第9話:部屋の中

 ガチャン。とドアの重い音と共に、やや暗い部屋が見えてくる。シースルーカーテンが奥の方に見えるが、泥のようなものが付着していて、どこかおぞましい。玄関の壁伝いに電気を点けて、部屋全体をよく見回す。香澄さんとその友人が入った時、彼女等は、やはり起きてしまった怪奇現象に慌てていて、部屋を掻き回す様に物を引っ付かんで出ていったと言うから…。これは多分そのせいでもあるんだろうが、それでもなかなかの荒れっぷりだ。写真立てに置物、それから本まで…散乱し放題だ。

 派手に汚れたカーテンに近付いて見てみれば、付着したそれは乾ききっていた。カーテンの下にしゃがみこみ、その裾にこびりついた汚れに指を滑らせる。カーテンを固くさせているそれは、力を入れれば簡単に崩れて、床にその片鱗である粉が落ちる。香澄さんがこのアパートを出ていってから数日は経っているので、乾いていても仕方ないだろう。……でも、乾いて数日経っていても尚残る強烈な異臭。これは…。


「うわっ……酷い臭い。それって、ただの泥かな。」


 兄も疑問に思ったようで、懐疑的に細められたその切れ長の目は、余計に鋭くなっている。カーテンの裾から手を離して立ち上がった私は、兄のその言葉に首を横に振った。あくまでも推測の域でしかないが、兄はこの謎の付着物の正体に見当がついている。そして私もそうだ。香澄さんだって、この臭いが腐敗臭だとは知りたくないだろう。そしてその正体も。


 膝についた汚れを払い落とし、踵を返そうとする。と、リビングの照明が不規則に点滅し始めた。…これは、どうやら香澄さんじゃなくこの部屋に憑いているということで確定らしい。私の姿を映していたテレビの画面が、砂嵐に覆われる。カラーバーと砂嵐を何度も映し出す。忙しなく移り変わる画面に、だんだん滲むように女のシルエットが浮き出る。パキリ、と音が聞こえてきそうな程首を横に勢いよく曲げたそれが、人間でない事は一目瞭然であり、長い前髪が横に垂れる事でやっと見えた目は、洞穴を覗き込んだように暗かった。

 普段から人ならざるモノ達を見慣れている私なら良いが、香澄さんが見たら本当に気絶してしまうかもしれない。まず私と兄で入っていて良かった。しかし、今事を解決しようとするには分が悪い。私がこの部屋に入ってから30分経って、不審に思った香澄さんが入ってきた場合、彼女の身にどんな弊害があるか…。到底分かったものではない。なのでここは相手を押さえつけて一時的に鎮める方がいいだろう。香澄さんに一言断りを入れてから、腰を据えてこの怪奇現象に向き合いたい。

 しかしそんな私の心情を知ってか知らずか、テレビに現れた女は、言葉を発して私をこの場に縛り付けようとする。


『逃がすまい…。決して、逃がしてなるものか…!』


 女のかさついてひび割れた唇から、唸る様に絞り出された嗄れ声。

 この女の様に強い念でこの世に残り続けている霊の言葉には、生前の言霊適正に関わらず言霊と化す。魂の器である肉体が無く、魂の持つ強い念が、じかに言葉に込められているからだろう、と私は推測している。言霊を使うにあたって、理性や思考をもってして感情を御そうとする脳は、強い念をも書き消そうとするので、邪魔でしかないのだ。

 つまり。肉体を持っていないであろうこの女の霊の言葉というのは一言一言、その息遣いでさえも一般人を瀕死に追いやる可能性があるということだ。

 女の霊には、今はどうやら理性もとい正常な思考判断能力が無いようで、考え無しに呪詛をブツブツと振り撒いている。だが、言霊の適性に関してはピカイチの私だ。例えそれが剥き出しの魂であったとしても、遅れを取ることはない。言霊の力を受けた際、言霊の適性力が高ければ高いほど言霊の影響を受けにくい。私は高い適性力を持つので、幾ら画面越しに霊が言霊を垂れ流しても、私はビクともしない。……嘘、ほんの少しはやっぱり効く。ただぼーっと突っ立ってなにもしていないのでは、完全に言霊を無効化出来やしないのだ。


『なんデ?何、でアた、アタシシが、が…逃がさない、オマえは今度こそ逃がさない、見つけるまで』


 逃がさない、引きずり込んでやる、と怨み辛みを隠さずに垂れ流される言霊で、肌がピリつく。女があれほど刺々しい言葉を言霊と共に吐き出しているのに、止めることをしない私を兄が怪訝に思い、そしてこちらをみて「一旦外に出るんじゃないの?こんなの早く押さえつけて、外に出よう。依頼主待ってるんでしょ?」と言っている。そうだね、と頷いて、息を吸う。


『――――黙れ。』


 女の恨み言は止み、代わりに痛いくらいの沈黙が訪れる。女は、口を動かそうとも喉から声が出ないことに驚きを隠せないようだ。


『ァ……ァ゛』


 どれだけ強く息を吐き出そうとも小さな母音しか出ないことに、焦燥を隠さずいるようで、分かりやすく慌てふためいている。


「……私の言霊の力に貴女は負けた。話は次来た時に聞いてあげるから、今は『黙ってそこから立ち去りなさい』。せいぜい頭を冷やして、次を待っていることね。」


 私の言霊に女は抗いきれず、テレビから姿を消した。しかし次私が来る頃、つまり明日にはまたテレビに映るようになっているだろう。


「彼女、完全に理性が無いという様には見えなかったね。」


 兄の言葉に頷く。多分、女の言っていた『今度こそ逃がさない』というのは、香澄さんとその友人が来た時に、テレビの向こう側に引きずり込もうと現れたが、引きずり込む前に逃げられてしまったということだろう。

 しかし、幾つか疑問点はある。例えば、腐敗臭のするものがカーテンに付着しているとか。カーテンからテレビまでは若干の距離があるが、テレビから出て自由に行動できるのか?部屋だって、香澄さんとその友人が荒らしてしまっただけでは説明がつかない程の、散々な荒れっぷりだ。霊が荒らしたとしか考えられない。

 兄にその事を伝えれば、兄は顎に手を当てて考える素振りをし始めた。やがて考えが纏まったのか、口を開く。


「多分だけど、彼女はテレビから出てはいない。というか出られない。しかし、依頼主とその友人を引きずり込むのに失敗してしまったから、余程苛ついていたんじゃないか?それで、八つ当たりをしたらその力が存外、テレビの外にまで及んでしまった…、とかね。

 僕だってあの女と同じ、幽霊とほぼ同義の存在だ。僕の力が現世にも影響を及ぼす限り、彼女の力が影響を及ぼさないとは言えない。」


 そう締めくくった兄の言葉も一理あるな、と私は思った。


「あぁそうだ、それからもう一つ。」


 ついでだと言わんばかりに追加で喋り始めた兄を見やると、兄はこちらを見ながら左の人差し指を立てて「アドバイスだ。」と軽やかに言った。


「琴凛は、依頼主かこの部屋のどちらかにあの女の霊が憑いている、と考えているけど…。他にも候補はあるんじゃないか?」


 いまいち話が掴めないな、とふと思う。


「……候補、というと?」

「例えば、そこに置いてあるリュックとか。そういった"モノ"に着目しても良いんじゃないかな。」


 モノに想いは籠りやすい。と言う兄の話で、付喪神というのを思い出した。モノに込められた想いはやがて永い年月と絡み合った思いによって、形を成すという。だからきっと兄の言うアドバイスも、案外間違いじゃないな。と思った。

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