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「くあー、もうこんな時間かよ」

 欠伸をしつつ椅子から立ち上がった詩杏が、腰に手を当てて凝った身体を反らし、ばきばきと音を鳴らす。

「おじさんみたいだからやめるのです」

「あん? いいだろうが別によ、誰が見てるってわけでもねえし」

 倫は机の上のカードをまとめると、ちゃかちゃかと手早くシャッフルして戸棚へ片付けた。

「……お先に失礼します。お疲れ様でした」

 時計の針が直列になった瞬間、琴美は本に栞を挟んできびきびと談話室を出た。『駒草会』の活動として、彼女たちは放課後、十八時まで談話室で待機することが求められている。琴美・キルペライネンの時間感覚は恐ろしいほど正確で、最近ではもはや時計を見ることもなく、十八時になった瞬間に席を離れ、二十秒以内には部屋を後にしていた。

「腹減ったァー……今夜って食堂メシ何だっけか」

「確か山菜のシチューだったはずなのです」

「ゴミじゃねえか、終わったわ。倫、何か用意ねえの。食えるもの」

「んー、貝のお刺身か……鴨ならお出しできるのです」

「お、いいじゃねえか。お前んとこで食うわ、今日」

「倫の茶室は定食屋じゃないのですけど!」

 脱いでいたショートブーツに脚を突っ込み、修道服の裾を整え、鞄を担ぎ上げた詩杏の後を、倫が淑やかについていく。

「さて、僕も帰るとしよう。チャオ、麗しいきみたち。また明日」

 知恵が誰かと連れ立って寮へ帰るのは非常に稀なことだった。行き着く先は同じ寮だというのに、たまたま談話室を出るタイミングが誰かと重なった時でさえ、彼女は用事を思い出したと嘯いて遠回りをしているようだった。

 それにどんな目的があるのか誰も知らなかったし、誰もさほど興味を持たなかった。少なくとも『駒草会』の中には、彼女に想い惑う乙女はいなかったようである。

「私たちも行きましょうか、マリア」

「ええ! ……ねえ眞織、明日の朝もオルガンを聴かせて頂戴」

「いいわよ。礼拝堂は冷えるから、上着を忘れないようになさいね」

 続くのは眞織とマリア。

 眞織は三年生の首席であるため、寮の私室が『駒草会』メンバーの中でも特に広い。そこにマリアが入り浸っていることは公然の秘密となっており、しかし静謐とした眞織が纏う名状しがたき得体の知れなさを畏れてか、誰もシスターに告げ口などしなかった。

 それが可能だとしたら同期であり実力も伯仲している友子か詩杏だったのだろうが、計算高い友子は他者を陥れるなら確実な一手を打てるその時まで動かないタイプであり、詩杏は単に自分もまた探られると痛い腹を抱えているので他者の生活態度を論うことなどないのだった。

「姫も帰りま~す。ミッキーちゃんと友子さんは~?」

 彼女は最も自由に生きているように見えていた。姫乃は『駒草会』の規定の拘束時間中、この談話室で何をして過ごすと特に決めていなかった。試験勉強に充てることもあったし、ちょっとした魔術の練習や読書をして過ごすこともあったし、ソファで昼寝をしていることもあった。

「私は図書室で本を借りていきます! 急ぎますので、ご心配なく!」

「わたくしは見回りをしてから帰りますわ。そろそろまた日照時間が短くなりますもの」

 談話室の鍵は常に開け放たれることになっている。『駒草会』は常に悩める生徒に寄り添うものであるという理念に拠るものだ。

「サーリネン先輩は常に周りの方々に目を向けていらっしゃるのですね! 私も早く先輩のような魔導騎士になれるよう精進します!」

「もう、およしになってくださいまし。……騎士という称号は確かに有難いものですけれど、そもそも、わたくしたちの魔術は主より預かった力ですもの。多く預かった者が世のために分け与えるのは当然と、わたくしはそう考えておりますわ」

 友子・サーリネンは美しいブロンドの毛先を指でくるくると弄びながら、気位の高さが隠し切れないむず痒そうな微笑みを浮かべた。

「それではね、ごきげんよう」

「はい! また明日!」

「お疲れさまですぅ~」

 談話室のドアの前で、光季と姫乃は、服の端を摘まんで丁寧にお辞儀をしてみせた友子と別れた。

 偽善を絵に描いたような友子に心の底から親愛の情を抱いていた学友など、恐らくいなかっただろうが――表立って敵を作らないようには心掛けていた彼女だからこそ。

 これが彼女と交わされた最後の会話になるなどと、誰も思っていなかった。

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