九 夏の終りに春の花を名乗りて

 染めたばかりの布を空いている竿に干していると、部屋の方から何人かの声が聞こえてきた。

「深山」

「追加の『手招き草』、全部切れたよ。そろそろ朝餉を食べよう」

「今行く」

 深山がそれに答える声がする。どうやら、先ほどまで隣の部屋で『手招き草』を切っていた者たちらしい。

「氷雨、行こう」

「朝餉?」

 聞こえた声を繰り返した瞬間、ぐうと氷雨の腹が鳴った。

「お前は虫をたくさん飼っているな。蝶といい腹の虫といい」

「からかわないでよ」

 不本意そうな顔で唇の合わせをずらしながらも、氷雨は布をかき分けかき分け、部屋の方に戻った。すんすんと鼻を動かすと、『手招き草』の匂いに混じって、別の匂いがする。

「厨房からもらってきたよ」

「なあ此花このはな、私だけじゃなくて、弟子も来てるんだが、量は足りるか?」

「此花」と呼ばれた紅色の着物の「月下」は、人懐っこい子犬のように笑った。

「うん、十二分にあるね。心配せずとも大丈夫」

「そりゃ何より」

 部屋に上がると、大鍋が並ぶ竈の隣、部屋の隅の方に小さな机があり、そこにいくつか椅子が並んでいる。机の上には茶椀と大皿。そしてそれを囲むように、二人の「月下」が人数分の皿を用意していた。

「あ、おれ……深山の弟子の、氷雨です」

「葉山だ」

「相変わらず葉山は言葉少なだなあ。わたしは此花。よろしく」


 寡黙で体格の良い、橙の着物の「月下」が、「葉山」。

 喋るたびにえくぼのできる、紅色の着物の「月下」が、「此花」らしい。


「二人とも、私と同じ『染め布役』だ」

深山の橙の着物が、自慢げに揺れる。それから、不思議そうに辺りを見回した。

「あれ、葉山さん、弟子は今どこに?」

「書庫に」

「さっき見かけたよ。たまたま見つけた野草の名を調べたいって言ってた」


 書庫とは、「役事所」の隣にある蔵のことだ。そこには、植物学や医学、献立など様々な書物が置かれているのだという。

 氷雨は、まだ入ったことがなかった。重々しい扉がそびえる蔵に一人で入るのは、何となく気が引けたのだ。


「深山、その人も……『新月』?」

「ああ。お前と同じ、夏から葉山の弟子になったやつだ」

 ここに来たばかりの新人の「月下」――通称「新月」は、生活に慣れた夏頃から、橙色の着物の「月下橙げっかだいだい」について仕事の手伝いを始める。「新月」の氷雨は、「月下橙」の深山の弟子というわけだ。そして葉山の弟子は、どうやら氷雨の同期らしい。

「勉強熱心な奴だし、お前と気が合うかもな」

「……ん」

「ほれ、葉山師匠のお墨付きだ」

 「染め役」たちを見守るように、青緑の布が揺れる。


「いただきます」

 大皿に乗っているのは、竹の葉に包んだおにぎりと、醤油のよく染み込んだ煮物。それぞれ適量を小皿に取り分けて、手を合わせた。こうやって作業場で食事を取ることも多いからと、厨房を担う「食事役」の者たちは、大皿に料理をまとめてくれるのだ。

「んん、うまい」

 おにぎりは玄米を主に雑穀が混ぜられており、噛むたびにほろ苦さと甘みが広がった。そして煮物とよく合うこと。ほろほろと口の中でくずれる芋、歯ごたえのよい根菜。それから、しなしなになった、丸くて薄茶色の実。

「これ、好きだ。たまに煮物に入ってる実。こりこりしてて、くせになる」

「お、それは『手招き草』の実だよ」

 氷雨は目を見開いて、箸で挟んだ実を見やった。

「『手招き草』って食べられるんですか?」

「『手招き草』っていうのは賢い植物でね、受粉のために虫を惹きつける必要がある時には、蠱惑の効能がある香をたくさん作って蓄えるんだよね。それがあの独特の香を作るんだけど、味は別に美味しくない。いや、むしろ不味い。すごく不味い。だから、主に染め布に使う」

 氷雨は、食べる手を止めて、じっと此花の話に耳を傾けた。

「一方で、花が枯れて実を作るとなったら、虫は必要ない。そうしたら、作り出す成分を変えて、それをもって実を大きくする。それが、『手招き草』の実を美味しくするんだ」

には『蠱惑』がないということは、つまり食べても眠くなったり黒蝶を呼び寄せたりしないということ……」

「うん、そういうことだね。というわけで、いっぱいお食べ」

「あ、ありがとうございます」

 にこにこと笑う此花の隣で、葉山が皿を傾ける。氷雨は、会釈をしながら実を箸でつまんだ。


「あ、もう昼食べてますね」

 ふと、少し遠くから声が聞こえて、氷雨は顔を上げた。見ると、青緑色の布の隙間から、耳にかかる長さの髪を揺らしながら走ってくる少年が見えた。

「あ、来たよ」

 深山が顔を上げて手招く。少年は手に持った何かを大切そうに抱えながら、部屋に上がってきた。

「直接嗅いだは少し近かったんですが、これは乾燥させると香が大分変わってしまって……。でも、『書庫蔵しょこぐら』で調べたら、薬草くすりぐさとして使える草だそうですよ。後で『草木そうもくの世話役』に相談してみようと思います」

 そう一息に言い切った少年を、氷雨はぱちぱちと、目をしばたかせながら見ていた。


 白い着物には、ところどころ土と草。軽く日焼けした頬。こげ茶がかった髪。背丈は氷雨と同じくらいか。大きな瞳は兎のようにくるくると動き、日光を閉じ込めて光った。

「もしかして、彼が……」

 思わず氷雨がそう呟くと、その少年は氷雨の方に顔を向けた。



 「初めまして、ぼくの名は『連翹れんぎょう』」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る