一 蝶の捕り役を務むる者
床板がきしむ音がした。部屋の戸の前で控えた氷雨は顔を伏せ、片膝を立てている。「宿主」がいらっしゃる合図だ。
「ようこそ、『
「浮橋屋敷」の客――「宿主」を案内する深山が持つ手提灯が、氷雨の足元を
「こちらでございます」
「宿主」が畳に足を乗せるともに、氷雨は戸を閉め、静かに顔を上げる。視線が上向き、布を取った「宿主」の顔がちらりと見えた。
細く、折れてしまいそうなほど背の高い青年だった。暗がりでもわかるほど、顔が生白い。氷雨の声にはぼんやりと反応しているようだったが、その瞳は明らかにうつろ。
氷雨は静かに着物を整えると、手元の竹籠を手に取り、深山とともに部屋に上がった。
薄暗い部屋の中には、「手招き草」の染め色と香りが染み込んだ青緑色の布が、幾重にも垂れ下がっている。その下には、障子紙と竹ひごで作った、小さなかまくら型の灯りが置かれている。灯りの中にいる青白い蛍が、「宿主」を導いていた。
「お茶でございます」
茶碗を差し出す。特別な香草とまじない粉を調合した薬膳茶だった。青年は畳の上に腰かけて、それをゆっくりと飲む。湯気がほんのりと広がり、部屋をかすかに潤した。
かちゃ、と陶器が擦れる音が響いたのを合図に、氷雨は畳の上を手で示す。
「こちら、灯りの近くにお体を横たえてください」
しゃらり、と衣擦れの音が響いた。おそらく絹の着物なのだろう。灯りにぼんやりと照らされたその生地は、月光のように滑らかだった。
「目を閉じて……」
甘い香に惹かれるようにして横たわった「宿主」は、それに従って目を閉じる。しばらく彼は寝返りを打っていたが、ここにやって来てから
「手招き草」の名前の由来は二つある。
一つは、その香が人を眠りの世界へと手招くこと。
「ちゃんと眠っているか?」
「うん、大丈夫そうだ」
深山の言葉に返事をする。すうすうと寝息が聞こえるたび、青年の骨ばった頬が揺れていた。彼の目元には薄黒い隈。眠れていなかったのだろう。
布が揺れる。蛍の灯りがちらつく。
「そろそろ来るよ、氷雨」
「わかった」
……その眉が大きく歪み、瞬間、青白い蛍の光が消えた。
「来た」
訪れた暗闇と引き換えに、突然ぱっと青年の額辺りが明るくなった。そしてそこから、黒いこぶのようなものが二つ、姿を現す。濃い赤紫色の光を振りまくそれは、水中から引き上げられるように、少しずつ姿をあらわにしていく。氷雨は、竹籠を構えながら一歩前に進み出た。
青年の額から現れたのは、一羽の大きな黒蝶だった。
「飛んだっ」
世界に全身を現した瞬間、蝶は大きく羽ばたき、宙に体を躍らせた。漆黒に染まった硝子のように繊細な羽。氷雨は素早くその軌跡を追う。そして、垂れ下がった布の端あたりに竹籠の入り口をかかげると、吸い込まれるように、蝶は竹籠の中に飛び込んでいった。
「手招き草」の名前の由来は二つある。
一つは、「その香が人を眠りの世界へと手招く」こと。
そしてもう一つは、「その香が蝶を手招く」こと。
「手招き草」の香は、
「良し」
竹籠の中にも、「手招き草」の汁が薄く塗ってある。竹籠の中に収まった蝶は、静かに触角を揺らしていた。扉を閉じ、氷雨は一息つく。
「……大きいな」
「それに、今宵の蝶は一段と黒い。これは数晩苦しめられたと見た」
氷雨の隣にやってきた深山が、蝶を見ながら呟いた。
「黒蝶、それは、人の悪夢が蝶の形を成したもの……」
氷雨は、無言のまま頷いて、しばらく蝶を見つめる。この美しい黒蝶が、青年の中で巣食っていたのかと考えながら。
「これ以上大きくなっていたら、彼は一生悪夢を見ていただろうね」
深山の独り言を聞きながら、氷雨は再度、黒蝶を見る。彼は一体、どんな夢に苦しんでいたのだろうか。黒蝶は言葉を発しないから、その答えを教えてくれることは無い。
「それは、我々『月下』には知りようがない。客人と『浮橋様』しか知らない秘密だろうよ」
心の中を見透かすように、深山が薄く笑った。
「秘密……か」
いつの間にか、部屋がほんのりと明るくなっている。蛍の光が再び灯りとなって、眠り続ける青年と二人を照らしていた。
「人間、誰もが秘密を持っているものだ。だから皆、悪夢を見る。でも氷雨、お前の秘密は、この屋敷の者に言ってはいけないよ」
竹籠の中で淡く光る、蝶の底知れぬ黒さよ。
「その秘密はすなわち、『
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