ラベンダー色の魔法

秋色

ラベンダー色の魔法

 ――そう、眠れなくってよく夢をみるんです。悪夢……かな。眼の前で誰も乗っていない車がゆっくりと進んで、誰かブレーキをかけ忘れたのかな、と思う間もなく川に落ちていく、とか。あるいは友達と一緒に山登りに出掛けたのに、いつの間にか友達の姿を見失って、途中の休憩所にもいないし、帰り道にもいなくて、何処へ行ってしまったんだろうと途方に暮れる夢とか――


 僕は診察室と外の廊下を隔てているスライド式の扉を見つめた。

 さっき、診察の前に、担当医師が少しだけこの扉を開けた。その時、ラベンダー色のセーターの端っこが見えた。不眠症の僕を心配し、付き添ってきてくれた、僕の大切な人、菜実がそこに座って待っている。





 ――最近忘れやすくなったり、集中力に欠けてはいないか、ですか? それはないですね。むしろ、変に記憶が残っているんです。記憶力が良すぎるってよく言われます。

 でも一つだけ気になる事があって……。最近それが夢に出てきたんです。悪夢をみるようになったのは、その後からかもしれません。


 あれは五才の時でした。クリスマス前に、家族でショッピングに出かけて、僕は浮かれていたんだと思います。父と母の背中を見ながらはしゃいで歩いていました。それが、途中からなぜか二人は五才の僕を置いて、さっさと先を歩き出したんです。あの頃、妹はまだ生まれたばかりで。僕達が出かけている間は祖母が妹の面倒をみていました。だから家族と言っても両親との三人だけ。


 僕は置いてきぼりにならないよう、必死で両親の背中を追いかけるのになかなか追いつかなくて。


 お気に入りのダークグレーのコートを着た父の後ろ姿と、ピンクベージュのコートを着て髪を髪飾りで綺麗に巻き込んだ母の後ろ姿が向こうに見えてるんです。あのコートのピンクベージュは、子どもの頃の僕が好きな色でした。二人に追いつこうと僕はいつの間にか息を切らしてて。二人はそんな僕の様子に気が付いているはずなのに知らんぷりをして、足を速めている気がしました。


 その時、後ろから声をかけられたんです。夫婦と思われる二人がいました。


「シュン君、急に走り出してどうしたの?」女の人の方が言いました。


「いきなり走り出したりするからビックリして、後を追いかけてたんだよ」今度は男の人の方が言います。


 僕はその間にも、前を歩く両親との距離がどんどん開く事を考え、絶望的な気持ちになっていました。

 でも話しかけてきた夫婦も僕の知り合いで間違いない、と言うとおかしな感じなんですが、こちらも自分の家族だと分かっているんです。こちらの夫婦は、スーパーの二階で買ったような安いセーターとコートを着た女の人と体には小さいようなコートを身にまとった男の人。二人とも人が良さそうで、そしておそらくお父さんとお母さんだと。

 すごく混乱し、一時は怖かった経験です。

 たまに考えてました。僕は赤ん坊の時にすり替えられて、あの時はぐれた夫婦に育てられていたのではないかと。

 それで本当の親の元へ戻すため、年末の人混みを利用したんじゃないかと。……なんて馬鹿な妄想です。でもホント、探偵でもいたら、解決してほしいと思っている出来事なんです――


――え? どちらの親に似ていると感じるか、ですか? それはもちろん今の親ですね。父によく似てきたと自分でも思うし、口元は母親似だとよく言われます。まぁ、たまに考えますけど。トンビがタカを産んだ、みたいな事ってないかなって。そうしたら実は凄い所の子だったのかもって夢をみられる……。いや、冗談です。僕は親から愛されて育ちました。感謝しているし、不満なんてありません。今は独り暮らしで、親とはラインのやり取りばかりであまり会う事もないですが――




 ――生活の変化、ですか? 良い方向にはありました。希望の職種に再就職できましたし、やりがいもあります。付き合っている女性もいます。ただ、悪い夢をみてうなされたり、その後は眠れなくなるから、最近は昼間でも頭痛がしたり、気だるくて――




 中年に差し掛かっている精神科医の胸元には、鏡という名札が見える。優しく、繊細そうにパソコンのキーボードで何か打ち付けている。


 鏡先生は言った。

 ――心配ありませんよ。環境の変化で、今は一時的に、気持ちが高揚しているだけです。すぐに落ち着くでしょう。念のため睡眠導入薬を出しましょう――



 ――そう……ですか?――



 ――はい。頭痛の件を聞いていたので、CTも撮りましたが、何の異常もありませんでした――


 それでも疑わし気な自分がいた。それが表情に出ていたんだと思う。


 ――何も無いと聞いて満足できないのは、健康な証拠ですよ。今日はお休みをとって来られたんでしたね。その上、ずいぶん診察まで順番を待たれたようですね。では一つ、さっきの謎解きをしてみましょう――


 ――え?――



 ――さっきの、「探偵でもいたら」というお話です。クリスマスシーズンに雑踏を歩いていて、親とはぐれたという話。あれは、子ども独特の想像力が生み出すものです。子どもだけではありませんが。子どもの頃には、他所の家庭を見て、羨ましく感じたりするものです。特に弟や妹が生まれてすぐだと親の関心がそちらにばかりいくので、寂しさから色々な空想を広げる子どもはいるんですよ――


 ――あれが空想だったとは思えません。 とてもリアルに場面を憶えていて、空想というのはあり得ないんですけど――


 ――全て頭の中で作り上げた事ではないんです。街の雑踏の中で理想的な夫婦を見つけ、『こんな人達がもし自分の親で、放ったらかしでなく大切にしてもらえたら』と思う、それがきっかけです。

 例えば、好きな色がきっかけになります。 

 さっきの話の前を歩く夫婦の着ていたコートの色は、貴方の好きな色だったでしょう?――


 ――そう。ダークグレーもピンクベージュのようなパステルカラーも、ずっと僕の好きな色です――



 ――そういう好きな色が目に飛び込んで、一瞬のうちに様々な空想が広がり、それがある種の記憶となって、自分の記憶が保管されている脳の倉庫に混ざり合ってしまう事があるんです。脳の倉庫とは、思い出の倉庫のようなものですね。すると、その人達か親と思えてしまうんです。夢の中でよくありませんか? 夢の中で長く親交のある人と行動していたのに、朝、目が覚めると、そんな知り合いはいなかったとか――


 ――え? それではやっぱり自分の頭の中で考えた事なんでしょうか? 僕は時々考えていたんですよ。あのままついて行ってたらどうなっただろうって――


 ――別にどうにもならないですよ。所詮、他人なので。その夫婦に他所の子を誘拐するような犯罪の意思がない限りはね――


 ふぅと僕は溜息をついた。ビー玉の中に閉じ込めていたような夢の一つが消えた気がした。


 もちろん夢のようなものだとは感じていた。大学に行くため上京するという僕を新幹線の駅まで送りに来た両親の姿を憶えている。こっちが現実だ。相変わらず安っぽいセーターとコートを着ていたし。そしてうっすら涙ぐんでいた。もう都会から戻って来ないと薄々分かっていたからだと思う。




 ――それが探偵の答えなんですね。子どもの時にはそんな事があるんですね――



 ――そうです。子どもの時だけでなく、大人でもたまにありますよ。それから、人は大切なものが出来ると、不安になるものです。

 好きな仕事についたり、好きな人と付き合ったり、それ自体は幸せな事ですが、逆に不安も大きくなるので。とにかく貴方を悩ませている不安については、とっておきの処方せんを出しておきましょう。それは……――



 ****



 僕は診察室を出た。眼に飛び込んだ色の見せた幻か。でも子どもを後にして前をどんどん歩きだすような人達が親でなくて良かった。

 ただあの先生は言っていた。子どもの時だけでなく、大人になってもそんな空想が記憶の倉庫に飛び込む事はあると。

 もしそうなら今でも色に、そんな魔法の力があるのだろうか?

 ふと前に、ラベンダー色のセーターの背中が見えた。


 ――あれは菜実?――


 病院のホールの中、追いかけて、「待って」と声をかけるけど、聞こえなかったように前を早足で歩いていく。走って近付き、「ちょっと……」と声をかけると、振り向いた顔は怪訝そうに僕を見る知らない顔だった。

「な……み……」


 いや、違う。これは菜実なんかでないはず。菜実はこんな顔をしていない。こんな表情で僕を見たりするはずがない。

 それとも菜実も、そのセーターのラベンダー色を見たせいで僕が頭の中で作り上げたキャラだったのか。

 僕は眼の前が真っ暗になるのを感じた。


 その時、後ろから声がした。


「瞬、どうしたん? 私ならここだよ」


「お、菜実。お前、本物? リアル? 前、歩いてたの、お前じゃないよな。シャネルのバッグなんて持ってるわけないし」


「瞬、本当にどうかしたん? 不眠だけって言っとったのに」


「いいや。いいんだ。良かった。本物で」


「わけ分からん。前を歩いてるのが私なわけないっしょ? ずっと後ろから心配して見てたんだよ」


「ん、知ってる。ごめん」


 そうだ。どんなに込み入ったクリスマスのテーマパークでも、その薄茶色の瞳は僕を見つめているから。




 僕はさっきの先生のとっておきの処方せんの言葉を思い出していた。


「大切なものを失うのが怖い時は、大切なものをとことん大切にしてみると効果ある」という手書きの処方せん。


 僕達は、病院の会計を済ますと、冬の陽の差す舗道へと出た。


「そうだ。今年の正月休み、ウチの実家に来ない? 親が楽しみにしてるんだ。大して気、使うような家じゃないよ。庶民的なボロ家なんで」僕は菜実を誘う。


「本当に?」


「じゃ、計画立てよう。まずはあの公園のキッチンカーでドーナツとコーヒーを買ってから」


 僕は早くベンチに腰掛けたかった。リアルな菜実の横顔を観ていたかったから。そして頭の中の記憶の倉庫を今の瞬間でいっぱいにしたかったから。何も入り込む隙がないくらいに。




〈Fin〉

       

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