浮世黒蝶みをつくし

市枝蒔次

序~十

序 黒蝶の夜へと手を招く


 早瀬川 水脈みをさかのぼる 鵜飼舟うかいぶね まづこの世にも いかが苦しき(千載205)



「手招きぐさ」の香がする。



 その香を放つ布がかすかに揺れるたび、甘く懐かしい香の強さが変わる。そして、それがやわらかく鼻先をなでていく。

 氷雨はぼんやりとそれを感じながら、畳の上に寝転がっていた。首元にやわらかく刺さる、黒水晶色の髪。頭上で牡丹の花弁のようにはためく、宵闇を含んで薄暗い青緑色の布々。


「ひさめー」

 布の重なりの向こうから、深山みやまのよく通る声がする。それに続けて、布をかき分ける音。

「眠っているのか?」

 深山の独り言。部屋の壁一帯を覆う布が、天女の衣のように揺れる。もしくは、鯨幕くじらまくのように震える。

「お早う」

 布の隙間から、深山が顔を出した。薄青白い手提灯で浮かび上がる、少女の顔。一つに結ったつややかな黒髪。それが、夜闇にとっぷりと沈んだ部屋の中でもよく映えていた。

「お早う、深山」

「また、悪夢を見ていたのか?」

 氷雨は身体を起こした。頭を撫でる布の感触。よく磨かれた床は、枯れ枝のように細い体をよく反射している。思わず氷雨は、白いころもの襟を直した。


「じきに夜が来るよ。お前も準備をしな」

「もうそんな時間か」

 暖簾のれんのように布をかき分けながら、ゆっくりと立ち上がる。すると、長押なげしから長押へと渡した、幾つもの竹竿が見えた。そこに、幾枚もの布が掛けられている。それが滝のように床へと垂れ下がっていて、氷雨の髪を撫でるのだった。

「竹籠も持ってる」

「なら良し。捕らえたが逃げないよう、閉まりの具合をきちんと確認しておけよ」

 橙色の着物に身を包んだ深山は、形のよい唇を軽く緩める。それも一瞬、すぐに表情を引きしめるとその場にかがみ、美しく染め上げられた布をすくい上げる。雨に濡れる葉に似た青緑色の布からは、砂糖を混ぜた湯のような、かすかに甘い香がした。「手招き草」の香。



ときは夜、人が皆、悪夢を見る頃。夜闇は、蝶の羽が色に似たり……」



 歌うように呟く深山とともに、す、と戸を開く音。二人が部屋を出ると同時に、部屋から明かりが消え、布は先程より少し濃くなった闇の中に黙する。


 

「さあ、来な、氷雨。我々の務めしごとを――、」



 氷雨の手元で、竹籠がからりと音を立てる。




「『蝶捕り』を、始めようか」






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る