五 御簾の彼方には黒


 秘密はたけき毒なり。

 蜜の如く甘く美しけれど、たいをぞむしばまめ。

 秘密はしき夢なり。

 ねぶりをおかして羽化し、心をぞ虫食むしばまめ。



 その日は、未明から春の長雨が降っていた。

 空はねずみの毛色のように薄暗く、その隙間を縫うように、白銀の雫が降り注いでいた。それはどれも冷たく、少年の体に当たるたび、小さな硝子の装飾品が割れるような音が響いた。


「これからお前は、『浮橋様』に会う。そうしたら、初めてお前はここで生きていくことを許される。お姿は見えないし、声も聞くことはできない。それでも、『浮橋様』はお前の主なんだ」

 当時は名前も知らなかった深山が、少年の前で話す。橙の着物の色も、雨中へ静かに沈んでいた。

「うきはしさま……」

「そうだ。ここで働いている『月下』は皆、『浮橋様』に助けていただいたんだよ」

 少年は思わず、着物の襟を直した。頭の中が霞のようにぼんやりとしている。ただただ言葉を反芻して、そうしてやっと脳が言葉を受け入れるというのを繰り返していた。


 少年はその頃、薬と食事を与えられ、夢と現実の区別がつかぬまま、起きては眠る生活をしていた。そうして何日が経っただろう。火傷の痕が薄くなった頃、少年は深山に呼び出され、こうして「浮橋御殿」へと向かっているのだった。

 

「参りました」

 深山が、藍色の着物の「警護役」二人に、少年の来訪を告げる。すぐさま藍色が御殿の中に消え、代わりに木製の扉が、ぎぎぎと音を立てながらゆっくりと開いた。


「浮橋御殿」の造りは、神社の本殿に似ている。

 今しがたの開門は、まるで賽銭を払う人と神とを隔てる壁を取り払ったように、どこか厳かな空気を放っていた。

「行こう」

 深山が扉の先を示す。そこには、夏夜のように幻想的で妖しい空間が広がっていた。


 まず目の前に飛び込むのは、何重にも重ねられた黒い御簾と布。それに包まれた長方形の空間は、満開の黒牡丹のようにも見えた。そしてその中に、点々と人魂のように青白い、「月下蛍」の灯りが見える。

 どこかで香でも焚いているのか、何に似ているともつかない、独特な匂いが広がっていた。今まで嗅いだこともないのに、不思議と芳しいと感じる香り。


「私はここで待っているから、行ってきな」

 深山の声と同時に、扉が閉まる。外からの仄明かりが消える。深山と「警護役」は、扉の向こうに消えた。


 それと同時に、御簾の向こうから、白い鳥のような形をしたものが飛んでくる。手に取ると、それは鳥の形をした紙。表面には、「浮橋様」が書いたと思しき文字が書かれている。

『名』

「……氷雨と、申します」

 答えると同時に、白い紙は地面に堕ち、焼け消えた。役目を終えた紙を、少年――氷雨はぞくっと震える背中とともに見つめる。

『契』

 続けて飛んでくる紙と筆。契り。ここにやってきた者は、「月下」として「浮橋様」に仕える。そして、「浮橋様」が食べる黒蝶を集めるために、人々の悪夢を捕るのだという……。

 ここに、「約」の字を書いて返せばいい。そうすれば、「浮橋様」との契約は成立する。黒蝶によって引き合わされた契約が……。


 カツン、


 ふと、御簾の向こうで音が響いた。思わず氷雨は手を止める。御簾の床の隙間に、それが見える。……杖、だろうか。

「『浮橋様』?」

 しばらく静観していても、一向に拾われない杖。いぶかしく思った氷雨が思わず声をかけると、不思議な声が聞こえてきた。


 それは……嗚咽だった。


 絞り出すような、胸を引き裂かれるような、上ずった声。それが、黒い空間の中に響き、ぼわんと反響する。「月下蛍」の光がかすかに揺れ、御簾につけられた水晶の欠片がしゃらりと音を立てた。紙と筆を床の上に置き、氷雨は黙り込む。黙り込む……。


「どうして、泣いている……」


 最初は、自分の呟きかと思った。しかし、唇を触ってみても、氷雨の口は動いた感触がない。そして、その呟きを頭の中で反芻し、反芻し、反芻し、理解した瞬間、大きな波を頭からかぶったような戦慄が、氷雨の頭の中を走った。


 暗闇の中を先導する流れ星のように優しく、夕日の名残りのように切なさを帯びた声。

 おれは、この声を、知っている。



「……なんで、なんでここにいるんだ」

「来るな」

 冬の空気のように冷たく、鋭い声。それから、声を発したことを悔いるような息遣いが響いて、御簾の向こうは静かになった。代わりに響く、氷雨の鼓動。から、と筆が転がる。立ち上がる。いけないことだとわかっていても、ひとつひとつ、秘密を剥いでいくように、御簾をたくし上げる。気配が濃くなっていく。ぴりぴりと激しく震える指先。そこが熱をもっては、愚直な力を氷雨に与える。


 逃げない。

 「浮橋様」は逃げない。

 待っている、

 そんな予感が身を貫く。倒れ込みたくなってしまうほどの動揺。


「『浮橋様』――!」

 後ろを見ると、扉が開き、「警護役」と深山が飛び込んできていた。悲鳴のような「浮橋様」の声を聞きつけたのだろう。心臓が痛んで、氷雨は歯を食いしばった。

「無礼者、何をする」

 その明かりが、氷雨の赤みが差した頬を、張り詰めて濡れ光る黒い瞳を、照らし出す。氷雨は、愚かな自分を呪いながら、それでも、最後の御簾を手に取り、その向こうへと飛び込んだ。


 黒い壁を背景にして立ち尽くす細い体。

 同じ色の着物はどんな夜闇よりも濃く、氷雨の目に焼きつく。

 乱雑に伸びた、射干玉ぬばたまの黒髪。

 長い髪に片方は隠れているものの、一つだけでも目を引く、紫がかった切れ長の黒瞳。

 頬にはそばかすがあり、口元には大きなほくろが二つ。



 そこに立っていたのは、氷雨がよく知る少年だった。



 「雪代ゆきしろ……」


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