八 染め布の香を思い染む

「役事所」の一角に、染め布工房はある。

「役事所」の一階は厨房と染め布工房が占めており、屋敷の中心である「浮橋御殿」が窓から見える方には厨房が、屋敷の周縁にある土塀が見える方には染め布工房があった。


「わ……」

 竿に干された染め布を見て、氷雨は思わず駆け出した。


 普段は薄暗い闇の中に沈んだ布が、今は朝日をいっぱいに浴び、澄んだ水を泳ぐ魚の鱗のように、きらきらと輝いている。その繊細な染め色は、手の平をも染め上げてしまいそうなほど鮮やかな青緑色。そして、布から発せられる甘く懐かしい香は、童心のような純真さをもって氷雨を惹きつけた。

「良い香りだろう。それは、昨日染めた布だ」

 深山がそう言って、物干し竿の奥にある、工房への裏口へと向かう。氷雨は、布と布の間をかき分け、深山の背中を追った。


「見ろ、ここで布を染める」

 天井の高い部屋の中にはかまどがあり、その上には大鍋がいくつも並んでいた。その中身を覗くとそこには、秘境の湖のように幻想的な、濃い青緑色の液。それはほんのりと湯気を立て、部屋に薄いもやを広げている。

「これからここに布を入れるから、それを菜箸で混ぜてくれ」

「わかった。静かに混ぜた方がいい?」

「そうだ」

 竈に火をつける深山。氷雨は鍋の前に立つと、菜箸を持って構えた。

「入れるよ」

 深山が真っ白な布を流し込むと、大鍋の中の液はとぷんと音を立て、布を迎え入れた。

「さ、菜箸でかき混ぜるんだ。意外と力が要るぞ」

 液の中で龍のように踊る布は、液の重みを吸い取ってか、なかなか動いてくれない。かき混ぜるにも、腕の力を必要とした。

 く、と言いながら菜箸を握る氷雨を見ながら、深山が笑う。

「こうやって混ぜることで、布に染み込む色が濃くなる」

「うん」

「『蝶捕り』は一種の儀式。だから、場を設えることが大事だ。この布は、黒蝶を呼ぶという役割だけでなく、その儀式の場を整えるという役割も担っている。まあつまり……、染め布は大事な作業なんだ。しっかりやれよ」

「わかった」

 八月はもうじき絶え、九月が目に見える頃。窒息しそうなほどに濃厚な夏の気配は薄れてきてはいるが、それでも動けば汗は滲む。着物の袖をたくし上げて、氷雨は布と格闘する。その隣で、深山は他の布の染色を始めていた。


「他の人たちは?」

「隣の部屋で、『手招き草』を刻んでるのと……、あとは『手招き草』を摘みに行ってるのと……。多分、『織り布役』に会いに行ってるのもいる」

 先程は、干された布や竈に目が行って気づかなかったが、よく耳を澄ますと、とんとんと歯切れのよい音が聞こえてくる。菜切り包丁で草を切っている音だろう。

「『手招き草』の葉と茎を使って、染め布の液を作るんだよ」

「へえ……」

「人の内から黒蝶を呼ぶための源だな」

 布をくぐらせる布には少しとろみがあり、香には乾燥していた布に比べて、かすかな青臭さが混じっている。確かに甘い匂いがするのだが、同時に油断しているとむせてしまいそうな風味もあった。誰かに柔らかく突き放されているような。


「……火を見ると、いつも心がざわざわするんだ。悪い夢の中に、火が出てくるからだと思う。でも、ここの火は大丈夫。この香があるから、落ち着くんだと思う」

「そうか」

 ぽろ、と氷雨の口から言葉が零れ、深山は思わず氷雨の方を見た。氷雨は液と向き合いながら、それでも真剣に、自分の言葉を選んでいる。瞬きの多くなった瞳には、見開かれるたびに青緑色がかすかに灯った。


「ここに来る前……雪代とは、兄弟みたいに暮らしてた。おれが絵を描いて、雪代がそれを売って」

 ふつふつ、と液が波打つ。氷雨は手を止めずに、それを見つめる。

「器用なやつだった。おれの絵を、すごくうまく売るんだ。売ってるところは見たことないけれど、おれが『この絵はこのくらいの値段だろう』と思って渡したら、その倍の値段の金を持って帰ってきたこともあった」

 深山は、黙ったまま話を聞いていた。

「昔……。絵を売りに行った雪代が、帰ってこなかった日があったんだ。雨の日だった。その日は、雨の音がやけにうるさく聞こえて、一人で部屋にいることが、急に途方もなく恐ろしく感じた。いつもなら帰ってくるであろう時間にも帰ってこなくて……」

 工房の外で、布が揺れている。その香が、陽光を含んだ空気に混じる。

「結局、帰ってきたのは三日後だった。障子窓からひょっこり顔を見せて、何事も無かったみたいに笑って。その時……その時、おれは思ったんだ。そばにいる人が大切であればあるほど、失う瞬間が怖くてたまらなくなるんだって……」


 氷雨は、少しうつむいて、目尻をかすかに拭った。それでも、菜箸を回す手を止めなかった。 


「……雪代は、この香に少し似ていた。一緒にいると落ち着くんだ。でも……、おれがいなくても一人で生きていけるんじゃないか。知らない内に、すぐどこかに行ってしまうんじゃないか。そう思わせる何かもあった。雪代にはそういう強さも、淋しさもあった」


 氷雨は、こくんと唾を飲む。そして、ぎゅっと目をつむった。

 「そうしてついに、雪代は、近くにいるのに近くにいない存在に、なってしまった……」

「氷雨」

 深山は、菜箸を持った氷雨の手に自分の手を重ねた。その手は「手招き草」の香が染み込み、ところどころ荒れた、職人の手。「浮橋屋敷」の一員、そして氷雨の師匠の手。

「氷雨。『浮橋御殿』にまた行こうとしたのは、確かに軽率だったかもしれない。だが、あまり自分を責めるな」

 深山が氷雨から手を離し、先程までかき混ぜていた布を引き上げる。


「お前は、時々他人を慮りすぎる。他人あっての自分、というように。……後悔も、未練も、今のお前にとっては、お前を苦しめるものになってはいないか……?」


 氷雨も、菜箸に布を絡ませ、ゆっくりと引き上げる。

 ざあ……と音を立てて、液が大鍋に落ちていく。そして宙に現れた布の色は……滝川たきがわの水のように美しく、どこか切なかった。


 

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