筋を駆け上がる。


 そして、なんということだろう、邦正の熱い舌までもが良太郎の首筋を這いずりまわる。仕留めた獲物を嬲るかのように、ゆっくり、じっとりと。

 やがて荒い息が顔に触れるに至り、慌てて立ち上がろうとすれば、邦正に強く凍傷で痛めた右脛を蹴飛ばされ、それもうまく行かない。


「う、ぐっ……!」

「はは、やっぱりほら右脚、治ってないじゃないか。僕とおそろいだ。ほら、ここをこうすると、もう痛くて、とても立ち上がることも叶わないだろ? 脚の悪さに関しては僕の方が遥かに先輩だからね、分かるんだよ」


 馨そっくりの切れ長の黒目が、苦悶の声を上げる良太郎を舐めまわすかのように見つめている。


 ――いや、これは馨などではない。あの愛しい妻の瞳などではない。


 それは、毒蛇のように邪な眼だった。


 やがてその目が、すっ、と細まり、ついで思いもよらぬ言葉が良太郎の鼓膜を叩いた。


「義兄さんのせいだよ」

「……なに?」

「姉さんが死んだのは、義兄さんのせいだと、言ったんだ」

「え?」


 良太郎は邦正に我が身を弄ばれているのも一瞬忘れて、目を見張った。

 そんな良太郎を見上げながら、なおも降り注ぐひかりのもと、邦正は淡々と語を継ぐ。


「義兄さんは、かねてから、そう、あの春の河原での出来事から僕を憎んでいたんだよね。まあ、それは当然って言えばそうだから、まだ良かったんだけど」


 墓地の地べたに転がされた身が、重なったふたつの肢体の熱でじんわりと汗ばむ。それは邦正も同じだろうに、彼の目は澱んだ熱に浮かされたかのように、昏く燃えている。


「もう覚えてないかもしれないけど、義兄さんは徴兵される前、職場で自分の義弟は、どうも帝大に行ってから共産主義思想アカに被れたんじゃないかと漏らしていたんだよね。その義兄さんの疑念は、義兄さんが出征したあと巡り巡って、どうやら警察の耳に届いてたらしいんだ。それで終戦の年、音羽に下宿していた僕のところに警官がやってきた。要するに、僕は引っ立てられたのさ」

「……」

「それを聞いて、慌てて馨姉さんは、東京に飛んできた。三月九日のことだ」

「三月九日……」

「そして、翌日の大空襲に巻き込まれて、姉さんは死んだ。……つまりはそういうことだよ、義兄さん」

「……そん、な」


 良太郎はあまりのことに絶句した。乾ききった喉からは掠れた声しか出すことができない。

 頭上を風が吹き抜けていく。陽はなおも眩く、男ふたりを包み込む。

 やがて邦正は、良太郎を見て愉快そうに、あはは、と笑うと、自らの髪の一房をつまみ、良太郎の喉元をつぅー、っと撫でてきた。


「……や、めろ……」

「ふふ、くすぐったい? でも僕、そういう顔する義兄さんも好きだよ。いいや、そういう顔した義兄さんが、大好きだな」


 そして、邦正の舌が、ちろ、と、またもや毒蛇のように首を這いずる。しかし、ことの真相に脱力しきった良太郎の手足には、もう抵抗する余力がない。

 いまや良太郎は邦正の歪みきった愛憎の為すがままにされている。


「ずっと、こうしてやりたかったよ。……というのもね、義兄さん。僕が東京で覚えてきたことは、共産主義思想アカだけでも、煙草だけでもなくてですね」


 長い黒髪が視界の隅で、またも、ふわり、ふわり、揺れる。

 良太郎はいまや力の抜けきった身体をなんとか動かして邦正から逃れようとするが、なおも右脛を邦正に小突かれ、それもうまくいかない。なんとかこの場を逃れなければ、という警告が慌ただしく脳内を駆け回っているというのに。

 そして邦正が禍々しい笑いを唇に湛えて、こう耳もとで囁いたとき、ついに良太郎は彼の思惑を知るのだ。


「……そう、男のってやつも、覚えてきたんですよ」

「……!」


 初夏だというのに、良太郎の背筋を寒気が駆け抜ける。そして、喉元にこみ上げるは、吐き気を催すおぞましさ。

 そんな良太郎を、邦正はただ、楽しげに眺め、そしてゆっくりと良太郎から身を離しながら声を放つ。


「伊藤先輩、彼です。頼みます」

「おう」


 邦正の声に応じて、物陰からいきなり若い男が現われた。

 伊藤と呼ばれた男の背は高く、体格も痩せこけた良太郎よりかははるかに逞しい。そしてその男が、抗いがたい力で良太郎の身を地表に転がす。

 気が付けば声を上げる間もなく、あっさりとのし掛かられていた。それはもう、赤子の手をひねるような容易さで。


「おお、いい目をしてやがる。こういう男、俺、好きだなぁ」

「……やめろ! やめろ!」


 伊藤がにやにやとしながら呟いた言葉に慄然として、良太郎は絶叫した。己の身にこれからなにが起こるかを予想して、身を震わせた。

 だが、良太郎の悲鳴は、ほかに誰もいない夏の墓地にただ吸い込まれて行くのみだった。


 程なく、今度は伊藤の荒い息が、肌を擽る。

 邦正は姉の墓前に佇み、煙草の煙をくゆらせながら、ただ、絡まり合うふたりの男を見ている。


 あまりの恥辱に呆然とする良太郎の意識の合間を縫って、邦正の声が鼓膜を叩く。その声音はどこか異界から聞こえてくるような遠さでありながら、深く深く、良太郎の脳裏に刻み込まれていく。


 ――ねえ、義兄さん。満州とかシベリアで、姉さんのこと思い出したりした? どんなとき? あっちの女とやったとき?


 ――でも、それって、僕の顔だったりしなかった? そうだよね、義兄さん、僕と初めて会ったとき、あんなことしたもんね。


 ――はは。まるで、お母さんと同じような格好だね。お似合いだよ。


 ――どう? これまで他人にやってきたこと、される気分は? ねえ、どんな感じ? 僕、知りたいな。


 良太郎はなおも叫ぶ。叫び続ける。

 なぜなら、いまや、彼にはそれしか出来ることがなかったから。


「この非国民が! お前は俺らが苦労している間、のうのうと内地で過ごしてたんじゃねえか! お前は狡い奴だよ! 唾棄すべき輩だよ!」


 だが、いつしか、その己の声でさえ遠くなる。

 かわりに響いてきたのは、幼い頃から何度も反芻した、あの呪文だ。

 

 男は、つよい。

 おとなはつよい。

 おとなの男は、いちばんつよい。

 おとなでも女は、よわい。

 男でも子どもは、よわい。


 そうだ、おとなの男は、いちばん強いんだ。なのに――。

 ――どうして、俺は、こんな目に、こんな目に、こんな目に、遭わなきゃいけない?

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