四 逢魔が時に魔が差す


 うたたねは おぎふく風に おどろけど 永き夢路ぞ さむる時なき(新古1804)


「くわきり」の実を干し終えて、氷雨は自室に戻っていた。未だ夕方、「蝶の捕り役」の時間にはまだ早い。まだ横になっていようか。

 板張りの天井が、独特の文様をもって氷雨を見下ろしていた。じんじんと体に伝わる熱は、肉体労働と、風呂によるものだろう。


「月下長屋」は、「浮橋様」に仕える者たち、通称「月下」の住まう場所だ。「宿主座敷」とほとんど同じ設計の六畳間が、一人一人に与えられる。

「月下長屋」の渡り廊下に立つと、同じ造りの戸が合わせ鏡のように延々と、廊下の左右に続いているのが見える。だから氷雨は、自室に帰ると安心すると同時に、誰も知らない世界に一人迷い込んでしまったような気持ちになるのだった。


 ずりずりと畳の上で体を動かして、障子窓の方に向かう。「宿主座敷」の六畳間は、黒蝶が逃げないよう窓が無かったが、「月下長屋」の部屋には窓がある。その一方で、布をたくさんかけるために長押に渡した竿は、「月下長屋」には一本も無かった。


 からからと御籤みくじ箱のような音を立てて、氷雨は窓を開ける。髪を乾かしてから少しうたた寝していたせいか、外はいつの間にか薄暗くなっていた。手を伸ばせば、そこからすぐに体の輪郭が消えていってしまいそうな、不安定な時間。橙とも紫ともつかない、淡い色彩が支配する時間。

 

 世の人は、それを逢魔が時おうまがどきと言う。


 窓から外を覗くと、土塀の隙間から、屋敷の外にある細い路地が見えた。

 そこを行く人の姿は、ぼんやりと曖昧に見える。そこにいることはわかるけれど、誰かまではわからない、彼時かれどき

 薄い影に包まれているせいだ。ただ、彼らが何となく何をしているかは、遠目からでもわかる。家路を急ぐ者。子どもと連れ立って歩く者。市場の商人。風鈴売り。

 ……氷雨は、着物の白地を空に透かした。それから、他の「月下」たちの着物の色を考える。橙、紅、藍。色とりどりの着物が「浮橋屋敷」の中で駆け回る様子は、刻々と移り変わる空模様のように美しい。

 美しく、どこか妖しい。


 ……逢魔が時の色。

 蝶を喰らう「浮橋様」、彼に仕える者たちの着物。

 

 氷雨の部屋からは、「浮橋御殿」は見えない。

 渡り廊下を挟んだ反対側に面する部屋であれば見えるのだが、氷雨の部屋は違う。氷雨は屋敷と外との境界近くにいる。

 畳の上に放っていた団扇うちわを手に取った。それをぱたぱたと動かす。ほろ苦い風が吹く。通りから人が消えていく。誰もいなくなる。誰も。


 ……「浮橋御殿」に、行ってしまおうか。


 ふと、そんな考えが浮かんだ。

 今の時間であれば、月下の皆はほとんど部屋にいて、あとは寝るだけのはずだ。渡り廊下を抜けさえすれば、後は土塀の影に沿っていけばいい。そんな冷静な考えが頭に浮かんで、氷雨の体がぞくっと震えた。


 基本的に、「月下」は「浮橋御殿」には出入りしない。

「献上役」たちが例外なのだ。だから、ほとんどの「月下」は「浮橋御殿」の外で仕事をする。それに、氷雨は特に近づくことを警戒されていた。

 

 ごくり、と唾を飲む。それと同時に、氷雨は窓を閉め、立ち上がった。


 ゆっくりと戸を閉め、裸足で渡り廊下を進む。静まり返った廊下は、音をも逢魔が時によって曖昧にされてしまったよう。壁を伝うようにして何とか「月下長屋」の玄関に出ると、氷雨はゆっくりと息をついて、草履をはいた。

 屋敷と外を隔てる土塀の影に隠れるようにして、北の「月下長屋」から、中心にある「浮橋殿」へ向かう。出入りをしている「月下」はいない。少しばかり積もった砂が風で巻き上げられ、広場で舞を披露していた。その中心にある「浮橋御殿」は影に沈み、夢の中にそびえる楼閣のような奇妙な怪しさを放つ。普段ここで働きながらも、皆どこか畏怖するように見る、黒い屋根の建物。


 「浮橋御殿」の中に、いる。

 忘れえぬ者が待っている。

 きっと、おれのことを手繰るようにして、待っている。

 

 野原を舞う蝶に導かれるように、ただただ純粋な気持ちだけで、氷雨は前へ進んだ。足元で草が音を立て、そのたびに心臓をひやりとさせながら。少しずつ、「浮橋御殿」が近づいていく。


 あともう少しで、また、雪代ゆきしろに……。


「こら、氷雨」

 ふいに肩を叩かれ、心臓が跳ねた。思わず身を縮めた氷雨がおずおずと振り返ると、そこには片眉を吊り上げた深山。腰に手を置き、彼女はすっと目を細めた。

『浮橋様』に会いに行く気か。懲りないな、お前も」

「……深山」

 ざあっ、と虚しい音を立てて、風が流れる。

「会ったところで、悪夢がひどくなるだけだ。薬が効かなくなったら……お前、どうする気だ?」

 目を見開いたまま固まる氷雨。その両肩をむんずと掴み、深山は真正面から彼を見据すえた。引き結ばれた彼の唇の色が、着物の白に溶けて、そのまま消えていってしまいそうだった。

「なあ氷雨、私はお前の師匠であり、お前の監視役でもあるんだ。わかっているな」

「……はい」

 黒く塗られた御簾みす。薄闇の中に煌めく「月下蛍」。窓のない空間。

「魔が、差したんだ」

 彫刻のように冷たい頬。塗り潰したかと思うほど黒い瞳。硝子片に似た冷たい声。


「深山に迷惑をかけたいわけじゃない。それに、『耐えねばならない』と、自分で、言ったのに……」

「うん」

「……さっき、部屋にいた時、自分以外誰もいなくなったような、自分の輪郭が、逢魔が時の中に溶けてしまいそうな感じがして、」


 

「たまらなく……さびしくなったんだ」



 ぽん、と深山が背中を叩いて、氷雨ははっと意識を戻した。

「……厨房に行くか?もしかしたら、茶くらいならまだ飲めるかもしれない」

「……ありがとう、ごめん」

 逢魔が時が夜に空を引き渡し、全てが同じ色に包まれていく。氷雨は自分の手を見た。骨が浮き出た、生白い手首。夏の暑さはほとんど取り除かれ、指先はかすかに冷たい。その温度に、頼りない自分の魂など簡単に奪われてしまいそうな気がして、思わず手を握りしめた。

 深山の声が響く。


「悪夢を見たくなければ、秘密をこれ以上増やすな。内で育つ黒蝶に、心も体も喰い尽くされるぞ」

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