霜のゆりかご
穏座 水際
1
しんと沈むように張り詰めた冷たい空気の中に、肌を微かに震わせるオルガンの音色。
鍵盤を滑る白魚の指が、踊るように行き来する。
学院の周囲には、いつも、死のかげがそっと降りてくるかのように、白い雪が静かに降り積もっていた。針葉樹の深い森が、少女たちをうんざりするような俗世から肉体的にも精神的にも隔離することによって、そこは聖域として成り立つのであった。
「まあ、なんて素敵な音色なんでしょう! わたし、胸が高鳴って、まるでお母さまの村でお日様の匂いがする葡萄を見つけた時のようだわ!」
視界の端で、秋の畑の夕暮れのような金色が跳ねる、跳ねる。
眞織・ユリアンティラは決して不美人な少女ではなかったが、こうしてマリア・ネヴァンリンナの透き通る睫毛がすぐ目の前で忙しなく上下するのを見ていると、その奥できらきらと光るエメラルドのような眼球に比べて、己の切れ長に過ぎる目はまるで人を刺すようだと感じるものだった。
「ありがとう。……貴女のお母さまの故郷は、見たことがないけれど、きっと貴女にとっては思い出の土地なのでしょうね」
十八年間かけて自らの肌の内側に養ってきた全てのものの表面にふるふると細波が立ち、淹れたての紅茶に落とした砂糖が崩れゆくようにそれら全てが静かに砕け始める、そんな感覚が、眞織の中にはずっとあり続けていた。花の頃に、マリアを一目見た時から。
絶望ではなく、それは昏く空を覆う雲を突き抜ける陽射しの歓喜であった。
延々と紡がれてきた魔術の歴史は、マリア・ネヴァンリンナを生み出すためのものだったのだと。
そう知ることができたので、伝統派魔術の番人たる家の世継ぎとしていずれ全てを学び修め書き遺さなければならないという責任から、眞織・ユリアンティラは解き放たれていた。
「ええ、とっても素敵なところよ! 秋になるとね、わたしが住んでいたお屋敷からも見える、いちめん緑色をした丘に、葡萄がいっぱいに実るの!」
「……そう。素敵ね。でもワインに使う葡萄は、きっと貴女には美味しいものじゃなかったでしょう。……貴女がつまみ食いをしているところが目に浮かぶわ」
「まあ、失礼なんだから! うふふ、でもそうなのよ。酸っぱくて、皮がごそごそするの。だからね、食べるんじゃなくて遊ぶのが一番素敵なのよ!」
睫毛を伏せて、オルガンを弾く手を止めた。
ぞっとするほど白い指が、そうして初めて、礼拝堂に満ちていた空気の冷たさを思い出す。
「遊ぶって?」
「魔術で、わたしは姿を隠せるでしょう? そうして畑にこっそり入ってね、葡萄をもいで、刈り取っているおじさまやおばさまの頭に投げるの! うふふっ、綺麗に当たるとね、葡萄がぱんって弾けて楽しいし、みんなが被っている白いお頭巾がとっても素敵に染まるんだから!」
天使のような少女は、歌うように口にする。
細く長い息を吐いて、眞織は、マリアを抱き寄せた。束ねた絹糸のようにやわらかい肢体が、修道服の内側で微かに脈打っている。
「……マリア。それは、いけないことなのよ」
「そうなの?」
白い花の香りを嗅ぐ。恭しく、世界の至宝に触れている。
誰にも侵されない冬の園で、渇きを主張する喉を罪めいた悦びに浸しながら。
「食べ物を、粗末にしてはいけないの。巡り巡って、マリアや、マリアの大好きな人たちの身体を作ってくれるものなのよ」
いつか朽ち果てる人の身で。
眞織は、その時を迎えるなら、それはきっとパッヘルベルのカノンが流れる中で、マリア・ネヴァンリンナの果てなく輝ける背中を見ながらでありたいと、そう、希っていた。
「わかったわ! ……ありがとう眞織、眞織はとっても物知りね」
返す言葉など持たなかった。ぷつりと切り揃えた前髪が、眩しすぎる視線を遮ってくれた。
腰に指が触れると、くすぐったそうに跳ねる。神々しくさえある下級生を、音の死に絶えた礼拝堂で、自らの膝に跨らせている。
その細い輪郭をなぞることすら罪深いと感じながら、眞織は唇を結んで、ただそうし続けていた。
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