《4》-3

 最初の冬を越せない者は多かった。


 それに比べれば二年目は楽であるような気もしたが、その実感も連綿と続く労働の日々においては甚だ心もとない。


 そんな秋も深まった十一月の始め、七日は祝日なので一日休んでよいとの通達があった。


「革命記念日なんだってよ、ソ連のさ。まったく、ありがたいこったね」


 夕食後、誰かがそう皮肉げに呟いた。しかし、その声音にはどこか安堵の響きもある。

 それはそうだ、一日でも働かないで済む日があるのは、ありがたいことだから。たとえそれがどんな理由付けだったとしても、だ。


 すると寝台にひっくり返っていた良太郎に声をかけてきた者がいる。

 最近故郷の近さと年若さからか、なにかと良太郎に懐くようになっていた行原ゆきはらだった。


「そういや、小野寺さん。僕、出るんです」

「あぁ? 出るって、なんにだよ」


 冷えてきたせいか、今日も昨年凍傷を負った右の脛が疼く。

 苛々としていた良太郎は、行原の突然の言葉の意味を図りかねて、ぶっきらぼうに返事をした。そして行原の答えに、険しい目を嘲笑に歪める。


「革命記念日の演芸会にです」

「はぁ、あれかよ。お前、なにやるんだ」

「歌、歌うんです。なんか、女役やれる奴がいないからって、僕、引っ張りこまれちゃって」

「たしかにお前、背ぇ低いし、声も高いもんな。いいじゃねぇか、お似合いだよ」


 良太郎はせせら笑った。


 演芸会とは、抑留者の娯楽のために、ソ連の計らいとやらで最近行われるようになった会である。

 それに合わせて、芸達者な抑留者の間で簡易的な演劇団体やオーケストラが結成されるようになっていた。そのほかにも川柳や俳句、小説などの文芸活動を行う者もいた。


 要するに息抜き、またはソ連からすれば教化とガス抜きの一環であったわけだが、抑留が長引くにつれて、そのようなレクレーションに、この地にて生きのびようとする力を見出す人間も存在していたわけだ。


「小野寺さんもこの間誘われてましたよね、役者に。なかなか男前だからって。やらないんですか?」

「馬鹿言え。阿呆らしくてやってられねぇよ、そんなん」

「……そうですか。いっしょだったら、力強かったんですけど」


 良太郎の皮肉たっぷりの言葉に、行原はおどおどと語を零した。良太郎はそんな行原から目を背けるように寝台を転がり背を向けた。

 小屋のどこからか吹き込んでくる隙間風は、もう冬の気配を孕んでいる。



 革命記念日、つまりは演芸会の当日その日まで、良太郎は行原の舞台を見に行く気はさらさらなかった。そんな時間があったら、ただただ身体を休めていたかった。

 しかし時間が近づいてきてみれば、監視兵が小屋の全員を廊下に追い立てて整列させたので、これは仕方ないとため息をつきつつ列に加わった。


 果たして、無理矢理、客席に座らさせられて見た演芸会は退屈だった。良太郎が事前に思ったとおりであったが。

 演目は浪曲だったり、芝居だったりと様々であったが、正直言って良太郎の心を引くものはなく、ただただ早く終わってほしいという気持ちで舞台に投げやりな眼差しを投げていた。


 ――なにをやられたところで、こんなところ、糞でしかねぇ。俺は絶対に生きて日本に帰ってやる。絶対にだ。


 いつしか胸中にはそんな思いが満ちる。

 そして、ややもすれば沸き立つのはやはり、どうして、という疑問なのだ。


 時間も終わりに近づいた頃、ようやく行原の姿が舞台上に見えた。

 どうやら彼の出番がいちばん最後だったらしい。それにふさわしく、防寒服をどう工夫してこさえたものか分からぬか、行原は女ものの着物を着て、壇の中央に立っている。唇には赤チンだか木の実をすり潰したものだかの紅を付け、頭には馬の毛で作ったらしきかつらを着けている凝りぶりだ。


 客席に笑いがさざめく。

 良太郎は笑うこともせず、行原の晴れ姿にただ視線をやる。


 しかし、失笑気味の場の雰囲気は、直後、色を塗り替えられるように変わる。

 行原が男にしては甲高い声を張り上げて「さくら、さくら」と歌い出したのだ。途端に客席の笑いは収まり、皆が皆、真剣な面持ちへと変化した。


 お世辞にも上手な歌ではない。音程は外れてるし、なにしろ緊張を隠せもせずにかつらを振り乱すその姿は美しいわけもなく、滑稽そのものだ。それでも、男たちはいつしか歌に聞き入っていた。

 やがて、いつしか旋律を口ずさむ者が現れた。そして、男泣きに泣く者も、ひとり、またひとり。そしてまた、ひとり。


 気がつけば客席の多くが「さくら、さくら」と合唱し泣いている。舞台の上で馬の毛で作ったかつらを振り乱している行原も、客席の男たちも。

 そして、いつしか良太郎は、自分までもが涙を流していることを知る。

 

 そんな己が意外だとどこかで思いはした。戸惑いもした。女々しいことだとも思った。だけど、痩せこけた頬を伝う涙はやはり止まらないのだ。

 そのとき、歌うことこそしなかったが、結局良太郎は、泣きながら男たちの合唱の只中で佇むことしかできなかったのだ。


 良太郎は、顔を濡らす熱い奔流と、心に渦巻くなにかに押しやられるように壇上の行原に視線を投げる。

 そして、その瞬間、声を枯らして歌う女役の行原の姿に重なったのは、あの、姉によく似た輪郭を持つ邦正の面影だった。


 良太郎は己のなかに浮かんだ思いもしない残像に、思わず心の臓を跳ねさせた。


 ――どうして。どうして、あいつをここで思い出さなきゃいけないんだ。よりによって、あいつなんかを。


 良太郎は強く坊主頭を振り、邦正から意識を離そうと試みる。

 だが、だめだった。一度浮かんでしまった邦正の姿は、目前の行原の顔と重なって、良太郎の網膜から消え去ってくれない。


 なおも収容所ラーゲリ内に響き続ける「さくら」の絶唱のなか、彼はいまやはっきりと混乱し、またも心に問いかける。


 どうせ同じ顔なら、妻である馨を思い出したかったのに、どうして、どうしてなんだ、と。

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