第ⅱ話 長編の書き直しが終わる

■A

つい先日、長いことやっていた長編小説の書き直しが終わりました。

終わった、といっても連載ものなので、文庫一冊分、公募に出す分まで書けた、というだけで、まだ続くお話ではあるのですが、ともあれ。


識域のホロウライト

https://kakuyomu.jp/works/16817330664680366899


正確な年数はちょっとわからないながら、どうも一年~二年くらい抱えていたみたいです。

ライトノベル(として書いたつもり)なので、もし専業で書いてたら年間数冊ペースで出てなきゃまずいかも、なところもある一本。リアル事情もあったとはいえ、すごい時間がかかってしまった。

そういう背景もあって、これを書いている間はさまざま思うことがありました。書き終えて一週間くらい? が立とうとしているんですが、まだもうひとつ、魂がぬけたまんまです。

直近の応募しめきりは12月5日(の23:59まで)。なるべく早く現状から復活して、改稿したり次に向かったりするためにも、記事に気持ちをまとめておきたいと思います。


■B-1

このお話の改稿を決めたのは、最初に「了」を打ってから一年くらいが過ぎた頃だったと記憶しています。

この時の「ホロウライト」――のちのちの呼び分けのために名付けますと、旧版――は、伊草がオリジナルの長編として書き上げたはじめてのタイトルでした。


愛着もさりながら反省点も多く残ったしろもので、とても評価してくださった方もいらした一方、いかんともしがたいとの見解を示してくださった方もまた多かった。


改稿したバージョン(便宜上、最新版、と呼ぼうかと思います)もどうやら同じタイプになりそうなのですが、さておきますと、伊草はこれを書いたことでだいぶぼろぼろになりました。

体調や予定がギリギリの時に書いたから……というのもあったのですが、新米ニュービーにはよくあることで、もうちょっといいものが書けるのではと期待していたんです。

美点欠点のありかたとして、「減点法だと即死、加点法だとけっこう頑張れる」なデコボコ型だったのも影響しました。


評価していただけるパターンとそうでないパターン、両方をセットで上手く消化することができなくて、書き上げ後の一年間はだいぶ悶絶しました。


いただいた感想や所見ひとつひとつへの重みづけ……それらのうち、どんなものを特に噛みしめ、どんなものを「いや、あまり気にしすぎてはいけない」とするか……がちゃんと出来ていたらこうはならなかったと思うのですが、当時はいま以上に、とてもへただった。

「良薬口に苦し。手痛い意見はかならず真摯に受けとめよう」「と思っておけば変な方向に間違うことはないはず」と、そんなふうに思っていたため……。


結果、作品の欠点を過剰に気にするようになり、「愛着や自信は甘えによるまぼろしか、あっても数々の反省点が台なしにしてしまっている程度のものだ。まったくよくなかった」と、徐々に思うようになっていきました。


改稿を決めたのはそれゆえだったように思います。

執筆に二ヶ月、準備期間に半年以上をかけたお話への愛着、書きたいものが一部りっぱに書けたという手ごたえ、そこからくる自負、そういったものを軒並みくびり殺さずに済む道はそれしかないように、当時の自分には見えた。

今回はできなかったけれど、今度こそ機会があればやれるはずだ。書き直すならこんなふうにしたい。反省点について、そうしたことをさまざま思う自分がいたというせいもあります。



■B-2

そんな経緯があり、一からの改稿が始まりました。

筋書きをいったんばらし、設定も「そもそもどんなものが書きたかったのか?」あたりまで巻き戻し、キャラクターの性格もリセット。

ここまであれこれ白紙にしたため、本文はもちろん一文字目から書き直しです。

リアル事情のひっぱくも抱えつつ、しかしこの作業だけが自分……もとい、ポジティブな自分を構成するプラスの気持ち……を生き延びさせる唯一の手段だと信じて、とにかく走りました。


途中、二版と呼ぶべき本文が途中まで生じましたが、紆余曲折ありこれは七万字くらいで全廃棄に。

それでがっくり膝を折ったりしつつも、設定を練り、何が書きたかったかを考え、その上で「書きたいこと」をさしつかえなく読者さんに楽しんでもらうためにはどうすればいいか詰め……結果、三版の本文を書きはじめるところまでこぎ着けられました(この三版がのちの最新版)。


苦手要素だったキャラクターも「自分の実力にしては面白くなったな」と思え、設定も「地味かつわかりにくい」という課題をある程度クリアするところまで持ってこれたぞ、となれた。

が、今度は別の問題が。

筋書き――つまりストーリーの、矛盾のない構築に四苦八苦することになったのです。


たとえば、大量の設定をきれいに、それでいて楽しんでいただける形でどう説明しようだとか。

あるいは、各キャラクターに「これくらいは頭が回ってほしい」と思うラインを設定したためややこしくなった事件の全容をどう整えようだとか。

公募に出すことを考えていたため、費やせる紙幅に限度が生じてしまったのも苦しいところでした。もともと文面を長く書いてしまうたちだったので、これはかなり苦しかった。


そういった問題に加えて、「今度こそは『欠点で台なし』を回避しないとすべてが水の泡になってしまう」「でも二版の破棄を一度やったからにはもうこの三版でいくしかない。早く完成させなければ自分がもたない」という意識もありました。

なにぶん今回の改稿には自分を生かすためのあれこれの気持ちが、保留状態で――つまり生き死にが確定していない宙ぶらりんの状態で――賭けられてもいます。その状態はとてもつらい。

そんなですから、「いやー残念だったね。まあ次の作品ではうまくやりなよ」となった時、もう一度立ち上がることは伊草には尚のこと出来そうになかった。


特に中盤……ある程度お話を進めてしまったけれど、あらわになった詳細、本文の状況と照らし合わせ「すべてを満足のいく筋で消化しきることはできない」可能性が非常に高くなった時期……はハードでした。


浅井ラボ先生(『されど罪人は竜と踊る』)の「やべえ計算が狂った詰んだ、これはもうあかん! ……となって後それを乗り越える、そういう過程がなければ本当にいいものはできない(意訳)」という言葉だけを杖にじわじわと進めたのですが、手痛いミスをやらかしたくだりを書き終えるまでは、筆の進みも遅くなり……ついには捻出した余暇の三分の一は「書こうと思って書けずにのたうち回る時間」と見込まなければいけないくらいとなっていました。

これを長いと見るかはまったく人それぞれかと思われますが、仕事柄「誰に見られていなくても期日までにものを仕上げるクセ」を最低限育てていた伊草からすると、これは結構な状態でした。


はいずるように書き進める日々を続けながら、同時に進行の遅れにも強くストレスを感じるようになっていきました。

あとになって(大きな案件をリアルでも一つ終えてみて)わかったのですが、どうも伊草は早めにしめきりをクリアできないと追い詰められる性分だったようで、そこが悪くはたらいたかたちでした。


この両方が解消される段階……つまり、筋のいまいちなところを記し終わり、執筆の終わりが見えてきた段階……になってから、驚くほど筆が速くなり、あまりのことに自分は何か致命的にだめになってしまったのではと不安になったことを覚えています。



■B-3

この解消が起きる前後の時期になってから、そもそもの考え方が変わるいくつかの機会も得られました。


三つほどあり、


・重みづけをきちんとすることはある種誠意に分類される、と教わった

・公募を目指す前の、いわゆる大前提として、「自分は何が好きか、書きたいと思うような評価対象と見なしているか」を大切にする、ということがあると理解した

・お話を書くというのは、「書き終えた本文」という結果を生み出す行為である以前にまず、ある一種の生活、日々を、そのお話と共に過ごすということに他ならない、と学んだ



という具合に略記できます。


一つめはそのままです。

本気で、時間と労力と、そして感情とその方のものさしを賭けて評価してくださった結果の感想と、たとえば適当に、それらのどれも賭けずに出力された感想を同等と見なすのは、端的にいって失礼である。

自分に厳しく、甘やかしてはいけない……とうすっぺらく思うあまり、その点をうまく認識できていなかったということに気が付かされたのでした。


二つめはある種の、手痛いあきらめの副産物です。

長い時間、書き直すと決めた第一作目を抱えたことで、ある時に伊草には限界が来ました。

生き死にを改稿の成否に賭け、結果自分自身からはひとまず取り外さざるを得なかった自己肯定感、これが己に不在でありつづける時間にたえられなくなった。

その時、「これは公募はあきらめるしかないのだな」という考えがわきました。

書き上げたものを誰かに評定してもらう、コンペに参加する、そういう段階より手前の地点に自分はいる。

とてもつらい認識でしたが、一度それを受け入れようとつとめ、ある程度は恐らく納得できたことで、「まず自分個人が好きだと断言できるものが書けているか」で本文を反省できるようになりました。

……結果、自分の好きがさまざま細かい場所にまで及んでいて結構めんどくさいんだということもわかったのですが、この話はここではおきたいと思います。


三つめはごく最近の教わりです。

これは家族に言ってもらった言葉がきっかけで持つようになった認識でした。

その家族の言葉というのは、こんなようなものだったと記憶しています。

「作品を作るっていうのは、たとえるなら犬を一匹飼うと決めて迎えるようなもんだよ」

「伊草はそれを競技犬として世に出すぞ! と意気込んでいるわけだけれど、でもそのことと、一緒に暮らすことにした犬が伊草にとってかけがえがない家族であることとは、まったく両立するでしょう」

「お手が上手にできなくたって、ちょっと見た目がぶさいくだったり、おバカだったりしても、まず第一に、その犬は雨の日も夏の日も一緒に悲喜こもごもしてきた、たった一匹の家族なわけじゃない。そりゃあ愛着だって持つし、その愛着は競技の成績以前に、自分のだって人のだって大事にされるべきものだよ。そんな愛着を、作品に感情がないから、自分の分身だからって甘え扱いして否定しちゃうのは、苦しいことだと思うよ」

この言葉のおかげでやっと、伊草は雑な「自分に厳しく」から離れることが出来ました。

「うちの犬は誰にも愛されてしかるべきだ! 愛されないのはおかしい!」と暴れて回るとか、ことわりもなくあらゆる集まりに犬をともなってやってきて場に放つとか、そういうことさえしないなら、その愛着は重んじられるべき側面を少なからず持つのだと、考えられるようになったのでした。


またこの家族の言葉は、作品作りの過程を「書き上げという結果に辿り着けなければまったく無意味だ」と捉える立場からも、伊草をある程度逃がしてくれました。

結果は大事。書き上げは本当にすごいことだし、よろこばしいこと、いつでも目指したいこと。

それはそうなのだけれども、でも、作品を書き上げるぞ、と決めて頭の片隅に置いて育てて、生活が圧迫されたり、ならではの悲喜こもごもを感じたり、そういう経験ができることにもまた特有の価値があるのだと考えられるようにしてもらったのでした。


……こういった変化を経て、伊草は最終的に、二年抱えた書き直しを当社比まえむきな気持ちで終えることができました。


あとがきに、「これが公募で予想通りの(つまりあまりぱっとしない)結果になって返ってきたとしても、あれこれの気持ちはきっといささかも損じられないだろう」というようなことを書いたのですが、その一文に尽きる心境で筆を置くことができたのでした(少なくとも主観では)。


そんな気持ちでいるおかげか、旧版の時は「そうだよなあ」と思うたびがっくりと落ち込んでいたお話のもう一つな点にも、傷が当社比浅い状態で向き合えるようになったように思います。


その辺りを受けとめても、その上で、「でもここはよかったはず!」と思う気持ちは変わらず取り落とさずに、または甘え扱いして自分から絞め殺さずに大事にしていられる。

これはとてもほっとする、また嬉しいことだなと、今はしみじみ感じています。



■C

書き終わってみて、またこうして書いて気持ちの整理をつけてみて虚心に思うのは、「つかれたなー」ということです。


考えてみればそうかもしれないというか、それはそうか、という話ではある。

二年間、割と悶絶しながら失敗を積み重ねて、また「自分は旧版を書き直し対象とした以上、『これが自分の作品です』と全方面で胸を張ってお出しできるまとまった作品はまだないんだな」と思い続けて過ごしたわけで、それは疲れただろう、と。


してみると、来月の5日までに直しを試みる、というのは、けっこう厳しいのだろうか。


これもやはりそうかもしれない。

当分は「これで完成にしたんだしさァッ 手を入れるのやめようよォッ」という気持ちをなだめすかしつつ手を入れる、それくらいが限度と思って進めるのがいいのかもしれない。


この手直しをどのくらいやれるかで選考結果がちょっとだけ変わるかもしれないわけですから、甘いわりきりです。


が、しかし、同時にこうも思えるようになりました。

「人間、一度に苦しめる量には限界があるし、そこを越えると結構ガチで身心壊れたりするからやめた方がいいというか、伊草の場合やらかすのでほんとにやめろ」と。


……いのちを大事にしつつ、粘ってみようと思います。

あと二十日。しなない範囲で、がんばろう。



(すみません、オチはこれといってないです! グワーッ!!)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

無菌室三畳間、インフラ完備。 伊草いずく @Igusa_Izuku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ