10
「マリア。愛しいマリア」
友子・サーリネン。
光季・ヌルメンカリ。
琴美・キルペライネン。
知恵・アコンニエミ。
姫乃・ホロパイネン。
詩杏・レッパルオト。
倫・トゥルネン。
修道女学院が誇る優等生、絢爛たる『駒草会』の魔術使い九名。うち七名までもが、既に儚く命を散らしている。
そのことに、もちろん確信は持てないままだが、眞織・ユリアンティラは勘付いていた。スプーンが端末機能を失った後、眞織はすぐに談話室の様子を確認しに行こうとしなかった。友子の殺害が私怨や正当防衛や動物的本能によるものであって、第二の犠牲者が出ることはない……という可能性も多分にあったが、しかしそうではないとなると、これはれっきとした戦時であり――遅かれ早かれ眞織たちをも襲ってくるであろう敵に対する勝算を最も上げるのは、出入口が一ヶ所しかない建造物に立て籠もっての迎撃である。こちらにはマリア・ネヴァンリンナがいるのだから、不意討ちを避け先手を打てれば魔術戦において敗北はあり得ないのだ。
「なあに? 眞織」
故に。マリア・ネヴァンリンナを膝に乗せて、彼女は、礼拝堂にいる。
そこはこの世の全てから取り残されたかのように静かで、眞織は目を伏せながらマリアの亜麻色の髪を梳いていた。
建物の周囲には魔力の網を張り巡らせている。しかし、それぞれの場所を探索している他の『駒草会』メンバーの安全確保を――眞織は、サロンの長でありながら放棄した。それが罪だと言うのなら、全てが片付いた後でいくらでも罰を受ける覚悟はあった。もし、その時に生きていられたなら。
眞織・ユリアンティラは、伝統派魔術をより輝かしく完全な形で次代に受け継ぐことを自らの使命と心得ていた。
その観点からすると、何十人何百人の若き魔術使いの生存よりもよほど重要なのは、マリア・ネヴァンリンナひとりの生存だった。
「術式の準備はどうかしら」
猫のように背中を丸めたマリアの小さな身体は眞織の腕の中にすっぽりと収まっている。彼女はそうするだけでよかった。夢を見ることが彼女の魔術だった。
そして、ひとたび彼女が魔術を行使すれば、不届き者は修道女学院の敷地から――どころか、この世界から消え失せる。思いのままの奇跡を、彼女は全天の星から降り注がせることができる。
「もう、あとちょっとよ。卵とミルクとお砂糖はできたもの!」
故に、誰を見捨ててでも切り札であるマリアを死守するというのは、戦略的にも正しかった。
長い睫毛。薄い瞼。触れたら壊れてしまいそうな世界の至宝。
深夜の窓辺でそっと楽器を奏でるように、眞織は、あえてその背徳を愉しんでいた。小さな手のひらに、細い首に、潤った唇に、青白い指先を這わせる。
「んもう、くすぐったいわ?」
「教えて、マリア。あと何秒」
「ええと……そうね、二分くらいかしら」
僅かに間に合わないことが、眞織にはわかっていた。
魔術的探知などするまでもなかった。冷たい火砕流のような魔力の塊が一直線に接近してくるのが肌にびりびりと感じられた。
うとうとしているマリアは体温が高い。彼女の魂を自らの中に写し取ろうとするかのように、少しだけ強く抱き締めて、可愛らしいつむじに唇をつけた。こんなに小さくやわらかい存在に何もかもを託そうとしているなどというのは、まるで嘘のような話に思えた。
「マリア。ありがとう、生まれてきてくれて。……後のことは、よろしく頼むわ」
「眞織? どうしたの? わたしの夢の中で、眞織の大好きな檸檬のケーキがもうすぐ焼けるのよ? 蜂蜜も作ったの、たくさん! ね、きっと遊びに来て頂戴ね?」
「……ええ」
マリアがいれば。
この世界は、きっと、大丈夫だ。
「楽しみ。とってもね」
眞織・ユリアンティラは、マリアの背中を最後に一度だけ摩って、魔術を使った。
亜麻色の髪をした天使を、上位へ。解釈の余地のない、空間的上方へ――即ち、雪の降る礼拝堂の屋根の上へ。
瞬間、怒涛のような氷の束が大扉を突き破った。眞織の髪を揺らすほどの轟音。
巨大な氷を踏み越えて、少女のようなそれが現れる。くしゃくしゃの髪はところどころ凍り付いている。
とうとう振り返らなかった眞織は、破滅がどんなかたちをしていたのか知ることもなかった。
「……全天術式、『翅あるものたちの装飾楽句』」
そこからの二十秒。マリアの夢が満ちるまで、時間を稼ぐ。
そのために、彼女の生きてきた十八年はあったのだ。
絶世の魔弾となって飛んだ一音一音は、大いなる霜の巨人への抵抗などではなかった。それらは、どこまでも讃歌でしかなかった。
眞織・ユリアンティラの全身を、細氷の槍が次々と貫いた。その魂が消え果てる瞬間まで、彼女の細く白い指はオルガンを弾き続けた。恐怖はなく、ただ悦びだけがあった。
この世界と、天使のような彼女に捧ぐ、精一杯の愛と魔力を込めて。
曲は勿論、パッヘルベルのカノンである。
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