5
サーリネン家は魔術貴族の名門中の名門である。しかしそれと同時に、中世以来の魔術全盛とされる現代において、「魔術は女が使うもの」という価値観を恥ずかしげもなく持ち続けている家としても知られていた。
いずれにしても、長子であり女子である友子は魔術的後継者として申し分なく、彼女を取り巻く環境がどれほどの重圧を強いるものだったか、魔術の世界に身を置いていれば想像に難くなかった。
「……」
かつかつと。靴音高く、彼女は行く。
友子・サーリネン。幼い頃から何度も魔術競技での優勝を重ねてきた、若くしてベテランの風格さえある魔術使いである。眞織・ユリアンティラやマリア・ネヴァンリンナのような「外れ値」が同世代に存在していなければ、彼女は、未来の魔術界を担う子供としてもっと注目されていたはずなのだ。
ぎぃ。古く重い木戸を押し開ける。
灯りが落ちて人気も絶えた校舎の中を歩くのが、好きだった。平穏な社会の裏側で積み上げられていた魔術の歴史や伝統が、全てこの軋む床板の下にあるような気がした。故にこの見回りは、もちろん事前にシスターたちの許可を得ているものの、生徒たちのためという都合の良い建前のある趣味に過ぎなかった。門限破りについてぐちぐちと言われることもなく、ひとりの時間をゆったりと楽しみつつ、シスター達には慈愛の心を持つ善き魔導騎士として覚えられる。
ぎぃ。
「あら」
元は旅人を迎え入れる休憩所であったという、大教室の隅で。
しゃがみこんでいる、修道服の少女がいた。
「貴女、どうかしまして? もう下校時刻を過ぎていますわよ。続きはまた明日になさいまし」
優しい声色で、友子は声をかける。
「あ……」
振り返った彼女は、杖を手に持っていた。
杖と一般に呼ばれるそれらは魔導補助器具といい、生活に魔術を必要とする幼児や高齢者のため、一般に流通しているものではある。友子がそれを手放したのは四歳の時だった。
由緒ある修道女学院の生徒がそれを持って授業に臨んでいるというのは、みっともないことだった。
「あ……その……も、もっ、もう少し……なの、で……」
掠れた声には、明らかな怯えがあった。
それは急に人が踏み入って来たことへの驚きから来るものではなく、より純粋に、汚物を目にしたような友子の眼差しに対してのものだった。
そばかすの少女は、教室の床に置いた空の鉢植えに向かって杖を振り続けていたのだった。何度やっても、そこには植物どころか、まともな土壌すら現れ出ないようだったけれど。
「そう。一年生の課題ですわね。好きな花を咲かせる……わたくしもやりましたわ」
友子は、ゆったりと腕を組み、冷え切った壁に背を預けた。
強い酒に酔ったような、不思議な浮遊感があった。
普段の友子なら、たとえ誰が相手だろうと、その後の体面を気にして、こんなことを口にするわけがなかった。
急に、これまで感じたこともないくらいに煮え滾った血が脳へどっと流れ込んだ。
「これだけ時間をかけて、小さな、醜い花を咲かせて。それでどうするんですの?」
瞬く間にこの大教室一面を薔薇園にすることなど、友子には容易かった。それでも首席が取れないのだ。
友子・サーリネンは今後の人生で、歴史を変える存在になることなどないのだろう。春には『駒草会』の務めを終え、魔導騎士の資格を持って卒業し、一族の伝手で魔術使いとして楽な仕事に就き、頃合いを見て親の決めた相手と結婚する。それ以上もそれ以下もない。映画の主人公のような劇的な人生ではなく、それ以上に恵まれたものだ。一番にはなれないとしても、彼女は貴族の娘として生まれた己に恥じない存在ではあった。ただそれだけだった。
眞織のこともマリアのことも嫌いだったが、彼女たちのような存在を突きつけてくれた学院には感謝していた。誰に対しても平等に伝統の重みと深みを味わわせる、祖母も母も青春を過ごしたこの学び舎を、友子・サーリネンは深く愛していた。それを誇ることで、一番になれない彼女はアイデンティティを築いていた。
偽りの表情ばかりを作るのに慣れた令嬢にとって、それだけが真実の感情だった。
そばかすの少女は、修道院としての門の前に捨てられていたのをシスターたちに保護されたのだという噂があった。友子も耳にしたことがある。
もし本当なら、そんな、そんな理由で。
「え……?」
「ねえ。このわたくしが聞いてるんですのよ」
ショートブーツが、鉢を蹴飛ばした。空の陶器は驚くほど軽く、がらんと壁に当たって音を立てた。
そばかすは杖を取り落とした。上等なメーカーのものですらない、その辺りで拾ってきた棒きれのような、くすんだ色の木材の杖。
もはや友子の肉体は彼女自身のものではなくなっていた。知性を司る意思は白い吐息と共に漏れて散逸してしまい、もっと熱を帯びた得体の知れないものが彼女を衝き動かしていた。
「わたくしでさえ、このわたくしでさえ、毎日苦しくて、苦しくて、悔しくて、吐きそうになっているのに?」
友子の靴底が、そばかすの杖を踏みつけた。
「や、やめて……お願い……です……返……」
「貴女ごときが? ……よくも恥ずかしくもなく、のうのうと生きていられるものですわね!」
べきり。
暗い快感が長い脚を通して、友子の胎を微かに震わせた。
折れた杖を爪先で蹴って、床に膝をついたそばかすの方へ滑らせた。手の甲で目元を何度も何度も執拗に擦っていたそばかすは、冷たい床の上で、それに飛びついて押さえつけるように必死に掴んでいた。
「あ……嫌……やだ……ごめんなさい……ごめんなさい……」
這いつくばったまま、がたがたと震えながら、目を見開いて。
そばかすは、みすぼらしい杖の欠片を両手で握り、友子の喉元に向けた。
「……はぁ? 貴女……」
「助けて……お願い、です……」
伝統派魔術は、星の子の祝福。原則的に、言葉による詠唱を必要としない。自身の意識の内側で完結する。魔力の充填された身体をスコープとして天体にアクセスし、それらを祭壇として解釈することで奇跡を行使する。
その大まかなメカニズムは、再臨派魔術も共通していた。ただ、呼びかける必要がある。かつて来たりし者たちへ。
雪の中に捨てられていた赤ん坊は、伝統派の修道院に拾われた。彼女自身、再臨派魔術のことなど知る由もなかっただろう。ただ、心身の危機において、己の魂に刻印されたその単語が、ふと脳裏に閃いただけだったはずである。
しかしそれは、世界の終わりを呼び込む呪文だった。
「助けて……『かなたのひと』」
かくして。
異端たる再臨派の魔導兵器は、起動する。
「……オーダー認証。インストーラ起動。出力待機モデル検索……モデル『ルリム=シャイコース』仮想顕現。魔術的再定義開始、終了。『霜の巨人』として訳出。起動シークエンス完了。インストーラ・アプリケーション多重封印。メモリ内人格……消去」
譫言のように呟きながら、そばかすの少女が立ち上がった。べきべきと音を立てて、手の中の杖の残骸が冷気を凝結させていく。
つむじ風のように、魔力が渦を巻いているのがわかった。
「何を……何をしたんですの、貴女ッ!?」
棒きれは氷を纏い、歪な長刀の形を成していた。それが目の前で組み上がる。膨大な魔力を湧き水のように惜しげもなく垂れ流して。
彼女は――「それ」は首を折られたように俯きっぱなしで、くしゃくしゃの髪が覆い隠した瞳は覗けなかった。
理解などできないまま、友子は対処を試みた。それは冴えた選択で、逆に、それ以外に選択肢などありはしなかった。奇妙な高揚感はとっくに冷めきっていた。
伝統派魔術で唯一、例外的に呪文名の詠唱を伴うものがある。全天術式、観測可能な恒星全てを祭壇化する大秘術。それは伝承されず、魔術使いが己の代名詞として作成する、自分だけの幻想。修道女学院の生徒の中でその執筆を完了させているのは『駒草会』の九人のみ。
そしてその使用が許されるのは、『駒草会』の建前上の存在理念である――「その優秀なる魔術学習の成果を発揮し、魔導騎士候補生として、有事の際には学院およびその生徒を外敵から守護する責務にあたる」に該当する行動の際に限るものとされていた。
「全天術式……『九夏三伏』!!」
刹那、友子の全身を魔力が駆け巡る。あらゆる細胞が励起する。大きく息を吸い込んだ。星の祝福で肉体を強化する。最も単純でそれ故に強い、王道を歩む彼女の奥義。
外では宵の入りの風に粉雪が少しだけ流されて、連続的な日常は、そこで終焉を迎えた。
最初に見てしまったのは、陽の昇る前に目を覚まし、図書室で予習を進めようと校舎へ向かったひとりの少女だった。
悲痛な金切り声は、深い針葉樹の森が飲み込んだ。
両腿の半ばから先を失った友子・サーリネンは、大教室の外の石の階段に転がり、うっすらと雪に覆われながら冷たくなっていた。
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