六 羽化したる日の事

 ゆっくりと顔を上げた「浮橋様」は、髪に隠れていない方の目で、見下ろすように氷雨を見た。


「……われが、このような者を目にするのは初めてだ」


 はっ、とした。

 その瞳に宿る冷たさ。それは、氷雨が知っているものとは全く違う。全てを塗り潰したような、凍てついた夜のような瞳。

 加えて、今しがた発された声は、声色こそ穏やかであっても、不思議と低く、人を射抜くしなやかな弓矢に似た力を持っている。


 雪代ゆきしろの姿なのに、「浮橋様」は、明らかに別物として氷雨を見ている。


「雪代……」    



 呆然と呟いた瞬間、がたいの良い「警護役」が氷雨を羽交い絞めにした。

「『浮橋様』から離れろ!」

 ぎりぎりと肩を締め上げる力。その痛みに思わず顔をしかめると、瞬間体の力が抜け、氷雨は御簾の外へ外へと引きずられた。指先の熱。それが雷のように体中を走って、心臓を痛めつける。

「馬鹿、そんな無理やり引っ張ってくことないだろう。まだ傷は完全に癒えていないんだぞ」

「狼藉者だ、情けをかける必要は無い」

 深山と、もう一人の「警護役」の冷えきった声。「浮橋様」の影がもう見えないところまで、氷雨は引っ張られていた。青白い「月下蛍」の灯りが見える。その光を反射する水晶も。黒く塗られた板張りの床も。「浮橋御殿」、それは「浮橋様」の住まう場所。「浮橋様」の……。



「なんで……。雪代は死んだと、思っていたのに……」



「お前は幻を見ているんだ」

 深山の声が、氷雨の脳を貫いた。

 一つに結った彼女の髪が揺れると同時に、氷雨の体は、「警護役」二人がかりで扉の外に出された。ぎぎ、と歯ぎしりのような音。頭の中で、言葉が反芻される。幻を、幻を見ているんだ……。

「まぼろし」

「『浮橋様』は、お前の知っている者とは違う。お前が知る名前で呼ぶな。『浮橋様』だ。ここで働きたければ、そうしろ」

 藍色の着物が扉の向こうに入っていく。隣にいる深山の、冬山のように厳しい表情。

 氷雨は、唇を引き結んだ。


「少しだけ、いいですか。さっきみたいな真似は、しないので……」

 無言。それを肯定と取った氷雨は、ゆっくりと「警護役」の手を離し、崩れるように扉の前に座り込んだ。「警護役」が、警戒したように隣にしゃがむ。


「大変、失礼いたしました。どうか……どうかおゆるしください。お気が済まなければ、私を刺し殺しても、構いません」


 再び扉が開く。「警護役」が氷雨の隣に立って腕を捕らえた。また駆け寄っていかないようにしているのだろう。いずれにせよ、氷雨にはもう、そうするだけの体力が残っていなかった。

 御簾の向こうから、三度鳥の白紙が飛んでくる。羽音が消え、氷雨の手元に止まる。

 ……その紙には、乱れた文字が記されていた。



なんじくるべきなめり』



「『浮橋様』はお前をゆるした。我ら『月下藍』は、『浮橋様』の命に従う者。わかったらさっさと『約』の字を書け」

 呆然としていた氷雨の手元に、「契」の字が書かれた紙と筆が飛んでくる。



 それを恐る恐る手に取って「約」と書いた瞬間、「お前は生きるべき者であるようだ」と告げた紙が、音を立てて焼け落ちた。



 その灰が風に巻き上げられ、氷雨の頬をなぞって消える。

 消える。


 ……雫が、氷雨の瞳から滑り落ちた。

 それはだんだんと増え、いつしか雪解け水のように溢れる。氷雨は、それを何度も拭った。袖を通してから日の浅い着物が、雫を無言で吸い取る。堪えきれないものが嗚咽となり、氷雨の喉を突いた。

「ありがとうございます、『浮橋様』……」

 脳裏に、御簾の向こうで聞こえた嗚咽が蘇る。幼馴染おさななじみの声で聞こえた、あの嗚咽が。歯を食いしばる。目の前にいるのに、目の前にいない者。

「ありがとうございます……」


 「汝は生くるべきなめり」と、「浮橋様」は告げた。

 それは、お前はここで生きよと、氷雨を歓迎する言葉か。

 それとも、お前だけでも生きろと、雪代の死を認める言葉か。


「約」と書かれた紙と筆がふわりと浮き上がり、御簾の向こうへと飛んでいく。それを見ながら、深山が口を開いた。

「氷雨と言ったな」

「……はい」

 涙を飲み込んだせいで塩辛いのを我慢しながら、氷雨はうなずく。

「今のことは……、『浮橋様』の正体は秘密だ。誰にも言うな。これより私がお前の監視役となること、十分心に留めておけ」

「はい」

「秘密を抱えれば、それは重荷となり、悪夢につながる。悪夢は、お前の内にいる黒蝶を大きくする。お前は本当に、耐えられるか?」

 氷雨は、ぐっと拳を握りしめた。そして、ゆっくりと口を開く。

 雨は少しずつ上がり、空からは陽光が差し込み始めている。それに目を向けることもなく、彼は軽く鼻をすすった。




「……わかり、ません。ただ、耐えねば、ならないのだと、思います。生きるべき者と、見なされたなら……」




 広場には、雨の痕が未だ残っている。深山は、一つ息をついて氷雨を見やった。細く、折れてしまいそうな体。まだ幼さが残っているが、それでいて、どこか大人びた雰囲気もある顔つき。ずれの仄見える少年。


 彼の中に巣くう黒蝶は、きっとこれからも大きくなるだろう。

 彼は悪夢によって何度も傷つき、惑い、苦しむだろう。


 しかし、彼は今、「月下」となった。

「浮橋様」に仕え、己の黒蝶ではなく、人の黒蝶を除くために奔走せねばならぬ。

 

 それでも。

 契約をした時、震えるように揺れる氷雨の瞳に一瞬差した光を、深山は見ていた。



 硬く苦しいさなぎの中からたった今羽化した、脆くも美しい羽のような光を。



「そうか」

 深山は、氷雨の肩をぽんと叩いた。氷雨は不思議そうに、深山を見返す。

 涙に濡れた睫毛が、羽ばたきのように揺れた。

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