三 くわきりの実の色を知る
ある日、夕餉を食べた後、厨房の片隅で氷雨がぼんやりと茶を飲んでいると、その近くにある裏口の戸が音を立てて開いた。
「お、氷雨」
帯を乱雑に結んだ白い着物。髪の毛にかすかに寝癖が残り、歯が一本抜けた少年だった。
「
「よう。なあ氷雨、お前今暇だな?」
「今、美味い茶を飲むのに忙しいんだ」
ずず、と音を立ててながら、寝ぼけ眼で茶をすすると、引鶴は「渋いなあ」と言いながら氷雨が座る椅子の周りをぐるぐると回った。
「ならば俺が、茶より美味い話をしてやろう」
「何だよ、勿体ぶって」
茶の湯気からは、鳥の声も聞こえぬ澄んだ朝のように、爽やかな香がした。それを胸いっぱいに吸い込んで、氷雨は顔を上げる。彼の長い睫毛の奥には、
「さっきまでな、『
「くわきり」は、「植生倉」で育てている木のうちのひとつだ。
夏の終わりに、石つぶてほどの大きさの、赤くてころころと丸い実をたくさんつける。これを砂糖と一緒に煮込むこともあれば、香辛料を加えて煮込み、「植生倉」で飼っている鶏の肉を焼いたもののたれにすることもあった。
「……行く」
「おっ、お前本当に食い物好きな」
「好きなものは、好きだから」
茶椀を、厨房にいる山辻に返す。氷雨と引鶴の会話を聞いていたのか、山辻は「『くわきり』を採ったら、ここに持ってきてくれ」と言った。
氷雨がこくんとうなずくと、少し笑い、太くて大きな手の平で氷雨の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。切りたての野菜と、調味料の匂いがした。
「くわきりは、お前が飲んでいる薬にも入っている。沈んだ気持ちを明るくする効果があるからだ。大事に摘めよ」
「はい」
ひさめー、と裏口の近くで引鶴が呼んでいる。氷雨は手を振り返し、山辻にお礼をしてから厨房を出た。
「山辻さんの言う通りだぜ。『
「わかってる、ありがとう」
「ま、俺はまだ手伝いばっかりだけどさ」
二人は話しながら、厨房がある「役事所」を出る。そして、中央に「浮橋御殿」がある広場を時計回りに歩くと、すぐ「植生倉」にたどり着く。
「浮橋屋敷」の造りは意外と単純だ。
中心には、浮橋様の住まう「
そして「浮橋御殿」を囲うように並ぶ、四つの建物。
東には、「宿主」の来る「
西には、食べ物を育てる「
南には、厨房や染め布工房がある「
北には、氷雨たちが住まう「
それら全てを、土塀が囲っているのである。
「ほらここ。見ろよ、熟してる」
離れほどの大きさの家屋である「植生倉」の周りは、ほとんどが庭で、その至る所には植物が育っていた。
瑞々しい緑の葉々、生命力のみなぎった枝を伸ばす木々、そしてぱっと顔をほころばせるように開く、赤、黄、橙、紫などの色彩を描き出す花々。
その種類も様々で、普段食事の中で見かける果物の木もあれば、おそらく良薬に仕立て上げられるのであろう、ほろ苦い香りの草もある。夕暮れの中に現れた、視覚、嗅覚を刺激する鮮やかな庭に、氷雨はしばし見惚れた。
植物の世話を担当している引鶴は、慣れた様子でずんずんと先へ進んでいく。そして、目当ての「くわきり」の方まで氷雨を誘った。
「……本当だ。いい匂いがする。こんな小さな実なのに、大ぶりの花くらい濃い匂いがするんだ」
「そうだろ。あ、知ってるか?『くわきり』にはこんな伝説があるんだってさ……」
引鶴は、実が鈴なりになった房を手折ると、一粒を取って口の中に放り込んだ。そして、「やっぱうまいな」と言いながら、残りを氷雨に放る。
「昔……黒蝶を捕る方法もわからない頃な。悪夢に苦しむ『くわきり』という少年がいたらしい。そいつが、あんまり苦しいもんだから、もう人の体でいるのは嫌だ、もの言わぬ木になっちまいたいって思って、この木に変身したんだと」
「……へえ」
それが
手の甲を、「くわきり」の汁が伝う。それを咄嗟に舐め、そしてぎくりとして舌を止めた。水に浸したばかりの布のように、舌にじわじわと広がる甘酸っぱさ。
「今、『くわきり』はどう思ってるだろう。死んで
ふと、氷雨は呟いた。ぱちんと口の中で実が弾けて、そして雪が溶けるように、ゆっくりと崩れていく。
「さあね。伝説は伝説。俺にとって、『くわきり』は大切な薬木だからな」
「割り切ってるなあ。じゃあ何で話したんだよ」
「気分」
「……そのくらいのものか」
また一粒、口に運ぶ。赤く染まった粒の表面を、澄んだ朝露が零れ落ちていく。
ぽたり、と音を立てる。
「よし、たくさん摘んで、倉の中に干しておくか」
「うん」
「植生倉」から籠を持ってきた引鶴が、それを振りながら笑う。その仕草にうなずいて返すと、歯の奥に挟まっていた「くわきり」の種が、ぱちんと音を立てて爆ぜた。
――今、『くわきり』はどう思ってるだろう。死んで後、『浮橋屋敷』に辿り着いて。
「浮橋御殿」は、屋敷内のどこからも見える。今も、どこか人を遠ざけるような雰囲気を持ったまま、静かに建っている。
「『死んで後に』……か」
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