7
さく、さくと。
草の上に積もったまだ柔らかい雪を踏みしめて、姫乃は行く。
膨れた頬には、林檎のように赤みが差している。指先は修道服の上に羽織ったコートの袖口にしまいこんで。
常に降る雪によって外界と隔絶された、山間の修道女学院。周囲を取り巻く針葉樹の森は白く深い。
「うぅ~、寒いですぅ……なんで姫がこんなことぉ……」
友子を見るも無残に殺したのがもし魔獣なのだとしたら、潜むのは石造りの建物の片隅ではなく、木々の狭間だろうと。
そう推測したのは、知恵だった。
「姫乃くん、寒くはないかい? ……ああ、あんなことが起きたんだ。恐怖で足が竦むのは当然だろうとも!」
両腕を広げて、いつも通りに芝居がかった口調で大袈裟に語りながら、知恵は前方を歩いていた。姫乃も他人のことは言えないが、既に上級生が死んでいるというのに、口で言うほどには緊張を感じていないようである。彼女が考えていることなど姫乃にはさっぱりわからなかったし、別にわかりたくもなかった。
知恵・アコンニエミとふたりで森を散策するというシチュエーション。もし他の生徒たちに知られたら、とてつもない数の羨望と嫉妬の眼差しが姫乃に容赦なく降り注ぐことだろう。だが、彼女の頭の中に、どうでもいい上級生などに割く余地は欠片もなかった。
だって、待ち望んでいたのだ。こんな日を。命を懸けた魔術戦の状況が突風のように押し寄せてきて、秩序立った日常を根こそぎ吹き飛ばしてしまう瞬間を。
「……見たまえ。沼が……」
白を帯びた木々の密集を抜けた先には、小規模な湿地が広がっているはずだった。そこは白い森の中にありながら凍ることはなく、乾いてひび割れた泥濘の上にひとりでに霜が走るくらいのものだった。森のこれほど深くまで生徒たちが足を踏み入れる機会はそう多いわけではなかったが、周囲への影響力の大きな魔術の演習ではここを使うため、全く見覚えのない景色ではなかった。
だからこそ、おかしなことが起きているのは明白だった。
凍らないはずの沼が、スケートリンクのように凍結していた。墓標めいた氷の柱が一面に突き立って、そのさらに向こうにはちょっとした小屋ほどもある巨大な芋虫のような氷塊が転がっていた。
「なんだ……はは。美しいと思ったら……僕の顔じゃないか」
膝を折って沼の縁にしゃがみ込む知恵。異常を象徴する目の前の氷があまりに巨大で堅牢で、彼女の心の中の何かが打ち砕かれたのだとわかる、そんな声色だった。
「あのぅ……知恵さん、ちょっといいですかぁ?」
「ああ……どうしたんだい」
「その氷に……映ってるんですよねぇ……? 顔が……」
恐る恐る、姫乃は取り出す。コートのポケットに放り込んでしまっていた、それを。『多重色彩下におけるアナムネーシス』で端末化されていたはずの、それを。
外気に晒されて白く曇ったティースプーンの凹面は、拭われた後、覗き込んだ姫乃の顔を歪めて映した。
それだけだった。
「……琴美ッ!」
「落ち着け!! どっちみち間に合わねえよ!!」
咄嗟に踵を返そうとした知恵を、猫を被ることさえ忘れた姫乃の声が突き刺す。彼女は思考する。すうっと頭が冷えていく。
ふたりの関与しないところで、既に他の誰かの手で敵が倒され、それを確認して琴美が術式を解除した。もちろんその可能性も大いにある。姫乃個人の事情としては受け容れ難いものの、事態は収束したということだ。
警戒すべきは、そうでない場合。
つまり、今ふたりが自然にそう考えているように――琴美・キルペライネンが死亡している場合である。
魔術的探査を察知して談話室へ向かった敵は、光季と琴美を始末して、その後どこへ向かっただろう。琴美が死んだのがほんの数秒前なのか、姫乃たちが森に足を踏み入れた数十分前なのか――甘かった。油断していた。あまりに指先がかじかんで、森の探索を提案した上級生を呪いながら、スプーンを仕舞ってしまったのは痛恨のミスだった。
「どうする……? いずれにしても、戻るか……? 痕跡さえ見られりゃ……他の連中は気付いてんのかな……?」
他のメンバーと合流して対処するという選択肢など、最初から姫乃の頭にはなかった。
姿の見えないこの敵を単独で処理する。それが全てだった。
魔術戦の中ですら輝けないのなら、生きている意味などないからであった。
「姫乃くん。僕は、行かなくては……琴美に……」
「……ん。姫も……」
眞織たちや詩杏たちと直接連絡を取れない以上、それが最善手。姫乃は、そう判断するしかなかった。
それは仕方のないことだった。『駒草会』は学院を守る特殊部隊ではあったし、実際選りすぐりの魔術使いたちだったのだが、この現代において表の世界で生きてきた令嬢たちが魔術戦を経験することなどなくて当然なのだから。
つい先ほどまで顔を合わせていた同級生たちが死んだかもしれない――そのことに気を取られ、眼前に堂々と実体化した異常たる氷の神殿についての思考を余所へ遣ってしまっていたことなど、誰が責められるだろう。
姫乃と知恵は、歩き出していた。来た道を引き返す。引き摺りそうなほどに長い修道服の裾は濡れて重く、硬いブーツの中で足はじっとりと蒸れていた。白い息を吐いて吸う度に喉の奥が凍り付きそうなほど、森の空気は冷え切っている。魔術戦とはただ術式の巧拙を競うだけのものではないのだと、初めて噛み締めながら歩いた。
ふたりが抱いていたのは、これから戦場へ向かう緊張感であって。
ここが既に戦場であるという意識が、欠如していた。
「……あれぇ?」
十メートルほど先か。黒々とした一本の木の陰に、ゆらりと。
痩せこけた少女が、見えた気がした。
「そばかす、ちゃん……?」
緊張が一気に弛緩し、姫乃は思わず乾いた笑いを漏らしてしまう。その姿は、それくらい、この状況に似つかわしくなかった。
雪の上、靴も履かずに、ぼろぼろの修道服一枚の姿で。実習の度にみっともなく醜態を晒しては失笑を買っている劣等生が、のこのこと出歩いている。このかつてない非常時に。
「ちょっとちょっとぉ……どういう」
ぎらり、と。正午を前にして森へ斜めに射す陽光は白んでいた。
故に、そばかすの少女――だった「もの」の手の中で何かが光ったのが、姫乃にはよく見えなかった。
だから彼女は、睨むように目を細めて――己の左手の肘から先が宙を舞ったのに気付くのが、遅れた。
「ぎッ」
雪を、ぼたぼたと塊になって落ちた血液が汚す。
痛み――が、やってくるよりも早く。
「ひ、いいいっ……ひ、めの、くん……!?」
「うる……さい!! 姫を見んな、前ッ!!」
姫乃は、残った右の指先からバーナーのように火柱を噴き出させて、左腕の切断面を焼いた。
奥歯を砕きそうなほど噛み締めて痛みを殺しながら、姫乃は片目で「それ」の様子を窺う。
霜の巨人が飛ばした斬撃は、手にしている棒きれが纏っていた氷の刃だ。魔術による圧倒的な冷気で、刀身が再び形成され始めている。接近しようとはしてこないが、敵は明確にこちらを認識し、木陰から刃を放つタイミングを窺っている。
「姫は……大丈夫だから!! 知恵さん、行ける!?」
「っ……! ああ……でも……僕は……琴美に」
「琴美さんも! 光季も! もう殺された!! ねえ頼むからしっかりしろ!! 今は姫たちの生きるか死ぬかだって!!」
姫乃・ホロパイネンは、ただの貴族の次女である。職業軍人でも手練れの殺し屋でもない。
しかし、彼女の生まれ持った天性は、ただ戦うためのものであった。
これまでの人生ではついに一度も訪れなかった、それを活かす機会である。片腕が飛んでいった瞬間、彼女は無意識の領域でそれを把握した。
故に彼女は、常人ではあり得ない反応速度で現実を飲み込み、生まれて初めての戦闘態勢を即座にとることができたのである。
「姫の全天術式は単独行動向きだから――戦えないなら下がっててほしい。行けるのかって聞いてんの」
「……ああ」
「知恵さんの術式は? 攻撃、できんの」
「いや……」
血の気の失せた顔をして、知恵は曖昧な返事を繰り返す。
無理なのだ。知恵・アコンニエミには。
彼女は、全天術式を使えない――『駒草会』入りに足る実力の証明として提出したそれは、ゴーストライターが執筆したものだった。
論文の受理を約束する代わりに、知恵の祖父が全天術式の代筆を指示したのは、同級生である琴美・キルペライネンだった。どの分野でも一流になることはないであろう知恵が、せめて魔導騎士の資格だけでも取って世に出られるようにと、魔術学会『テーマパーク』の権威者であることを惜しみなく利用して彼女を『駒草会』に入れたのだ。
それを察していたから、マリア・ネヴァンリンナの他は誰も、知恵を仲間として見ていなかった。『駒草会』はそういう組織であった。各個人の性格の良し悪しを超えた次元に、とにもかくにも魔術の腕を全ての判断基準とする伝統があった。
「……そうだ。皆には遠く及ばない。僕なんて……」
知恵・アコンニエミ。
何も知らない少女たちだけが彼女に憧れた。長く時間を共にすると、美しく空虚な仮面は剥がれ落ちて、彼女がどれほどつまらない人間かが露見する。
だから、友愛になど何も期待せず、道化を演じるようになった。注がれているのが元から冷たい目であるのなら、それ以上に失望で曇ることなどないのだから。
そうしているのは、楽だった。毛羽立った毛布は快くはなかったけれど、包まっていれば厳しい風雨に晒されはしないのだから。
だが、絢爛たる『駒草会』の令嬢たちの中で、たったひとりだけがそれを許さなかった。
「でも、毎日あれだけ叩き込んでもらったんだ……仇くらいとって行かなくちゃ……主の御許で、琴美に合わせる顔がないじゃないか……!!」
談話室で過ごす日々の務めの後だけが、ふたりの時間だった。大教室の上の階には使われなくなった埃まみれの小部屋があって、誰にも触れられないそこで、知恵は琴美に教えを乞うた。ストーブのひとつもない隙間風の聖域で、ぼさぼさの髪と大きな眼鏡の彼女は、身震いひとつすることなく、凛として知恵の師であり続けてくれた。
琴美が知恵をどう思っていたのかは、今となっては知る術がない。琴美・キルペライネンは死んだ。もしこの世界が物語であったなら、描写されることもないほど、あっさりと。
だが、それは――彼女が生きてきた時間に何の意味もなかったということには、ならない。
ならないし、させないのだ。
「姫乃くん。友子さんや光季くんや、琴美で勝てない相手だ。きっと、僕なんかひとたまりもないだろう」
もはや何に怯えることもなかった。
静かに呼吸をする。手のひらで魔力を練るイメージを持つ。虚空から抜き取るように具現化したのは、一振りのサーベルだった。
「だがそれでいい――後衛はきみに託すよ。僕にできるのは、精々、隙を作ることくらいさ」
恥じらうことを忘れるほど、情けない人生だった。
最期くらいは、魔導騎士らしく駆けるのもいいだろう。
誰とも親しくなれた手応えはなく、琴美さえ談話室ではまともに言葉を交わしてくれなかった。それでも――知恵はきっと誰よりも、『駒草会』で過ごす時間が好きだった。
だから今、やっと胸を張って彼女たちの仲間になれるような気がして、こんなに恐ろしく挫けそうなのに、鼓動が少しだけ早くなるのだ。
「……」
右手でカチューシャを掴み、前髪を上げ直した姫乃は、何かを言いかけて飲み下すと黙って小さく頷いた。
知恵の言葉は、いつものような格好つけて煙に巻く薄っぺらいものではなく、彼女がこれから何をしようとしているのか、姫乃には十分に伝わった。
「わかった。姫も準備しとく。全天術式――『シティポップを▽とめてくれ』」
左腕の断面を焼いた痛みで、すべすべとした額に脂汗を滲ませながら、あくまで淡々と姫乃も術式を使う。
こちらの手の内がわからないから、間合いを確保したまま確実に仕留めるつもりなのか――そんな理性があるのかもわからないが、霜の巨人は木陰から身を覗かせなかった。姫乃は魔術で具現化したマスケット銃を肩に担ぐ。知恵が突っ込んでいくまで射撃はできない。彼女が敵に向かって走る最中では、どれだけ狙いをつけるのが上手くても、巻き込む可能性がある。中距離戦闘の状況でしか使いようがないが確かに奇跡に他ならない、そんな術式を姫乃は書いた。
後衛の彼女の射撃準備を確認して、知恵は魔力を足の裏で破裂させる。琴美の声が聞こえてくるようだった。
『魔力は川の水です。肉体のどこかに集めるなら、他の箇所へ向かう支流を堰き止めるイメージですかね』
修道服の裾を翻して、跳んだ。とびきり目立つように――それなら、知恵の得意分野だ。
ゆらりと躍り出る。生気を感じさせない虚ろな姿が。
人体の限界を超えて舞い上がった知恵は、乾いた赤黒い血で襤褸切れをさらに汚した霜の巨人の脳天目がけて、サーベルを叩きつける。と同時に、その刀身が極光を放った。触れるくらいに肉薄した相手にでなければ、知恵の魔術はまともに機能しなかった。
鮮血が雪の森に飛び散る。
サーベルはぱたりと落ちて、霞み消えた。一瞬早く、霜の巨人の方が氷の大刀で薙ぎ払っていた。知恵の細い身体を。片膝をついた知恵の下へ、巨人は雪を蹴散らして肉薄し、さらに縦に斬り上げた。
吹き上がる返り血の中で、霜の巨人を光が襲った。ほんの刹那だけ、虹色の閃光が怪物の眼前で爆裂して、瞳を焼く。
ほんの二秒間だけ、怪物が無防備を晒す。
瞬間――迸る。桃色をした魔力のオーラを、姫乃が弾丸の形に凝縮させ、装填して、撃った。
霜の巨人の上体が仰け反る。
腰から胸まで斜めに走る大きな傷から流れた血にぬめる手で、必死にしがみつくようにして霜の巨人の大刀を止めていた知恵は、銃声を聞いて振り返る。
彼女の口元は、これまでで最も自然に、微笑んでいた。
――魔術の修練、ですか?
――確かに貴女の実力を知っているのは私くらいのものですが、だからと言って……私に頼みますか、普通。
――手のかかる人ですね、本当に。うんざりする。
サーベルはブラフ。懐に飛び込んで刀身を受け止めながら、知恵・アコンニエミが七色に光らせたのは――己の全身だった。
目くらまし以外の何物でもない、くだらない魔術。完璧に習得したと胸を張って見せたら、琴美は呆れて座り込んだものだった。
――どこまでナルシストなんですか?
――この魔術を何に利用するか一度でも考えました?
――光る才能がないからこうして闇練しているのでは?
霜の巨人の動きが、眩い光で、一瞬――止まった。そこにもう一発、銃弾が突っ込んで、炸裂する。
口元から朱い泡が零れる。視界が傾いていく。
最期の瞬間、想ったのは、琴美と初めて出会った時のことだった。
――「 、 !」
――「 、 ?」
その些細な一言が、琴美を、世界の何もかもへの絶望の淵から引っ張り上げたのだ。
それが全ての答えだった。琴美は、知恵に対して、ずっと――あの時の恩に報いようとしていたのだと、知恵はようやく理解した。
あんなこと、知恵にとっては、なんでもない本心でしかなかったのに。
ふたりの歪な関係は、しかしとても美しく始まり、ついに誰に知られることもなく消え果てた。
向こうでまた琴美とゆっくり話せたらいいと、そう祈りながら、知恵でも力でもなくただ優しさだけを持って生まれた詩人は、静かに眠った。
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