幽玄な空間で織り成される、過去と夢想に囚われ解放されゆく人々の幻想譚

 未明から夜明けの手前、ほとんどの人が起きておらず寝入っている中、一人起きた時に感じられる静謐。外は薄明るくなり始めながらも、室内はまだ暗い。動きに伴う微音はともかく、自分の口から一言でも発してしまえば崩れてしまいそう――そんな空気感を持つ作品です。
 色彩豊かに、雅やかな筆致と言葉で語られる作中風景は、漆塗りの黒い箱に収められた綾錦のよう。ミステリアスな印象を受けながらも、雨音に耳を澄ませて横臥しているかのような心地で読んでいくと、いずれ黒布を被せられていた真実が明らかとなっていく。時に穏やかで美しく、時に苛烈で恐ろしく、時に寂しく懐かしく……和の世界が持つ情緒と、読み覗き込むこちらの心に橋をかけてくれるような、不思議な魅力と吸引力に満ちた作品でもあります。

 主人公の氷雨が勤めている「浮橋屋敷」は、人の悪夢である黒い蝶を捕らえるための場所。様々な役職の人々が属しており、氷雨は一番下の見習いから徐々に昇進し、最終的には月下藍と呼ばれる役職、屋敷の主である「浮橋様」に最も近い立ち位置を目指しています。
 なぜなら、浮橋様は彼の幼馴染、死んだはずの雪代と似ていたから。

 氷雨が雪代と死に別れたはずが生き写しと再会したように、浮橋屋敷には何らかの事情を抱えた人々が集まっています。黒い蝶を抱えた人々の事情が不明瞭なように、氷雨の同僚や先輩、後輩たちも経歴を明らかにすることはありませんが、時には何らかの事件をきっかけに語られることもあります。黒い布からちらりと見える景色あるいは顔のように。
 けれど、明らかになった過去がこちらにまで襲いかかってくることはない。一つの光景が織り縫われ描かれた打ち掛けがふわりと掛かってくるような。静かな瞳に見つめられているような。押しかけずにただ黙して、その姿がどうしようもなく心を惹きつけてやまないのです。過去と「もしも」の夢想に区切りをつけて、今を見つめる人々の姿も。

 夜のような黒い布と、あわいの時間や雨曇りの薄闇。その下や囲いの中で芽生え息づく心情と、神秘的な風景の色鮮やかさ。和風ファンタジーが好きな方はもちろん、人情ものやお仕事ものなどを読みたい方にもオススメです。ぜひ、奥深い世界を堪能してください。