9

「ね、詩杏せんぱい」

「あん?」

「せんぱい、『ふたつのピアスみたいに、永遠』は、誰のためになら使えるのです?」

 決して、倫は索敵に集中していなかったわけではない。与えられた仕事はきちんとこなし、その上でふざけるというのが彼女の流儀だ。

 日頃は修道服に身を包んだ少女たちが、楚々と、それでいて晴れやかな笑顔を浮かべて行き交う回廊。今日はしんと嘘のように静まり返って、いつも以上に冷え込んでいる気がした。

「そうだなあ……アタシ自身が死ぬ間際にはそりゃ一回は絶対使うだろ?」

 教室の木戸を順番に開けていく倫の華奢な背中を、詩杏はぼんやりと見ていた。

 何かあった時のためにと繋いでいたその白い手が微かに汗ばんでいることにすら、彼女は気付いていなかったかもしれない。

「あとは……ま、親とか……旦那とかガキのためじゃねーの? その時になんなきゃわっかんねーけどさ」

 ぱたんと。

 ドアが、閉じられた。

「そっか」

 空っぽだった。

 その教室にも、何も起きてはいなかった。

「そうなのですか。……そうなのですね、せんぱいは」

 一度来た道を引き返すことはない。

 思えば、ずっと夢を見ているような一日だった。起きて、友子・サーリネンが両脚を切断されて死んだと聞かされ、驚く暇もないまま隔離され、気付けばその犯人捜しで誰もいない学院の回廊を歩いている。

「なんだよ、どうかしたのか」

「いいえ? なんでもないのです」

 だから、これもきっと。

 いつかは終わる夢だったのだ。

「……せんぱい。せんぱいが言わないから倫が言うのですけど、琴美ちゃんも光季ちゃんも、きっともう殺されたのです。探索組の他の四人も、もしかしたら。だから多分、倫たちもいつ襲われるかわからないのです。ですから。せんぱいはなるべく、隠れながら行くのがいいのです」

 決して離してしまわないように、その手をきつく握り締める。

 倫・トゥルネンなりの、それは、当てつけだった。後できっと、自分の醜さが厭になる。それでも、そう言ってしまうしかなかった。

「……もし不意討ちがあるなら、最初の一撃は、倫が受けるのです」

 そうしたら。

 せんぱいは、倫のために……

「え?」

 繋いだ手があまりにも軽いのは、緊張していたせいではなかった。

 倫の手を握っていた詩杏の手。

 それは、肘のところでぷつりと切れて、その先にはただ暗闇だけがあった。

「い」

 直後、振り返った倫の真横を、詩杏の身体が吹っ飛んでいった。

 その全身は既に、液体窒素の中へ突っ込んだかのように白い蒸気を立てながら凍っていて、壁へ叩きつけられた衝撃で首や腕や胸がばらばらに飛び散った。アイスキャンディーを地面に叩きつけたかのように。あまりに無機質な打撲音だけがそこに残って、血が垂れることすらなかった。

 全天術式で時を巻き戻すことなど一度もないまま、あまりにもあっさりと、詩杏・レッパルオトは生涯を終えた。

「いやああああああああああああぁぁぁぁぁっ!?」

 小柄な少女にしか見えないのに異様な膂力で詩杏を蹴り飛ばした霜の巨人が、長い廊下を突っ込んでくる。べきべきと、一歩ごとに足下を白く凍てつかせながら。

 間合いは既に無く、倫は、狂乱の悲鳴に震える歯を噛み砕くように食い縛り、叫んだ。

「殺してやる! 殺してやる、殺してやる……全天術式!! 『春雨を梳けばきみのけはい』ッ!!」

 詩杏が目の前で砕け散った。その現実を、落ち着いて受け入れる数秒すら許されなかったのは、彼女にとって幸いなことだった。

 何が起きたのかも認識できないまま、心臓から魔力を迸らせた。それは爆裂するように、倫の命をもかき消そうとしていた霜の巨人を巻き込んだ。

「――」

 閑かな空間が。

 そこには、あった。

 倫・トゥルネンの全天術式『春雨を梳けばきみのけはい』。茶室を作り出し、招き入れた相手の魔力を回収する。そこでは倫が亭主だった。

「ようこそおいでくださいました」

 茶碗に湯を入れ、窯に預けるように柄杓を置く。とっくに自らの一部になった所作だ。それだけでよかった。

 倫が魔力を練りながら茶を点てる間、客は身動きを取ることができない。そして、それを飲んだ時、肉体が帯びているあらゆる魔力は茶釜の中に吸い込まれ溶けてゆく。招待が可能な射程は極めて短い代わりに、対人魔術戦闘であれば必勝の術式。

 茶筅を使いながら、目を伏せていた倫は。

「――――」

 そこに、ありえないものが来ていると、客の目などわざわざ見ずともわかった。

 ああ。

 ちゃんと伝えておけばよかった。

 ちゃんと伝えて、ちゃんと振られておけばよかった。

 霜の巨人の膨大な魔力を汲み尽くせず、茶釜は瞬間的に割れた。畳に亀裂が走る。花瓶は倒れ、掛け軸が引き千切れる。茶室が維持できない。

 細い脚が、不自然なほどに強く、踏み下ろされる。魔術的拘束を解かれた霜の巨人が、大きく一歩、倫に向かって踏み出す。透き通る鋭利な氷を構えて。

 茶室とは武装解除を強いる作りになっている。その伝統を踏み躙るように、氷の大刀は全てを薙ぎ払うように振るわれた。

 大地震の最中のように崩落していく茶室の中で、霜の巨人によるこの世ならざる絶氷の斬撃が迫る中で、倫・トゥルネンは居住まいを正し、静かに目を閉じた。

 ずっとずっと、お慕いしているのです。でも詩杏せんぱいには、せんぱいの時間の先へ、自由に走っていってほしいのです。

 倫はいつでもここで、いつまでもここで、お茶を点てながらせんぱいを待っているのです。

 誰にも寄り付かれないと思っていた倫は、とてもとても、幸せな恋をできたのです。

 怒りもなく、恐れもなく、かなしみには近かったのかもしれないけれど。

 その想いひとつだけを微笑みの形として残したまま、乙女の首は、椿の花のようにぽとりと落ちた。

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