第3話 チェンジ ザ ワールド







「今朝、宮脇を見たんだけどよ」


マサが振り返って大袈裟に手を広げて言う。

私は宮脇と言われてピンと来なかったのだけど、どうやら数日前に私が…、樹が頭突きして気絶させた不良の事だったみたい。


そんな名前だっけ…。


私は表情を変えずにマサの話を聞く事にした。


「鼻にガーゼ貼っててよ」


そこまで言うと声を上げて笑った。

そんな事が声を上げて笑う程の事かと少し考えてしまった。


「大袈裟だっちゅうの」


今度は全員で声を上げて笑っていた。


「でもよ、聞いた話じゃ前歯二本いっちゃったみたいでよ」


今度はヒロが言う。

ようやく、ヒロとコウジの事を覚えた。

眉毛を細く揃えてるのがヒロで、爪を噛む癖のある背の高い方がコウジ。


「おぉ…。それは酷いな」


ヨースケが笑いながら言った事でまた皆が声を上げて笑う。


アレで前歯抜けちゃったんだ…。

何か悪い事したな…。


私は俯いて、眉を寄せる。


「まあ、これでしばらくは手出して来ないだろ」


コウジは親指の爪を噛みながら笑ってた。


あれから数日。今日はもう週末で、やっと樹として振る舞える基礎が身に着いた感じ。

他人を生きるって簡単じゃない事が身に染みてわかった。


それから、サクラ。私じゃない方の…。

告白されたのは良いんだけど、毎日駅前で待ってて、それが気になって早くに帰ってしまう。

流石に昨日は、「明日はダチと遊んで帰るから」って言ってしまった。

少し寂しそうだったけど、この寒空の下、何時間も待たせるのも忍びないし。


とにかく、樹と入れ替わって数日。

私は本気で疲れている。

アイドルをやってた時と比べても、って言っても数日前までアイドルやってたんだけど…。

とにかく心も体もヘトヘトになってしまってる気がする。

今日は樹の母に頼んで何か元気の出るモノを食べさせてもらおうかしら。


「何か悪い事したな…宮脇には…」


私は小さな声で一言だけ言った。


「はぁ…」


ヨースケは吐き捨てる様に返してきた。


「相手は宮脇だぞ。そんな罪悪感なんて持つ必要ないぜ。どうせすぐ絡んで来るんだからよ」


「そうだよ。あんなクズは歯くらいで済んで、良かったんじゃないの」


ヒロがポケットに手を入れたまま目の前で跳ねながら言った。


私は口を堅く閉じて何度か頷き、


「でもアイツにも家族とかいるんだろうし、もしかしたら彼女とかも…」


私の言葉をコウジが遮る。


「あんなゴリラみたいな奴に彼女とかいる訳ないだろう。お父さんゴリラもお母さんゴリラもアイツが大人しい間は安らげるんじゃないの」


コウジは独特な笑い方をしていた。


「まあいいや…。お前らがそこまで言うんなら…」


私はそこで言葉を止めた。


不良なんてやった事も無いし、もちろん女として育って来た訳だし。

喧嘩する男子を理解した事も無いし、出来るとも思わなかった。

男と女の違う所なのかもしれない。

人を殴るって積み重なったモノが爆発するのかと思ってた。

けど、瞬間湯沸かし器みたいに少しの憎しみに似たモノを増長させて、暴力に変える。

男ってそれが出来る生き物なんだと思った。

女にはなかなかそれは無い。


「それよりさ…。期末テスト…どうする」


先頭を歩いていたマサが突然そんな事を言い出す。


「おいおい。せっかく忘れてたのによ…」


忘れてどうする…。


「中間テストは俺の勝ちだったからな。今回も俺がぶっちぎってやるぜ」


ヨースケは意味も無く拳を振り上げていた。


「まあ、今回もタツキがブービーメーカーって奴だろ」


ブービーメーカーって確か…。


「そうだっけ…」


私は眉を寄せて皆を見る。

確かも机の中に隠されていた答案用紙の点数は悲惨なモノだったけど…。


「俺は百点超えたしな」


ヨースケは自慢げに親指で自分を差している。


「俺は九十八点だったな」


コウジもニコニコしながら言った。


ヒロは七十二点でマサは六十五点。


って何の点数…。


「今回も五教科勝負な。負けたらファミレスおごれよ」


とヨースケが私の背中を叩く。


「試験勉強せずにバイトしてた方が良くね」


もしかすると皆の言う点数は五教科のトータル…。

コイツら本当に馬鹿なの…。






親の手前って事で、テスト前はとりあえず皆、遊ばすに帰る様で、私も帰る事にした。

駅を降りると自販機で缶コーヒーを買った。

あの日以来ブラックコーヒーをここで買って飲んでいる。


缶コーヒーを飲みながら歩いていると、サクラと話す公園から声がした。


「何とか言えよ」


「金、持ってるんだろ」


「さっさと出して帰って勉強した方が良いだろ」


私は声の先を見る。

三人の女子中学生にサクラが囲まれて立っていた。


サクラ…。


私はゆっくりと公園に入って行った。

そしてゆっくりと近付くと、


「何やってんだ、お前ら」


と声を掛けた。

その声に三人の女子中学生はビクリと体を震わせて驚いていた。


「う、う、上村先輩」


どうやら女子中学生たちは樹の事を知っているらしく、直立して私を見ていた。


「お前ら中坊の分際で高校生、カツアゲしてんの…」


私はゆっくりとサクラの横のベンチに座って缶コーヒーを飲んだ。


「あ、いや…あの…」


女子中学生はタジタジになり、俯いている。


「大丈夫だったか」


私はサクラに訊いた。

サクラは小さく頷く。


「コイツは俺のダチだ。今度コイツに絡んだら、女でも容赦しねぇからな」


私は缶コーヒーを飲み干して言った。


「は、はい」


三人は声を揃えて返事をした。


「わかったら行け」


私の言葉に逃げる様に三人は走り出した。

その背中、


「おい」


と私は声を掛けた。

三人はまたビクリとして足を止め振り返った。

私がその三人に手招きをすると、恐る恐る戻って来た。


「はい…」


リーダー格らしき女子中学生が私の目も見ずに返事をする。

私は手に持った空き缶をそのリーダー格の中学生に渡した。


「悪いけど、捨てておいてくれ」


女子中学生たちはホッとしたのか、息を漏らした。

私はポケットに入ってた百円玉を取り出し、そのリーダー格の女子中学生に渡した。


「これ、お駄賃ね…。三人で肉まんでも食べな…。腹減ってると碌な事考えないからな」


三人はペコペコ頭を提げながら公園を出て行った。


三人が見えなくなるとサクラは崩れる様に冷えたベンチに座った。


「大丈夫か…」


私が訊くと、サクラは小さく頷いたが、その体は震えていた。

相当怖かったのだろう。


待つなと言っても待ってしまう。

そんな気持ちも私は理解出来た。

勿論、毎日逢っても話なんてある訳も無く、無言で二人でこのベンチに座っている事もある。

だけど、此処で樹を待たなければ、不良女子中学生に絡まれる事も無かったのだから…。


「お金、渡しちゃおうかと思った…」


サクラは小さな声で言う。

私は微笑んで、


「渡したら、サクラを見付ける度にまた絡んで来る。何て言うか…、アイツらのためにならない」


「けど、上村君、渡してたじゃない…」


サクラの声は小さく、聞き取るのがやっとだった。


「百円な」


サクラは顔を上げた。


「百円で肉まん食べろって言ったの」


え、そこに食いつくの…。


「百円って買えても一個しか買えないよ」


私は笑った。

そして、


「一個で良いんだよ。三人で百二十度ずつ分けて食う。それが最高に美味い肉まんなんだよ」


私の言葉にサクラはクスクスと笑っていた。


結局、サクラは来るなと言っても此処で待っている。

私は「待ってる時は連絡しろ」と言ってその日は別れた。






男も大変だという事は身に染みてわかった。

今日もまた家に帰ると疲れていて、制服のままベッドに横になった。

そしてそのまま眠ってしまっていた様だった。


暗い部屋の中でスマホの画面が光っている事に気付き目を覚ます。


メールが届いていた。


水島桜子からのメール。

メールなんて珍しい…。

私はゆっくりと体を起こし、メールを見る。


「今晩のSSSを見る事」


それだけが書かれていた。

SSSとはスーパーサウンドステーションという人気の歌番組だった。


「いつか出たいね」


とカナハミの皆で話していた。


もしかして出るの…。


私は部屋の明かりを点けて、制服を脱いだ。


服を着ていると、階段を駆け上って来る足音がして、いきなりドアが開いた。


「お兄ちゃん、今日のSSSにカナハミが出るよ」


奏美は嬉しそうに大声で言う。


「奏美…。ノックくらいしろよ」


私は服を着ながら奏美に言う。


「だってだって」


本当に嬉しそうな奏美に私は微笑む。


「わかったから」


私は奏美の肩をポンポンと叩いて、


「ちゃんと録画しとけよ。最初で最後かもしれないからな」


と言った。






樹と入れ替わってから、私の食べる量も樹の量になった。

母が「試験勉強するのに体力付けなさい」とロースカツを山盛り揚げていた。

そのカツの量を見て、顔を引き攣らせたが、結構な量を食べてしまった。

おかげでそのままリビングのソファに横になり動けない始末。

デザートにリンゴを食べるかとの問いにNOの返事を出して、私はテレビを見ていた。

奏美はリンゴを美味しそうに食べながら、五十インチのテレビの前に座っている。


大きなテレビは樹の父の意向らしい。


「テレビは大きい方が良いんだ」


と言って五十インチのテレビを買ったらしく、そんなに広くないリビングでは少ししんどい大きさだったりする。


SSSが始まるのを待っているとスマホにメールが届いた。


水島桜子からのメール。


何でメールなんてしてくるんだろう。


私はメールを開く。


「少し細工するから楽しんでもらえると思うよ」


また不可解なメールを…。


私はソファで横になったまま、SSSが始まるのを待った。

奏美は流れるCMの曲を口遊んで嬉しそうだった。

それはそうだろう。

カナハミがこんな本格的な歌番組に出るなんてありえない話で、深夜のアイドル紹介番組が精一杯だった。


急になんでこんな事になってるんだろうか…。


私は不思議に思いながらメールを見ていた。

周囲に認められる功績も残してないし、変わった事なんて何も…、ん…、変わった事…。

そう、変わった事と言えば、樹が私になり、私が樹になった事くらいだ。


樹が何かしたのかしら…。


私はスマホを投げ出して、ソファに座った。


時間になりSSSのオープニングが始まった。

いつもの様に出演するアーティストたちが順番に登場し、紹介されている。

カナハミ、カナリアンハミングが登場し、スポットライトの中、階段を下りて来る。

奏美は声を上げて手を叩いて喜んでいた。


テレビの中の私はニコニコと微笑みながらアイドルらしくカメラに向かって手を振っていた。


これ、樹なんだよね…。


私だけが液晶画面の向こうのカナハミのサクラが男子高校生だと知っている。

それを考えると複雑な気分だった。


細工って何だろう…。


私はそれだけを考えながら大きすぎるテレビを見つめていた。


「お兄ちゃん、サクラだよ、サクラ」


奏美は嬉しそうに画面を指差していた。


はいはい。

けど、このサクラはあなたのお兄ちゃんなんだよ…。


私は顔を引き攣らせて心の中でそう言う。


歌番組は生放送。

何故か昔からそうみたいで、このSSSも生放送。

多分、ミナトスタジオでやっている。

そんな事は知っていても、出してもらえる事は無かった。

生放送だけにハプニングも付き物だけど、樹がどんな細工をしようとしているのか、見当もつかない。


映画の主題歌になっている既に売れている曲を歌うバンドが最初。

ド派手な演出の中で一曲目が始まった。

人気もあり、クリーンなイメージのバンドで、敵も居なさそうに見える。

だけど本当は違ってて、あまり感じの良い人たちじゃない事は業界でも有名な話。

学生時代の友人って人がマネージャーみたいな事をやっているけど、直ぐにお金の話になるってカナハミのマネージャーの伊山部長が言っていた。

まあ、あの部長の言う事も何処迄本当かって話になるけど。

ただ、前室に挨拶に言ったら、この上なく軽くあしらわれたのは事実。

だから私はあまり好きじゃないバンド。


CDとは違い、少し声量が微妙な感じで一曲目のバンドの歌は終わった。


やっぱり生放送だと、この辺は隠せないね…。


私はソファを立ち、冷蔵庫からアイスコーヒーを出し、グラスに注いで、戻って来た。


二曲目は女性のアーティスト。

この曲もドラマのエンディング。

タイアップ曲が売れるのは当たり前で、どうしても人の耳に入る機会は多くなる。

伊山部長もタイアップが欲しいといつも言っていた。


私はアイスコーヒーをブラックのまま飲む。

父が毎朝飲んでいるコーヒーみたいだけど、最近は私も頂いている。

樹も飲んでたのだろう。

誰も何も言わない。


二曲目が終わり、画面が暗くなる。

三曲目は歌が先でインタビューは歌の後というパターンみたい。


私はアイスコーヒーのグラスをソファの脇のテーブルに置いて、肘置きに肘を突いた。


「何かトラブルかなぁ…」


奏美が一向に明るくならない画面を見て言った。


確かにおかしい…。

耳を澄ますと慌ただしく走り回っている様な音を時折拾っている。

何があったんだろう…。


私は画面の向こうを睨み付ける様に見た。


その時だった。暗いままの画面の中からアカペラで歌う声が聞こえて来た。


私の声…。


私は息を飲んで画面を見つめた。

しかもその歌は先日レコーディングした曲では無い。

カナハミのメンバーとカラオケに行った時に私が歌って、他のメンバーに教えた九十年代の歌だった。

その歌をスローなテンポでバラード調にアレンジして歌っている。

そして私の声に重なり、リョウの声、続いてミカコの声、そしてサチコの声が上手くハモっている。


スポットライトが点き、カナハミのステージが照らされた。


何…。

樹の言っていた細工ってコレの事…。


奏美は胸の前で手を組んで息をするのも忘れて聴き惚れていた。


アカペラで上手く振りまでつけてカナハミの四人は仕上げていた。


何、これ…。

格好良いじゃん…。


アカペラなのに、綺麗に澄んだメロディーも聴こえて来る様だった。


勿論カナハミの持ち歌には無いイメージで、少し妖艶な曲に聴こえた。

ライトのアレンジもそれに調和していて、カバー曲だと思えない出来だった。

そしてコレを許可したプロデューサーも凄い。


最後の大サビのフレーズを樹は止め、マイクがその音を拾う様に大きく息を飲んだ。

そして再び震える声で大サビを一気に歌い切る。


そして、ステージを照らすライトは暗転した。

その瞬間、カメラは雛壇へと切り替えられた。


静まり返った雛壇が映る。

言葉を失ったアーティストたち全員が暗転したステージをじっと見つめていた。

まだ何かあるのでは無いかという期待の眼差しの様だった。


一人のアーティストが拍手を始めた。

そしてそのアーティストに引っ張られる様に拍手が始まり、大きな波の様な拍手が沸き上がった。


これが樹なの…。


私も気が付けば立ち上がっていた。

テレビの前に座っていた奏美も力一杯拍手をしながら立ち上がる。


「お兄ちゃん、これ、何て曲なの…」


奏美が画面を見たまま私に訊いていた。

だけど、私は、そのまま走り出した。


「ちょっと出掛けて来る」


私は誰に言うでも無く叫ぶと、玄関を飛び出した。

そしてガレージに停めてある自転車を引っ張り出すと走り出した。


自転車は歪な音を立てながら二つの車輪を回転させ、暗い夜のアスファルトの上を進んで行く。


震えた。


アレを樹が意図的に仕組んだのであれば、樹は天才なのかもしれない。

見せ方を感覚的に知ってるのだろう。


私は樹に会わなきゃいけない。


何故かそんな気持ちになった。


私も歌いたい…。


呼吸をするのも忘れて私は自転車のペダルを踏む。

吐く息が白い。

足が冷たい。

でも樹に会わなきゃいけない。


樹が見せてくれた映像。

私がなりたい自分がそこにあった。


「カバーなんて誰でも歌える」


そんな事を言っている歌手がいた。

歌うだけなら確かに誰でも歌える。

だけど、人の曲を歌い、人にその曲の真意を伝える。

そんな事は誰にでも出来る事じゃない。

そして、それを乗り越えてこそ、人の心を震わせる事の出来る曲になる。

今の私にはわかる。

樹が教えてくれた。


私は走った。

とにかく樹にあの曲を歌った真意を訊きたい。

ヘッドライトに照らされながら、ペダルを踏み込む。

冷たい風の中、私の額には汗が流れ始める。


樹…。

教えて…。

あなたに有って、私に無いモノは何なの…。

 





もう二時間近く走った。


私はミナトスタジオに向かって自転車を走らせていた。

だけど、体力の限界なのかもしれない。

ペダルを踏み込む力は弱くなり、ただフラフラとアスファルトの上を転がっている様だった。


もう番組は終わり、撤収しているだろう。


私は、倒れ込む様に自転車を降り、縁石に座り込んだ。


ダメ…。

もう無理…。


私は樹の体の限界を感じた。

数秒で目を閉じてしまう気がして怖かった。


ポケットに捻じ込んだスマホを見る。


水島桜子からメールが届いていた。


私は慌ててメールを開いた。


「ちゃんと見てくれた。あなたがやりたかった事ってコレだよね」


そんなメールが滲んで見える。


「樹…」


私は声に出してそう言った。

涙が頬を伝うのがわかり、それをシャツの袖で拭いた。


スマホでニュースサイトを見るとカナハミの話題が幾つもニュースになっていて、大騒ぎだった。


「樹…」


私は近くに見えた風景を写真に撮り、樹にメールした。

そしてそのまま目を閉じた。







「樹…、起きて…、樹…」


そんな声で私は目を覚ました。

私を覗き込む私の顔がそこにはあった。


私は驚き、勢い良く体を起こした。


街の喧騒。

排気ガスの臭い。

街灯の灯り。


「何やってんのよ」


私は私にそう言った。


「風邪ひいちゃうよ」


屋外の撮影の時に使ってたベンチコートが私に掛けられていた。


「樹…」


私はサクラにそう言った。


サクラは微笑み、私の前にしゃがみ込んだ。


「こんな所まで来たのね…。流石は樹…。体力あるわ」


私の姿をした樹はクスクス笑いながら言う。


私は我に返り、倒れた自転車を見た。

タイヤはパンクし、車輪は歪んでいた。

それを樹も見ていた。


「これじゃ走れないよ…。ほらタクシーで送るから立って…」


樹はそう言うと手を差し出す。


私は躊躇いながら樹の手を掴んだ。

その時気が付いたが、もう立つのも精一杯で、両足の筋肉が痙攣している事に気付く。


入れ替わって以来、樹と会うのは初めてだった。


「立てる…」


樹は心配そうに私を覗き込む。

私は小さく頷き、傍にあった道路標識のポールに手を突いた。

凍っているかの様な冷たさで、その差す様な温度が掌に直に伝わって来る。


「樹…」


私は小さな声で樹を呼んだ。


訊きたい事が山程ある。


私の姿をした樹が滲んで見える事に気付いた。

止めどなく涙が溢れ出る。


樹は手を上げてタクシーを止めた。

ハザードを出して止まったタクシーはドアを開ける。


「ちょっと待って」


樹は私とタクシーの運転手に言うと、大声で黒いボックス車の傍に立つマネージャーの伊山部長を呼んだ。


「この自転車、修理に出しといて…。私はこの子送って来るから」


樹の言葉に伊山部長は「はい」と答えて、拉げた自転車を押して行った。


サクラのいう事をあの伊山部長が聞くなんて…。


私は先に乗り込んだ樹の後にタクシーに乗った。

それと同時にドアは閉まり、タクシーは走り出す。

すれ違うボックス車の窓からリョウ、ミカコ、サチコの顔が見えた。

まだ数日しか経っていないのに、何処か懐かしさを覚えた。

私はその顔を目で追いながら、流れる車窓を見送った。


大きく息を吐くと、樹を見た。


「何か、凄い事になってるよね」


「うん」


樹は頷き、手に持ったスマホの画面を私に見せた。


「原曲のアクセス数が凄いって」


私はそれを見て笑った。


「直前にさ、マイク以外の機材の電源切ってやったのよ」


私はその言葉に笑った。


「無茶するね…」


私は窓の外に目をやった。


「でも、震えた。感動するって事を思い出した」


私は準備していた言葉のすべてを詰め込んでそう言った。


樹は微笑んで頬杖を突き、窓の外を見た。


「いずれはあなたがやるのよ…」


樹は窓の外を見たまま、呟く様に言った。


私は無言のまま強く頷いた。


「負けないわ。私も…」


私も車窓に視線を移してそう呟いた。


私が私に戻るのは今じゃない。


何故か、そんな気がした。







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