第11話 グラマラス スカイ





桜井はじっとサクラを見つめたまま、その視線を動かそうとはしなかった。

私だけがその二人の様子にピリピリした空気を感じていたのかもしれない。






今日は元旦。

そんな日からこんな張り詰めた空気を感じるなんて考えても見なかった。


今日はお昼から私は桜井遥と一緒に初詣に出掛けた。

だけど、樹…サクラに呼び出され、先輩バンドのドリキャのヘルプとして公会堂で演奏した。

遅れて来たサクラのヘルプのために、一緒にいた桜井がキーボードを弾いてくれた。


ややこしいんだけど、私はアイドルグループ、カナリアンハミングの水島桜子。

だけど、去年、ひょんな事で不良で金髪のお馬鹿な男子高校生の上村樹と入れ替わってしまった。

それから私は不良の男子高校生として生活し、樹はカナハミのサクラとしてカナハミを一躍有名なアイドルグループにしてしまった。

それどころか、今では「脱アイドル」なんて言われて、サクラ…樹か…、のプロデュース能力は世間を騒がせている。

八十年代の曲なんかをカバーする神出鬼没のバンドとして、ネット上でも騒がれて、今日の公会堂のライブも私たちを見に来た客で溢れていた。


その演奏の後、楽器を片付けていた時の出来事。







「サクラさんってタツキ君と付き合っているんですか」


突然、桜井遥は私の姿をした樹にそう訊いた。


「え…」


サクラは私をじっと見ている。


私に助けを求められても…。

ってか桜井遥と知り合ったのは私で、この場合、私の責任って事になるのか…。


「ちょ、ちょっとサクラ…」


私の言葉に二人のサクラが私の方を見る。


「タツキ君は黙ってて…。私はサクラさんに聞きたいの…」


桜井遥は強い口調で私に言う。


その様子に何事かとトオルと宮脇が私の傍に来た。


「どうしたんだよ…」


宮脇は私の顔を覗き込む様にして訊いた。


「ああ…」


私は何も答える事が出来ずに、黙ってしまった。


宮脇の陰でトオルがニヤニヤと笑っている。


トオルは宮脇と違って、私と樹が入れ替わっている事を知っている。

これが恋愛の拗れでない事は理解出来ている筈だった。


サクラは桜井遥の肩に手を載せた。


「桜井さん…。ちょっと時間ある…」


その言葉に頷いた桜井遥を連れてサクラは歩き出す。

そして振り返ると、


「後でアランに行くから…。アラン集合で」


そう言うと、会場から出て行った。


私は今まで感じた事の無い質量の不安を抱えながら、二人の背中を見送った。


「まあ、殺傷沙汰にはならないだろうからよ」


トオルはそう言うと私の肩を叩いた。


それはそうだろうけど…。


カナハミ専属の運転手が窓から顔を出す。


「そろそろ出しても良いですか」


そう言った。


トオルはその運転手に返事をして車のハッチバックのドアを閉め、車に乗り込む。


「ほら、タツキ…。行くぞ」


トオルは顔を出して、私に声を掛けた。

私は見えなくなったサクラと桜井遥の方を見ながら、車に乗り込んだ。






渋滞を抜けて、トオルの働く、バーアランに到着した頃には既に日は暮れて、静まり返った歓楽街で、アランの灯りだけがその路地を照らしていた。


「おかえり」


マスターは眼鏡をカウンターの上に置いて、ドアを開けた私たちにそう言った。


「元旦もやってるんですか…」


私は車から降ろしたウッドベースのケースを店の中に入れながらマスターに訊いた。

マスターは、


「バーって所はいつ来ても開いていて、飲みたい客を迎える。そうあるべきなんだよ」


そう言い微笑んでいた。


「勿論、今日は少し早く閉めようと思ってるけどね」


ステージの奥にある楽器を置いてある部屋から私はマスターに微笑んだ。


「寒かっただろう…」


マスターはカウンターで湯気を上げるポットを手に取り、棚のカップを取り並べるとそのお湯を注いだ。

そして手際よくココアをそのカップに入れるとお湯を注いだ。


急いでカウンターの中に入るトオルにマスターは、


「で、今日はどうだった…。上手く行ったか」


と訊く。

トオルは無言のまま頷くと、マスターに微笑む。

マスターもトオルに微笑むと、カウンターに座る私と宮脇におしぼりを出した。


「こう寒いと手も悴んで上手く動かない。プロでも厳しい天候だからね…」


私と宮脇、そしてトオルの前にもココアのカップが並んだ。


「そこのコルドンブルーを取ってくれ」


トオルは棚にあったブランデーの瓶を取り、マスターに渡す。

マスターは慣れた手つきでそのブランデーのコルクを開け、そのブランデーをココアに注いだ。

そして私たちに微笑む。


「正月くらいは良いだろう…。少し身体も暖まる」


私たちはココアから香るブランデーの香りに少し心が温まる気がした。


宮脇は嬉しそうにカップを引き寄せ、鼻を鳴らしながらその香りを吸い込んでいる。


「本来、紅茶なんかに入れるブランデーは香りを付けるためのモノだから、アルコールは飛ばしてしまうんだ。だけど、今日は寒いからね。少し温まるためにね…」


マスターはカウンターの隅に座りながら微笑んだ。


私は「戴きます」と小声で言ってそのココアを口にした。

甘味は無く、ただカカオの苦みとブランデーの香りがした。


「苦いだろ…」


トオルは私と宮脇の前にシュガーポットを置く。

宮脇は顔を顰めながらココアに砂糖を入れていた。


私も少しだけ砂糖を入れる事にした。


アランの店内には他の客も居なくて静かだった。

流石に元旦からバーに飲みに来る客はそうは居ない様だった。


「そう言えば、サクラ君はどうしたの…」


マスターはカウンターに伏せた文庫本を手に取りながら私たちに訊いた。


「後から来るって言ってました」


熱そうにココアをすすりながら、宮脇が答えた。

それにマスターは小さく頷き、文庫本に視線を落とす。


カランカランと入口のカウベルが鳴り、私たちは一斉に入口の方に目をやった。

そこにはサクラではなく、コートのフードを被った男が入って来た。


「ん…」


私はその人をじっと見た。

すると男はフードを取り、私たちの方を見て微笑んだ。

昨日此処で会った百井レンジだった。


「レンジさん…」


私は呟きながら立ち上がった。


レンジさんは軽く手を上げて私たちに微笑むと、私の隣の椅子を引いた。


近くで見るとレンジさんの口の端が切れて痣になっていた。


「どうしたんですか…」


レンジさんはその痣を指で隠す様に押さえると、


「ああ、シアンズマゼンダを抜ける話を昨日、メンバーにちゃんと伝えたんだ」


そう言い、指を二本出した。


「二発、餞別に強烈なやつをもらったよ」


レンジさんは苦笑してコートを脱いだ。


「マスター。俺にも彼らと同じモノを下さい」


マスターは立ち上がって、無言のまま、カップを出した。


「まあ、二発で済んで良かったけどね…」


私たちは無言で頷いた。


「無事、卒業出来たんですね…」


トオルはおしぼりをレンジさんの前に置いた。


レンジさんは首をゆっくり横に振り、


「事務所預かりって事になった。俺なんていなくてもあのバンドはもう大丈夫だと思うんだけどね…」


そう言うとレンジさんは私の方を向いた。


「それより、此処に来れば君たちに逢える気がしてね…」


トオルと宮脇も身体を寄せた。


「俺たちに逢いに…」


トオルは水の入ったグラスを出した。

レンジさんはコクリと頷く。

そしてポケットからタバコを出して咥える。


「昨日、此処で君たちとやって、それから心の震えが止まらないんだよ…。特別変わった事をしたつもりも無いし、昔、カラオケで歌った事のある程度の曲を歌っただけだったのに…。何でだろうな…。何故か、ワクワクしている自分が居るんだ。もっと君たちとやってみたい。そう思う自分が居て、それの気持ちを抑える事が出来ないんだよ…」


私は膝の上で手を握った。

それはサクラ…、樹の持つ力なのだろうか…。


「君たちは俺たちが忘れてしまったモノを持っている。音楽なんて、好きでやりたい曲を練習すれば誰でもある程度は形にする事が出来る。そしてもっと練習すれば、人前でそれをやる事も出来る。だけど、君たちみたいにそれを聴く人の心に直に伝える事は誰でも出来る事じゃないんだ」


レンジさんはタバコに火をつけた。


「シアンズマゼンダも最初はそうだった。聞いてくれる人の心に響く曲をやろうって決めて始めたんだ。だけど、それがいつしか、売れる曲ってモノに憑りつかれた様になって、ファンどころか、自分たちまで誤魔化してしまうバンドになっていた」


私たちは黙ったままレンジさんの言葉を聞いていた。


マスターがレンジさんの前にココアのカップを出し、ブランデーのボトルを手に取った。


「彼らのココアには今日は特別に、ブランデーを垂らしたが、どうする…」


マスターの言葉にレンジさんは微笑みながら頷いた。

すると察したかの様にマスターはレンジさんのカップにもブランデーを注いだ。


レンジさんはそれを見ながら煙を吐いた。


「君たちと俺…。一体何が違うのか…。それを確かめたくてね…」


レンジさんは私の顔を見て微笑んだ。


また入口のカウベルが鳴り、ドアが開く。

サクラと桜井遥が笑いながら店に入って来るのが見えた。


「ごめん、ごめん、遅くなった」


二人は入口の段を下りながら言った。


「あ、レンジさん」


サクラは私の横に座るレンジさんに気付き、頭を下げた。

どうやら樹と桜井遥は仲良くなれた様だった。


「昨日はどうも」


レンジさんはサクラ…、樹に頭を下げた。


マスターはまた立ち上がり、棚からカップを二つ出した。

二人はレンジさんの横に座った。


「レンジさんが一緒にやりたいって言ってるんだ」


トオルはサクラたちの前におしぼりを出しながら言う。


「いいね、私も今日は不完全燃焼だから、仕上げちゃおう」


サクラは上着を脱ぎながら言った。


「不完全燃焼なのはお前のせいだろうが…」


私は、サクラに突っ込んだ。






サクラ…、樹の提案で、アランでの様子をネットに流す事になり、傍にあったテーブルの上にサクラはスマホを置いた。


「本当に流すのか…」


レンジさんはチューニングしている私に小声で言う。

私は顔を上げてレンジさんに微笑む。


「ほら、彼女は一度言い出すと聞かないし。それに…」


「それに…」


私は今一度レンジさんに微笑み、


「今は彼女に任せましょう…」


そう言った。


レンジさんもその言葉に微笑み、


「そうだな…」


と言い、ギターのチューニングを始めた。


振り返るとドラムの前には宮脇、いつもの様にフェンダーのギターを持って立つトオル、そしてキーボードの前には桜井遥が立っている。

レンジさんは、エレアコから優しい音を出している。


私は、持って帰って来たばかりのウッドベースを取り出し、ボディの前にマイクをセッティングした。


私は譜面を見て顔を上げる。


「おい、何曲やるんだよ」


私の声にサクラ…、樹は顔を上げた。


「譜面の通り。私が完全燃焼するにはそれくらいは必要なのよ」


サクラはそう言うと笑っていた。


マスターはカウンターを出て、椅子に座ると、今日の客としてじっとステージを見ていた。


「生配信で行くからね。間違えても止めないでね」


サクラはスマホのボタンを押すと、ステージへと小走りにやって来た。

そして、横目でレンジさんに合図を送ると、レンジさんのギターが始まった。


「この曲、男じゃ歌えないからさ、一度やってみたかったんだ」


サクラ…、樹はセッティングを始める前に私にだけ小声で言っていた。


少しアレンジが入り、サクラの囁くような声で曲が始まる。

ワンフレーズ終わったところから、私たちも参加する。

それで一気にパワフルな曲になる。


あの虹を渡って あの朝に帰りたい


サクラの心地良い声がパワフルに響く。

私も初めて弾く曲だったけど、気持ち良かった。

トオルにも宮脇にも、そして遥、レンジさんにも笑顔が見える。

何よりマイクスタンドを持って歌う樹…、サクラが嬉しそうに歌っていた。


間奏で、レンジさんは上手くギターソロを入れて来る。

そのソロがやっぱりプロの成せる技に聞こえた。

その後、レンジさんの合図で、宮脇がドラムのソロを入れる。

そして遥のキーボードのソロ。

練習なんてしていないのに、完璧に聞こえる演奏だった。

最後にトオルのソロ。

こんなにアップテンポな曲をやった事が無かった。

トオルのフェンダーは尖った音を響かせていた。

それぞれのソロが終わったところで、一切の音を止め、サクラの声だけが響く。


応えて 僕の声に


レンジさんのギターに更に気合が入る。

そしてそのまま最後のサビへ。


あの夢を並べて 二人歩いた

glamorous day


私は最後の弦を弾く。


Glamorous sky


サクラの声だけが静寂の中で響く。

私は目を閉じた。

心地良かった。

樹と歌った後のこの心地良さは一体何なのだろうか…。

私はゆっくりと目を開けた、マイクの前に立つサクラはレンジさんの腕を引っ張り、立ち位置を入れ替わっていた。

そして、レンジさんが使っていたマイクを私の前にずらして、私の前に置くと、私の傍に立った。


遥がニッコリと微笑むと、鍵盤を叩き始めた。

それに合わせてトオルとレンジさんがギターを弾く。


私はサクラと頷くと、ウッドベースを鳴らす。

古い歌だった。

この曲はレンジさんが初めて買った歌らしく、思い入れのあるモノだと言っていた。


好きな歌を自分の歌の様に歌ってみたい。

レンジさんはそう言い、この曲を選曲した。


私は知っていたけど、トオルと宮脇は何度かネットで聴いていた。

当時はそれなりに流れていたそうだけど、今ではマニアックな曲になるのかもしれない。


控えめなドラムが宮脇には少し不満そうにも見えたが、パワフルすぎる宮脇には良いチャレンジになるのかもしれない。


Remember どんな愛よりも

君のために悩むなら


レンジさんは気持ち良さそうに歌い上げていた。

九十年代の曲だけど、レンジさんの上手いアレンジで古さを感じさせない曲になっている。


私とサクラはサビにハモりを入れて行く。

上手く奥行きを出す事が出来ているのだろうか。


答えを出せないまま 抱き合う愛もあるさ

君はもう大人なんだから


レンジさんは普段あまり利かせないビブラートを使い、目を閉じて歌い上げる。

こんな風に歌うレンジさんをテレビなどで見た事は無かった。

レンジさんの居たシアンズマゼンダの曲にはこんな風に歌う曲は無かったような気がする。


間奏に入り、レンジさんの本気が炸裂する。

ギターソロは原曲には無く、レンジさんの想いを込めたアレンジになっていた。

ソロの後半に遥のキーボードと宮脇のドラムが自然にレイヤーされて行き、最後のサビへと入って行く。


Remember 霧にけむってた

白い 冬枯れのホテル


レンジさんはギターをトオルに任せて、両手でマイクスタンドを握る。

そして大迫力で最後まで歌い上げた。


マスターがステージを照らす照明を消す。

渾身の力で歌い上げたレンジさんの陰は肩で息をしている様子だった。


「タツキ君…」


レンジさんは私の肩を叩き、私とサクラが立っていた場所にやって来た。


「最後は君が歌え…」


そう言うと私からウッドベースを取り上げて、エレアコをアンプに立掛けた。

そのギターをサクラは当たり前の様に手に取って、ストラップを調整する。


「お前、ギターも弾けるのか…」


私は樹…、サクラに小声で訊いた。

サクラは微笑み頷くと、ギターの弦を弾いた。


私は着ていたコートを脱ぐと、センターに立つマイクの前に立った。


マスターがステージの照明をゆっくりとつけていく。

それと同時に遥のキーボードが始まる。


この曲はサクラたちのカナリアンハミングがSSSでゲリラ的に初めて歌った曲だった。


この曲を私が歌う事になるなんて…。


私はイントロの間、マイクの前で軽くステップを踏んだ。

考えてみると、今はイントロの間もダンスを踊るアイドルが多い。

だけど、昔はもっと歌が重視されていたのかもしれない。


原曲にはサックスの音が効果的に入っているけど、それを上手く遥がキーボードで入れてくれている。


私はマイクスタンドを握り、歌い始める。

樹を越えたい、SSSの時の樹の様に歌い上げたい。


私の横でエレアコを持ったサクラが上手く絡みながらハモりを入れる。


恋しくて 切なくて

君に会いに来たよ


間奏にトオルのギターソロが入る。

トオルのギターはレンジさんのそれにも劣らないモノだという事がわかる。

相当に練習したのだろう。

原曲はサックスがリードするのだけど、上手くトオルのギターがそれをカバーする。


私の前ににはSSSでそれを歌ったカナハミのサクラの姿が見えていた。

越えたい。

樹を越えたい。


私はマイクスタンドを握り、想いを込めて歌い上げる。


愛しくて 苦しくて

君に会いに来たよ

本気だよ だからもう

さよならだね


宮脇の気持ちの籠ったドラムが響く。


ここで最後のサビ。

サクラがギターを弾きながら私のマイクにハモりを入れて来る。


幻だね ミセスマーメイド


アウトロにレンジさんのウッドベースと、トオルのギター、そして遥のキーボードが心地良いレイヤーとなり、私は目頭が熱くなるのを覚えた。


最後はレンジさんのアレンジで、ウッドベースが鳴らすメロディで全ての音を止める。


私はマイクスタンドに掴まり、肩で息をした。

エレアコを持ったままのサクラはそのまま、テーブルにセットしていたスマホまで走ると、そのレンズに手を振り、生配信を止めた。


それと同時にマスターが拍手をした。


「いや、年の初めに良いモノを見せてもらった」


マスターはそう言いながらいつまでも拍手を止めなかった。


レンジさんは私の肩を叩いた。

私がゆっくりと顔を上げると、微笑んで頷く。

私たちはステージを下りるとカウンターの椅子に戻った。






私たちはその後、アランを出た。

生配信がアランからだと気付く人もいるだろうというマスターの気遣いだった。

マスターも店を閉めて帰って行った。


駅前の歩道橋で私たちは温かい缶コーヒーを手に、人気の少ない街を眺めていた。


レンジさんは白い息を吐きながら、欄干に背中を付けて私たちを見ていた。


「君たちに有って、俺に無いモノ…」


その言葉に私はレンジさんを見た。


「それを探す事にするよ…」


レンジさんはそう言うとポケットからタバコを取り出す。

そのレンジさんのタバコをサクラ…、樹が取り上げる。


「おい…」


「此処はタバコなんて吸っちゃいけない所ですよ」


そう言うとサクラはレンジさんにそのタバコを返した。


「そう…だったな…」


サクラはレンジさんに微笑む。


「どうするんですか…。これから…」


トオルが訊いた。

レンジさんは目を伏せて小さく頷く。


「俺は、君たちと音楽をやりたい…」


その言葉に全員がレンジさんを見た。

凄い事だった。

シアンズマゼンダの百井レンジが一緒に音楽をやりたいと言っているのだ。


「だけど、今の俺にはそれは高すぎるハードルだ…」


そう言うと振り返り、歩道橋から街を見下ろした。


「しばらく旅に出る…。失くしてしまった何かを探す旅にね…」


私は黙ってそんなレンジさんを見ていた。


「それを見付けたら、君たちに会いにアランへ行くさ…」


レンジさんは私の肩を叩き、歩き出した。


「今日は楽しかったよ…。俺の人生で一番グラマラスな日だった」


そう言うと後ろ手で手を振り、階段を下りて行った。


私たちはレンジさんが見えなくなるまで彼を見送った。


「グラマラスだってさ…」


トオルは私の腕を肘で突いた。


「グラマラスってどういう意味だ」


宮脇はトオルに訊いた。

トオルは宮脇を振り返った。


「グラマーの姉ちゃんみたいな、意味か」


トオルは私を一度見ると声を上げて笑い始めた。


仕方ないよね…。

不良はお勉強しないし。


「魅惑的なって意味なのよ。だから意味的には同じだけど、女性にだけ使う言葉じゃないのよ」


と遥が説明した。

サクラもさり気なく頷いている事を私は見逃さなかった。

仕方ないわよね、樹もお馬鹿だしね。


「さあ、私たちも帰ろっか…」


とサクラが歩き出した。


私は一番後ろを歩き、立ち止まった。

そして、気のせいかいつもより澄んだ空を見上げる。


「グラマラスか…」


私にとっては、樹と入れ替わってからずっとグラマラスな日々だ。


これからどうなって行くんだろうか…。

私はいつか元に戻り、今の樹以上の事が出来るんだろうか…。


元旦の暮れた空は何も答えてくれなかった。


「タツキ、帰るよ」


私は走り出す。







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