十 香が導きし行く末

 連翹と名乗った少年は、首を傾けて氷雨を見た。

「君の名前は?」

「ええと、おれは氷雨。話は『染め布役』の皆さんから聞いたよ。勉強熱心だと」

 連翹は反対に首を傾け、それから手に持っていた草を見た。

「そう?これの正体が、ただ気になっただけさ」

「それを勉強熱心と言うんだって」

 ちょうど「手招き草」の実入りの煮物を食べ終えた氷雨は、茶をすすりながら呟く。その隣で、此花がぴっと指を伸ばした。

「連翹はね、にすごく興味があるんだよ。いっつも、暇があればいろんな植物の香を嗅いでは『書庫蔵』に走ってる」

「へえ……」

 それでは、いつも香に包まれた工房は、さぞかし居心地がよいだろう。


「そうそう、氷雨は『手招き草』の染め布の匂いが好きなんだ」

 深山が氷雨を指で示しながら言うと、連翹は少し目を見開いた。

「そりゃいいね。じゃあもしかして、これがわかるかもしれない」

 そう言いながら、連翹は氷雨を試すような光を瞳に灯し、顎に当てる。


「君、『浮橋様』の御殿に行った時、不思議な匂いを感じなかったかい?」


 氷雨は、思わず体を止めた。

「え……御殿に行った時って……」

「皆、初めてここに来たら行くはずだよ。覚えてない?」

 先日「浮橋御殿」に不法侵入しようとしたことが頭をよぎった氷雨は、内心冷や汗をかきながら、ふうと息をついた。しかしまだ油断はできない。秘密を不用意に明かすことなどできないからだ。

「匂い……」

 御殿の扉が開き、中に入った時、確かに何とも言えぬ、独特な香がした……ような気がする。これくらいであれば大丈夫だろうか。念のため、ちらりと師匠兼監視役の方を向くと、彼女は軽くうなずいた。

「感じたような、気がする。何にも例えられないような、独特で、でも不思議と芳しい香りだった……」

「ふうん、うまい言い方をするね。そう、そんな香り。いいね。君のこと気に入った」

 白い着物を風に軽くなびかせながら、連翹はかすかに笑って氷雨を見た。



「氷雨くんと言ったね。君、ぼくと一緒に『月下藍げっかあい』を目指す気はない?」



「『月下藍』に……?」

 氷雨は怪訝そうな顔で連翹を見返した。


「実を言うとぼくは、後々『月下藍』になりたいと思ってる。そうしたら、御殿で嗅いだ、忘れられない香の正体がわかるかもしれないから。もし君も『月下藍』に興味があるなら、勉強の仲間が増えてありがたいんだけど」


「月下藍」になる。

 それはすなわち、藍色の着物に袖を通し、「浮橋様」の身の回りの世話をする「月下」になるということ。 


「月下」の着物は、経験や役割によって異なる。

 白い着物は、「新月」――いわゆる新人。

 橙の着物は、「月下橙げっかだいだい」――専門職見習い兼、「新月」師匠役。

 紅の着物は、「月下紅げっかべに」――経験を積んだ専門職。

 藍の着物は、「月下藍げっかあい」――「浮橋様」に仕え、身の回りの世話をする者。


「『月下藍』……」

 氷雨は、再度小さく呟いた。「浮橋様」に毎日黒蝶を献上する「献上役」、「浮橋様」の姿を見た氷雨を羽交い締めにした「警護役」。彼らは皆、藍色の着物を身につけていた。

「『月下藍』は、なれるものなの?なるには、どうすればいい?」

 そう問うと、連翹はぴっと草の先を氷雨に向けた。



「『試し』を受ける。それに合格していけば、『新月』から『月下橙』、『月下紅』、そして『月下藍』になれる」



 脳裏に蘇る、「浮橋様」――雪代の姿。

 あれ以来、氷雨は彼と会うことができていない。会うことは許されないと思い込んできた。

 しかし。

 正式な手続きを踏んだのなら。



 もしかしたら、再び、会えるのかもしれない。


 

「一応言っておくと、『月下藍』のための試しは、『月下紅』になるまでの試しとはまた別だからな。何せ、やるべきことが違う。『月下紅』までは、悪夢を取り除きに来る『宿主』のための仕事だ。だが、『月下藍』だけは、『浮橋様』のための仕事。『月下藍』は主を守らなければならんから、もっと多くのことを必要とされる。いばらの道だぞ」

 氷雨の瞳の色が変わったのに気づいてか、深山が口を出す。それでも氷雨の表情が不安に曇ることがないのを見ると、深山はひとつ息をつき、それから苦笑いした。

「お前も頑固だな」


 氷雨は顔を上げる。深山と目が合い、それから少し、前髪をくしゃくしゃとかき混ぜながら、口を開いた。



「初めてここに来た時……生きる理由を、掴んだ気がした。でもあの時は、その正体はわからなかった。多分……『月下藍』になるということが、その答えだったんだと、思う」



 深山ははっとした。

「浮橋様」と契約をした時、震えるように揺れる氷雨の瞳に一瞬差した光。それを思い出したからだった。


 きっとあの時氷雨は、ここで「浮橋様」の「月下」として生きていれば……悪夢に耐え続ければ、いつか雪代につながる手がかりを得られると、気づいたのだろう。でも、再び会うための手段はわからなかった。「浮橋御殿」への強行突破の他に、手段を知らなかった。


 

 そしてたった今見つけた答えが、「月下藍」だった。

  


(「浮橋様」を……雪代という少年を、自分の生の行き先に据えることで、無理やりにでも前に進むか。やはり危ういな)

 あの一件のせいで、氷雨が「月下藍」になるのはさらに困難だろうに。それでも、氷雨は自ら荊の道を行く。後悔も、未練も、全て抱えて。

 ここまで来ると、こうとしか言いようがないのかもしれない。


 逢瀬おうせへの執着。

 苛烈なまでの「くし」。


(連翹もいれば、大丈夫か……?)

 深山は、再び息をついた。

(いずれにしても、決めるのは氷雨自身だ……)


「まあ……手を動かして、別のことを考えていれば気も紛れるし、ただ耐えるばかりというのは余計に辛いと言ったのは私だ。『月下藍』を目指す中で、色々なことを学び、経験していけば、視野も広がるだろうよ」


 すると、氷雨の顔がぱっと華やいだ。

「ありがとう、深山」

「なぜ私に礼を言う。礼を言うべきは連翹だろう」

 開いたばかりの花のように無邪気な表情を見せた氷雨。その様子に、色の異なる絵の具をない交ぜにしたような心持ちを抱きつつ、深山はおどけたように連翹を指差すのだった。

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