浮世黒蝶みをつくし
市枝蒔次
序~十
序 黒蝶の夜へと手を招く
早瀬川
「手招き
布がかすかに揺れるたび、香の強さが少しずつ変わる。そして、それがやわらかく鼻先をなでていく。
「ひさめー」
布の重なりの向こうから、
「ここにいるの、本当に好きだね……」
深山の独り言。部屋の壁一帯を覆う布が、天女の衣のように輝く。さわさわ、と木漏れ日のように音を立てて震える。
「お早う」
布の隙間から、深山が顔を出した。「月下蛍」の入った青白い手提灯のそばに浮かび上がる、一つに結ったつややかな黒髪。それが、夜闇にとっぷりと沈んだ部屋の中でもよく映えていた。
「お早う、深山」
氷雨は身体を起こした。頭を撫でる布の感触。よく磨かれた床は、枯れ枝のように細い体をよく反射している。思わず氷雨は、白い
「じきに夜が来るよ。『
「もうそんな時間か」
「竹籠も持ってる」
「なら良し」
橙色の着物に身を包んだ深山は、形のよい唇を軽くゆるめる。それも一瞬、すぐに表情を引きしめると、さっとその場にかがみこんだ。
「布の
「いつもそれ言ってるよ」
美しく染め上げられた布をすくい上げる深山。雨に濡れる葉に似た青緑色の布からは、砂糖を混ぜた湯のような、かすかに甘い香がした。「手招き草」の香。氷雨は
「……おれ、やっぱりこの香が好きだ。一杯に吸い込むと、懐かしい夢を見た後に似た気持ちになる」
「そうか」
そう言いながらちらりと氷雨の方を見た深山は、目を細めて低く呟いた。
「お前も未だ、内に
す、と戸を開く音。二人が部屋を出ると同時に、部屋から明かりが消え、布は先程より少し濃くなった闇の中に黙する。
闇の色、それは人の内に生まれ出づる、不思議な蝶の羽の色。
甘く懐かしき香に手招かれて現れる、妖しき蝶の羽の色。
氷雨の手元で、竹籠がからりと音を立てた。
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