七 火中に芳香は無し

 燃えさかる激しい赤の向こうに、黒い影が見える。

 それは大木のようにそびえ立っているけれど、炎の中、少しずつ傾いていく。パチパチと激しい音、耳を切り裂くように響き、建物を食い荒らす。逃げ惑う人々、肉が焦げるような匂い、悲鳴、退廃的、すべてが混ざり合う。その中で、立ち尽くす。ただ、遠くに見える黒い影――物見櫓ものみやぐらを、ぼうっと、見つめている。


 彼は、そこにいる。あの櫓の中に。


 今もいる。おれが行かなければ。おれ以外の人は、気づいていない。いや、気づかないふりをしている。そうやって皆、見て見ぬふりをする。なかったことにする。まだあそこにいる。おれが、助けなければ。

 だって、今までずっと、おれを助けてくれたから……。


 櫓が倒れていく。

 人の体から力が抜けていくように、ゆっくりと、崩れ落ちていく。炎の中に、倒れ込んでいく。熱い炎。人を焼き焦がす炎。死。煙。黒い煙。


 櫓の方に、黒い煙のようなものが飛んでいく。崩れ落ちていく櫓、そこにいる人影を覆い隠すように、それは広がっていく。遠くにいるせいで、それが何かはよくわからない。ただ、それを最後に、人影が見えなくなる。直後、土煙や火柱とともに、ガシャンと全てを無に帰すような、激しい音。それが地面をゆすぶった瞬間、彼の名前が思わず口をついた。



――――「雪代ゆきしろ!!」



 氷雨は、はっと意識を戻した。

 気がつくと、目の前からは炎も櫓も黒い煙も忽然と消え失せている。辺りを見回しても、それは再び現れる気配を見せなかった。

 ……耳鳴りがして、氷雨は思わず耳を押さえる。手の平は身震いするほど冷たく、汗のせいでかすかに湿っていた。

「夢……」

 確かめるように、部屋のあちこちを触る。寝間着の色、冷たい畳、障子窓の向こうに見える夕暮れ。あの場に――炎と煙が支配するあの場にあるはずのないものを。そうしていると、やっと血が回り出し、手の平をぬるい空気が温め始めた。

「夢か……」

 薬と、水の入った瓢箪ひょうたんを枕元から探し当て、口元に運ぶ。酸いような苦いような香に、人生という言葉が浮かんだ。それを水とともに飲み干す。この薬の中に、「くわきり」の実が入っているらしい。


 落ち込んだ気分を、上向ける効能。


 ……思わず、額の上に両手を乗せた。その温度に、氷雨は思わず唇を噛む。生きている。その事実が、鉛のようにのしかかる。

 気がつくと、頬が濡れていた。それが手の平をさらに湿らせ、降り始めの雨粒のように零れていく。声を漏らさないように、氷雨は布団に潜った。


――……わかり、ません。ただ、耐えねば、ならないのだと、思います。生きるべき者と、見なされたなら……。


 あの時の言葉に、嘘はないはずなのに。


「おれは、どうやって生きるべきなんだ……」


 もうじき、起きて「蝶の捕り役」の準備をしなくてはならない。それをわかっているから、氷雨は唇を噛む。


「こうやって耐え続けるのが、生きること……?」


 自分のためではない。人の悪夢を取り除くために、今日も白い着物に袖を通すのだ。


 少しだけ、少しだけ……氷雨は涙を流した。



「隈」

「え?」

「今日は輪にかけてひどいな。よっぽど黒蝶に好かれていると見える」

「蝶の捕り役」のための準備をしている最中。「月下蛍」の灯りにぼんやりと照らされた深山は、ふうと息をついて目元を指差した。 

「ほら、深く息を吸うんだ。『手招き草』の匂い、お前好きなんだろう?」

「……うん」

 内に住まう蝶が好む香。それでも氷雨は、蝶だけではなく自分も好き香だと、そう思っていたかった。

「寝るなよ」

「薄荷飴をいつもより多く舐める。大丈夫」

「宿主」を迎える「月下」が眠ってしまっては仕方ない。ゆえに、「月下」はいつも薄荷飴を忍ばせている。舌の上に乗せると、新緑を揺らす風のように爽やかな香が、つんと鼻先を抜けた。


「……お前、今日捕り役が終わった後、空いてるか?」

 ころころと口の中で飴を転がしていると、ふと深山が口を開いた。氷雨は首を傾げて、それからふるふると横に振る。

「試しの勉強を少ししようとは思ってたけど、それは明日にでも回せるし」

「そうか。なら、工房に来ないか?染め布の人手が欲しくてな」

「染め布?」


 深山は氷雨の師匠を務めているが、本業は異なる。

 彼女の本業は「染め布役」。「宿主座敷」の部屋々々に掛かった布を染める仕事だ。


 氷雨は、手近の布をたくし上げて、それをまじまじと見る。これも、おそらく深山が染めたものだ。


「手を動かして、別のことを考えていれば、気も紛れる。ただ耐えるばかりというのは、時に余計に辛いものだよ」


 深山が笑って、氷雨の髪をわしゃわしゃと撫でる。氷雨は「痛い」と文句を言いながらも、鼻先がつんとするのを感じていた。それは決して、薄荷飴のせいではなかった。


「いつもありがとう、師匠。染め布、やってみるよ」

「良し。ではまず、『宿主』を迎えるとしよう」



 

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