8
日常の破壊者の顔面を吹き飛ばしたはずの銃弾は、「それ」の表皮に触れる寸前で瞬間的に凍結させられ、ちっぽけな鉛の欠片として地面に落ちていた。
「知恵さん……今までで一番、カッコよかったじゃないですかぁ」
雪を撒き散らして上がった煙。姫乃は、その向こうで影がひとつスローモーションのように倒れ込むのを見た。
「でも、あれで無理なわけね……」
ひとつ――ひとつだけだ。煙が晴れるより早く、知恵の骸をそこに残して、霜の巨人が疾走してきた。表情に生気はなく、片手に提げた透き通る刃は、ねっとりと生温い血に汚れた上からさらに氷の層を張り直して鋭利さを保っていた。直後――その刀身が、高い音を立てて砕け散った。
姫乃は既にマスケット銃を捨てていた。彼女が撃ったわけではない。しかし紛れもなく、それは姫乃・ホロパイネンの魔術的攻撃だった。
本当は胴に風穴のひとつも空ける算段だったので、得物を破壊しただけに終わったのは不満足な結果ではある――だが、悔しがる暇などない。失った左手の痛みを噛み殺しながら即座に次の行動へ移らなければ、いとも簡単に姫乃の命は消し飛ぶ。削り合う一瞬一瞬が千金に値する、これが魔術戦なのである。それを、ひしひしと感じていた。
後方へ走る。逃げるのではない――足場が悪く障害物の多い湿地の中へ、それを誘導しようとして。
それすら確かな快感であった。修道女学院に入ってからは勿論、ホロパイネンの屋敷でも、裾を乱して思いきり走ることなど許されなかった。陸上選手だった光季が整備されたグラウンドを力一杯駆け抜けていた頃でさえ、姫乃の運命は窮屈だった。
抑えきれない笑みが溢れ出る。たった今、目の前で人が死んだというのに。
「ずっと待ってた……ずっと、ずっと待ってた!」
姫乃・ホロパイネンの才能は、他者を害する魔術に特化していた。
戦時下でもない現代社会において、良家の子女が魔術戦を行う機会など、本来はそうそうあるものではない。社会によって、法律によって、道徳によって、秩序によって、彼女が自由に才能を発揮する機会は奪われた。
「バチバチにやり合って、姫はできる子なんだって、証明してくれる相手をさあ!」
修道服の裾を捲り上げてひたすらに雪の上を走りながら、残った右手の指を鳴らすと、空に光が現れる。幾つも、幾つも。
そのひとつひとつが、銃口だった。拳銃が、小銃が、散弾銃が、機関銃が、擲弾銃が、狙撃銃が、空気銃が、電磁銃が、光線銃が、姫乃の魔術で形を成す。
人を撃ったのは、今日が初めてだった。それでも、彼女の術式のモチーフは銃なのだった。それはきっと、傷付ける役にしか立たないという彼女の自嘲を象徴していた。
銃を具現化すること自体ではない。
姫乃の全天術式『シティポップを▽とめてくれ』――それは、「撃った弾丸が通過した軌跡上に破壊力を残留させる」能力。触れたら肉が吹き飛ぶ不可視のロープを一瞬で、それも無尽蔵に張れるようなものだ。
空中に出現した無数の銃が、一斉に放たれる。霜の巨人を目がけてではなく、地に向けて斜めに。
一瞬の間もなく、霜の巨人は瞬間的に水蒸気を凍結させて再び形成していた刃を、斬撃として飛ばす。姫乃の小さな背中を目がけて。
しかし、宙を踊った氷の刀身は、けたたましい音と共に穴だらけになって撃ち落とされた。
斉射された弾丸の軌跡は、不可視のフェンスとなっていた。実体を持つ攻撃がそこを通過しようとすれば、残留した銃弾の破壊力が自動的に迎撃する。
それを合図に、振り返って姫乃は、自らの右手の内に生み出していた回転式拳銃を構えた。
「しっかし――光季の奴、さっくり死にやがってよ! ざまァ見ろ!」
魔術による操作で引き金を引くよりも、結局は、手で狙いをつけるのが一番だ。いつか来る輝ける瞬間のために、魔術の修行だけでなく、的を撃つ訓練も欠かさなかった。姫乃の歩んできた荒野のようなこれまでの日々が、今、ここに実を結んでいた。
片腕で器用に反動を殺し、振り返った不安定な体勢のまま撃つ。空間上に破壊の直線を設置する。弾丸それ自体は、絶対的な冷気の盾が怪物の肌を破る前に凍てつかせてしまう。だが、貫通力は空中に残るのだ。
姫乃自身すらそれを視認することはできないが、だから彼女は後退しながらしか発砲しない。獲物を仕留めた後で術式を解除すればよいだけの話。
これを繰り返せば、張り巡らされた直線座標のいずれかに、姫乃を追う霜の巨人はいずれ必ず触れる。
湿地まで戻ると、姫乃はすぐさまそこへ頭から飛び込むようにして身を伏せた。氷の柱の群れの奥に大氷塊がある。修道服が雪混じりの泥で汚れていくことも、止血すらしっかりとできていない左肘の傷口から尋常でない痛みが脳へ昇ってくることも、一切気に留めることなく、彼女は匍匐でその陰に入った。それから、呼び出しておいた上空の長銃二十丁を乱れ撃つ。四方八方へ、弾丸の軌跡の網を巡らせる。触れる者を自動で撃ち抜く不可視の結界。
その中へ立て籠もって、右手の中に拳銃ひとつだけを創り出し、なぜ姫乃たちの前に「それ」が現れたのかを考えていた。見る限り、目視の範囲外への超長距離攻撃の手段は持っていないらしい。であれば、琴美たちが殺された際、この怪物は校舎の談話室にいたのだ。魔力に引き寄せられたにしても、森を捜索していた姫乃たちよりも眞織・マリアのペアと詩杏・倫のペアが直線距離で近くにいたはずである。
既に眞織たちも詩杏たちも倒されている可能性はある。だが、そうでなければ。捜索隊の他のペアよりも姫乃たちを優先する必要があったとすれば、その理由は――この場所を守るため、とは考えられないだろうか。
惜しいところまで辿り着いた感触がありつつ、姫乃の考察がその先へ到達することはなかった。
雪の上、氷の刃をずるずると引き摺りながら追ってきていた霜の巨人は、白い息を吐くこともなく、静かに、沼の淵から這い蹲った姫乃を見下ろしていた。
その身体に――残留した銃撃で負った傷などひとつもなく。
どきりと、流石に心臓が止まりそうになる。
「……嘘だろ。こんなに早く……姫の術式が見破られるわけッ……!」
隻腕の彼女は、融け始める気配のない大氷塊の表面に手のひらを置き、立ち上がろうとした。
そして気付いてしまったのだった。
そこは、神殿であると同時に要塞だった。突き立つ氷の柱は砲身だと理解できた。
横たわった芋虫のような大氷塊の胎の中に、四つ、何があるのか。姫乃は、考えてしまった。
「あ」
それが、いかに大いなるモノか。
姫乃・ホロパイネンは、知覚した。
常人であれば即座に狂死していたはずだ。拳銃など手に持っていようものなら、迷いなく口内へ突っ込んでいただろう。たまたま、姫乃は戦士としての適性が高すぎた。それ故に根源的恐怖を噛み殺し、此方へ踏み止まることができた。口の端から垂れかけた涎を残る右手の甲で拭って、彼女は顔を上げる。
しかし、魔術戦の最中である。
ほんの刹那の錯乱が、運命を分けた。
爆竹のように、辺り一面で火薬の破裂音が響く。地を撫でて巻き起こった大吹雪――細かな氷の粒ひとつひとつが、姫乃が念入りに張った銃撃の網を崩していく。その大魔術行使のための僅かな隙を与えてしまったことで、彼女は、力ずくで詰まされた。
「えっ、ああー。そっか……姫でも、こんなもんが限界なのか」
銃を、ごとりと投げ落とした。
霜の巨人が片手を挙げる。空気が裂けるような音を立てて吹雪は凝結し、小惑星を思わせるような氷塊が頭上に出来上がっていく。人体などひとたまりもない巨大質量。
それを、霜の走る沼に膝をついた姫乃は見上げていた。
「なんだよ、もう終わりかよ畜生」
言葉とは裏腹に。
己の全てを撃ち尽くして、少女は、意外にも晴れやかな顔だった。
最期の瞬間、姫乃・ホロパイネンには、顔を思い出すほど大切な存在などいなかった。
一足先に地獄で待っている憎たらしい光季・ヌルメンカリが、この霜の巨人を相手に自分より善戦してさえいなければ、それでいいと。
それだけそっと祈りながら、憐れみのように落ちてきたものを受け入れた。
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