二 浮橋様に献上せられしもの
「二人ともお疲れ様」
そう言って、
「宿主」をお見送りし、部屋の片づけをした後。氷雨と深山は決まって、同じ場所に行く。
「宿主」が出入りする館である「
「蝶の捕る役」は主に夜活動するため、朝餉といってもこれは夕餉にあたる。そして、朝またはヒルから夕方頃まで眠り、翌日の務めに備えるのだ。
「今日の蝶は一際大きかったな。なあ氷雨?」
「あ、このお茶、すうっと透き通ったいい匂いがして……美味しいです。さすが山辻さん」
「こら、師匠の話はきちんと聞け」
深山がそう言いながら、ふーんと鼻を鳴らす。氷雨は仕方ないと言うように大袈裟に肩をすくめると、茶碗とともに運ばれてきていた菓子を半分に割った。潰した米と荒く砕いた落花生を混ぜて蒸した、山辻手製の菓子だ。表面には、甘い醤油がたっぷりと塗られている。二人は、いつもそれを朝食代わりにしていた。
「いつもお世話になっています、深山師匠」
「うむ、お前は見込みのある弟子だ。これからも精進するがよい」
「はいはい」
「一人しかいないだろう、弟子は」
氷雨から渡された半欠けを一口で頬張って、深山はにやりと笑む。いつも座る窓際の席からは、仄明るい空が見えていた。夏の終わり、どこか甘くもほろ苦い風の匂いが、茶の匂いと混じり合っていく。
「氷雨、お前今幾つだ」
「十六です」
「年はさほど変わらんのに、深山が師匠か。面白いというか、感慨深いというか」
「私の方が長くここにいるんだから当然だ」
深山の橙の衣と、山辻の紅の衣が、灰色の壁が覆う厨房の中で淡く灯っている。氷雨は黙ったまま、がりがりと首元を掻いた。その勢いで、狼の毛のように軽くはねた襟足が、白い衣の元で揺れる。
「あ」
ふと深山が立ち上がって、窓辺の黒い欄干に肘をついた。そして、大きく身を乗り出す。
「危ないぞ、深山」
その様子をたしなめる山辻も、視線は窓の外に向いている。氷雨も思わず立ち上がり……、その前に菓子を口の中に放り込んでから、深山の隣に立った。
「『
目に入るのは、夜闇のように鮮明な藍色の衣。竹籠を複数持った者が八人、二列縦隊になって歩いている。そして、氷雨たちから見て左方向にある建物へと進んでいた。
その建物の名は「
名前の通り、「浮橋屋敷」の中心となる場所だった。
竹籠の中には、夜闇に透かすよりは地味に見えるものの、淡く発光する黒蝶が見える。「献上役」は、それを粛々と「浮橋御殿」へと運んでいく。カッ、カッ、と独特な音を立てる靴は、「献上役」にのみ許された、特別な靴だという。これで、御殿の主人――「浮橋様」に合図をするのだ。
「……美しいな」
深山が呟く。背筋を凛と伸ばした「献上役」の姿は、自然と三人を無言にさせるだけの力を持っていた。
その一人が、ふと視線だけで鋭く辺りを見回す。氷雨はどきりとして、欄干の近くにしゃがみ込んだ。それでも、いつの間にか口をもぐもぐと動かすのを止めるほど、「献上役」に見入っていた。
「献上役」が「浮橋御殿」の中に入り終わると、山辻がちらりと卓の上の空皿に目をやって、厨房に向かった。氷雨は息をついて、先程まで座っていた椅子に戻る。
「あの人たち……藍色の衣の人たちは少し苦手だけど……『献上』はやっぱり綺麗だ」
「まあ、一種の儀式みたいなものだからね。でも、身も蓋もない言い方をすれば、やってること自体は山辻と全く同じさ」
深山が肩をすくめる。菓子の乗った皿を今しがた卓に置いた山辻は、太い眉を軽くへの字にして、首をかしげた。
「これは深山師匠への献上、ということか?」
「そうさ……あくまで、もののたとえだけどな」
深山は大きく口を開け、菓子を丸ごと口に放り込んだ。
「私への献上。『浮橋様』への献上。……私は黒蝶を喰ったことがないがね」
「ああおいしい、山辻の茶菓子は随一だよ」と言いながら菓子を頬張る深山をちらりと見て、氷雨も菓子を手に取る。そして、それをじっと見つめた。つやつやと光る醤油だれが、彼を見返す。
蒸し器から取り出されたばかりの、好きな茶菓子。
あの青年の額から飛び立ったばかりの、大羽の黒蝶。
ぱくり、と氷雨は一口菓子を頬張った。優しい甘みが口の中に広がる。それを味わいながら、氷雨は「浮橋御殿」の中で今行われているであろう「献上」のことを考えていた。
「浮橋屋敷」に住まう「浮橋様」……
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