オーディナリーデイズ

星賀 勇一郎

第1話 オーディナリーデイズ





「はいオッケー。お疲れ様」


スタジオの中のスピーカーからディレクターのしゃがれた声が聞こえた。


これで今日は解放される。


私は大きく息を吐いて、スタンドマイクのスイッチを切った。


つまらない曲。

歌いたくない歌。

踊りたくないダンス。

着たくない衣装。

すべてが理想と違っていた。

それでも仕事なのだと自分に言い聞かせて日々、アイドルとしての仕事をこなす。

やりたかった事とはまったく違う事をするのがこんなに苦痛なんて思ってもみなかった。


「いちいち嫌がってると仕事なんて直ぐに無くなっちゃうよ。芸能界なんてそんな世界。アイドルの代わりなんていくらでもいるからね」


マネージャーとは名ばかりの偉そうな事務所の伊山部長はいつも言う。

確かに代わりなんていくらでもいる。

三か月レギュラーとして出してもらっていたテレビ番組のコーナーも、後輩のアイドルグループにあっさりと取られてしまった。

こうやってたまにCDを出させてもらえるのも良い方で、私たちより一年くらい早くデビューした先輩のグループなんかは自然消滅の様に解散して、一番よくしてくれていた先輩は田舎に帰って農協に就職出来たって喜んでいた。

一番嫌いだった先輩は何処かの地方で風俗の仕事をしているらしい。

それくらい厳しい世界。

とてもやりたい事をやれる所では無いのだろう。


レコーディングブースを出て、通路に置いていたリュックを取ると、ポケットに差していた温くなった水を飲んだ。

レコーディングスタジオって所は何故かすごく乾燥していて、喉が痛くなる。

レコーディングには最悪の環境だ。


「サクラ」


ペットボトルをリュックのポケットに入れていると後ろから伊山部長の声がする。

私は顔を上げて返事をした。


「ちょっと良いか」


と伊山部長は控室とは逆の方向へと歩き出す。

私は荷物を置いて伊山部長の後ろに付いて歩いた。






グループのメンバーとファミレスで夕飯を食べて、私は一人街を歩いた。

気が重かった。レコーディングの後、伊山部長に呼び出され、一枚のメモを渡された。

メモにはホテルの名前と部屋番号が書かれていた。

誰も使っていない暗いレコーディングブースの中で私は硬直していた。


話には聞いていた。いわゆる「枕営業」と言われるモノ。


「サチコやリョウにもやってもらった。今回はお前が行ってくれるか」


私に背中を向けたまま伊山部長は淡々と言う。


「プロデューサーがお前を気に入ったらしいんだよ」


伊山部長はゆっくりと振り返ると私の肩に手を置いた。


止めて、触らないでよ…。


そう言いたかったが声も出なかった。


「この仕事続けたいんだろ…」


伊山部長は私の肩を抱いて小声で続ける。


「皆やってる事…、よくある事だ。いわゆる日常って奴だ…」


伊山部長はそう言って私の両肩を強く叩く。

そしてレコーディングブースのドアを開けた。


「失礼のない様に頼んだぞ…」


そう言って出て行った。


私はファミレスで食事をしている時にも、サチコやリョウにもその事は聞けなかった。  


ミカコだけはまだやってないのか…。


私がミカコの顔を見ているとそれに気付いたのか、


「サクラ、どうしたの…」


とミカコが訊いてくる。

私は慌てて首を横に振って何でもないとだけ言った。


高校生の時に街でスカウトされて、この世界に入った。

父親は大反対で、それを押し切って芸能活動を始めた。

昔から歌が好きで、そのうち自分の好きな歌が歌えたらと思った。

だけど、そんな甘いモノではなく、今は生きる事に精一杯で、好きな歌を歌える様になるにはかなりの道のりがありそうだった。

そんな中で「枕営業」を事務所から言い渡される始末。


やめようかな…。


私は暮れた街の星も見えない空を見上げる。


ファミレスから歩いても十分程度のホテルまでの道のりを私は一時間近くかけて歩いた。

そして歩道にある植え込みの花壇の端に座り、何度目かわからない溜息を吐く。


皆、こうやって夢を叶えているのだろうか…。


何を考えても答えは出ない。


約束の時間はとっくに過ぎていた。

プロデューサーは既に怒っているかもしれない。

既に怒っているのなら行かなくても良いか。


そんな思考が自分の中でぐるぐると回っていた。


リュックのポケットに差したペットボトルを出して飲んだ。

別に喉が渇いている訳では無い。

だけど、体が水分を欲している気がして仕方なかった。


ペットボトルを手に持ったまま、アスファルトの地面を見つめていた。

ペットボトルを握る手に力が入り、バリバリと音がする。


そして、ふと人の気配を感じた。

ゆっくりと顔を上げると制服姿の高校生が目の前に立っていた。

その高校生は私の顔を覗き込み、微笑んだ。


「代わってあげよっか…」


金髪の男子高校生はそう言うと私の額を指で突いた。






目覚まし時計のデジタル音で私は目が覚めた。

勢いよく体を起こし、時計を止める。

そして見覚えの無い部屋に気付く。


何…。

ここは何処…。


ドスドスと階段を上がって来る音が聞こえ、勢いよく部屋のドアが開いた。


「タツキ、いつ迄寝てるの、早くしないと遅刻するよ」


その中年の女性は大声でそれだけ言ってドアを閉めた。


タツキ…。

遅刻…。

何…。


私の頭の中はクエスチョンマークでいっぱいになった。

私はとりあえずベッドから出て、周囲を見渡す。

壁に掛かっている制服は男子高校生の制服だった。


あ、昨日の高校生の服だ。


私はその制服に手を添えて生地を触ってみた。

私たちが衣装で着る見た目だけの粗悪な素材とは違い、ちゃんとした生地の制服だった。

そっとクローゼットのドアを開ける。

そのドアの内側にある姿見に映る姿を見て、私は声を出した。


そこには昨日見た男子高校生の姿があった。






わからないなりに男子高校生の身だしなみを整え、朝食も食べずに私は家を出た。

そして、とりあえず近くの公園のベンチに座った。


一体どうなってるの…。


私は呆然として、早朝の公園の風景を見ていた。

そしてカバンを開けて、中のモノをベンチに広げた。


ペンケース、学生証、スマホ、財布、ガムとミントのタブレット。

それだけしかカバンには入ってなかった。


何、この子、学校に何しに行ってる訳…。


私はとりあえずガムを一つ取り、口に入れる。


広げたモノをカバンの中に戻し、カバンに付いているポケットに手を入れた。

そこにはタバコとライターが入っていた。


タバコ…。


私はそのタバコを手に取り、じっと見つめた。

そしてそのタバコの箱を開けたり閉めたりしながら、遠くを見た。


私はこの上村樹って子と入れ替わってしまったんだろうか…。

今の私、水島桜子はどうなってるの。


考えてもわからない事ばかりで、溜息だけが何度も出るばかり。


とりあえず、家に帰ろう。


私は立ち上がり、駅へと向かう事にした。

知らない街だったが、何となく駅の方向はわかった。

人の流れに従って歩いていると十分程で駅に着いた。

樹のスマホを出して覗き込むと顔認証でスマホが開いた。

それはそうだ。今の私は樹なんだから。

そう考えると可笑しくなり、クスリと笑った。

券売機の上の路線図を見ていてふと気付く。

家に帰っても鍵も無く、私だと言っても信じてもらえない。


私は途方に暮れ、肩を落として駅のコンコースを出た。

駅前にあるファストフードの店に入り、ハンバーガーを頼んで奥の席に座った。


何がどうしたんだろう…。

こんな事ってあるの…。


私は樹のスマホを触りながら氷が溶け薄くなったコーラを飲む。


朝、起きた時間から今まで、何一つ問題は解決してない。

制服のポケットに手を入れるとキーホルダーの付いた鍵が触れた。


私は冷たくなったハンバーガーを食べながらその鍵を見た。


とりあえず樹の家に帰って対策を考えるか…。

もう一度寝たら元に戻ってるかもしれないし…。


私は鍵をじっと見て考えた。


うん…。

そうしよう。


私はハンバーガーにいつもの様に噛り付いた。






樹の家に戻ると誰もいなかった。

起きた時に既に父親は居なかったが、母親も仕事に出掛けたのかもしれない。

私は家に入ると樹の部屋にそっと戻った。

制服を脱ぐとクローゼットを開け、適当な服を探した。

いわゆるヤンキーの服が多く、樹は不良か、もしくはヤンキーである事が理解できた。

不良とヤンキーの違いについては良くわかっていない。

着替えると部屋の中を色々と物色する。

机の引き出しに隠す様に入れてあったテストの答案用紙には、世間一般に「赤点」と言われる点数が記されてあり、頭はあまり良くない事もわかった。

まあ、頭の良い不良もそう多くは存在していない筈だ。


ふと、トイレに行きたくなり、部屋を出た。

そして、トイレに入って気付く事になる。


そうだ…。

これは違うんだ…。


私はとりあえずトイレに座り、用を足した。

珍しいモノを何度も見て、トイレットペーパーを取り、それを拭いた。


これは慣れるしかない…。


私は手を洗い部屋に戻った。

今度はスマホから交友関係を見た。

机の上のノートを一冊取るとその最後のページを開く。

今までわかった事をそのページに書いていく。


上村樹。

十七歳。

私立高校の二年生。

ヤンキー。

タバコ吸う。


そこまで書くとまた立ち上がり部屋を見渡す。


香水はプールオム。

高校生の癖に生意気な…。


私はプールオムを両手首に吹きかけて首筋にも付ける。

今度はスマホを開いて着信履歴を見た。


真奈美って子から何度も着信。

彼女かな…。

後は…ヨースケって子からも。

不良仲間かもしれない。

カバンの中の財布を開ける。


所持金は二千六百四十二円。

高校生らしい金額…。

ん…。

これは…。


財布の中から避妊具が出て来た。


ちょっと…。

不純異性交遊はダメでしょ…。


私はそれを財布に戻し、財布をカバンの中に投げ込む様に入れた。


どうなってるのよ…。

高校生ってのは。


私は頭を抱えた。

そしてスマホの写真を見る。

仲良さそうに顔を寄せ合って映る女の子の写真が多くある。


これが真奈美って子かな…。


じっと樹の顔の写真を見る。

ふと立ち上がりクローゼットのドアを開けて鏡を見た。


整った顔立ちで人気もありそう。


私は色々な表情の樹を見てみた。

このまま芸能人に居てもおかしくないクオリティだった。

今風に言えば、偏差値はどん底だけど、顔面偏差値は高めかもしれない。


ベランダの窓を開けると明らかにタバコを吸った跡のある空き缶が置いてあった。

私はその空き缶を引き寄せるとカバンからタバコを取り出して咥えた。


タバコなんて吸った事無いけど、リョウも吸ってるし…。


この異常な事態を何とか飲み込むために私はタバコに火をつけた。

案の定、肺がキュンとして咽返る。


私はタバコを折る様にして空き缶で消した。


こんな不味いモン…、何で吸うのよ…。


私はスマホを持ったまま、ベッドに横になった。

スマホを胸の上に置いて、見慣れない天井を見て、深く息を吐く。


どうすればいいの…。

他人になるなんてこんな事あり得ない…。


私は溜息でしか呼吸をしていないのかと思うくらいに深い呼吸を繰り返していた。






気が付くと日が暮れて部屋は暗くなっていた。

私はゆっくりと体を起こしてクローゼットの鏡に映る自分の姿を見た。

私はやはり樹の姿のままだった。


受け入れるしかないのか…。


私は薄く開けた窓を閉めて、部屋の明かりを点けた。

部屋を出て一階のリビングに降りたが、まだ誰も居なかった。


そうだ…。

この家の家族構成ってどうなってるの…。


私は家の中を見て回る。

一階にはリビングとダイニング、それにトイレとお風呂。

二階に上がると両親の寝室らしき部屋、それに明らかに女性の部屋が一つ、それに樹の部屋。


妹…。

姉…。


私は女性の部屋のクローゼットを開ける。

中学生のジャージらしきモノがあり、多分、妹だろうと考えた。


私は部屋から出て、樹の部屋へと戻った。

そして机の上のノートに、家族構成を書き加える。

父、母、妹。


そしてまたベッドに横になる。

ベッドに上に転がっていたスマホを手に取り、また胸の上に乗せて、天井を見た。


どうなるんだろう…。

私は男子高校生として生きる事になるのかな…。


胸の上に乗せたスマホが震え出す。

慌てて手にすると真奈美と画面に表示されていた。


え…。

どうしよう…。


私は体を起こして、ベッドの上に座った。

しばらくするとスマホの振動は切れた。

しかし再び振動を始める。


仕方ない…。


私は息を吐いてスマホを取った。


「もしもし…」


私は、咳払いを一度して声を発した。


「もしもし、タツキ、大丈夫なの。学校来ないし、放課後も連絡入ってないし、どうしちゃったのかと思って心配したよ。変な奴らに捕まってボコられてるのかとか、風邪ひいちゃってひっくり返ってるのかとかさ、もう心配させないでよね」


真奈美は一気に捲し立てる様に話した。


「だ、大丈夫だよ…。ちょっと風邪気味でさ」


私は、スマホを少し遠ざけた。


「タツキが風邪ひくとか世紀末じゃない」


真奈美は笑っていた。


「馬鹿は風邪ひかないって言うのにね」


「うるさいよ。用が無いなら切るぞ」


私は目一杯、「タツキ」を作った。


「あーん。冷たい。せっかくかわいい彼女が電話してるのに」


真奈美はやっぱり彼女だった様だ。


「ごめん。熱があるんだよ…。明日には完全復活の予定だから」


私はそう言うと電話を切った。

そして大きく息を吐く。

どうやらバレなかった様だった。


こんなのが続くと私がおかしくなるわ…。


私はまたベッドに崩れる様に横になった。

そして、一気に押し寄せた疲れに体が支配された様な気になった。

見慣れない天井を見ながら私は無意識に歌を歌った。


オーディナリーデイズ。


私たちのグループの歌の中で一番好きな歌。

って言うかこれ以外の歌は、私は歌いたくも無い歌で、ファン投票でもいつも上位の歌だ。


こんなに他人を生きるって難しいのね…。


歌いながらそんな事を考える。

そしてふと思った。


私がこんなに大変なんだから、今、私を生きている樹は…。

ん…。

そもそも樹が私になってるの…。

入れ替わってるって事ならそうだけど…。


私は勢いよく体を起こした。

そして手に持ったスマホを見る。


電話してみればいいんだ…。


私は自分の携帯電話の番号を入れて通話ボタンを押した。

何度もコールしたが、私は電話に出なかった。

仕方なく私は電話を切った。


そうか…。

今の時間は深夜番組の収録時間か…。


私は再びベッドに倒れ込み、また歌を口遊んだ。


もしも私が居なくなっても

あなたはいつもの日常を

生きていくのでしょうね

もしもあなたが居なくなったら

わたしも日常を生きていくのかしら

そんな事わたしにできるのかしら


その時、部屋のドアが勢いよく開いた。

私は驚いて起き上がる。


そこには制服を着た少女が立っていた。

そして私を睨む様に見ていた。

女の子は手に持ったカバンを床に落とし、ズカズカと私に歩み寄って来た。

そして、


「今の歌、カナハミのオーディナリーデイズだよね」


少女は私に掴み掛る様にして言う。


カナリアンハミングは私たちのグループ名でカナハミと略されている。


私は何も言わずにコクリと頷いた。

少女はその瞬間、表情を緩めて私に抱き着いてきた。


「私もその歌、超好きなの。何でお兄ちゃんそんな歌知ってるのよ。アルバムにしか入ってない曲なのに」


少女はカナハミについての情報を一気に語り出す。

相当なファンの様だった。

一通り話終えた後に、顔を上げて、「で、何で知ってんのよ」と再び訊いた。


私は、少し戸惑い、


「ネットで聴いたんだよ。い、良い歌だなって」


私は顔を引き攣らせながら答えた。


「だよねぇ」


妹は嬉しそうに微笑んで言った。


「お兄ちゃんがカナハミ好きだって知らなかったよ。私にとってはもう神だから、カナハミ」


妹はまた抱き着いてきた。


「そ、そうか…」


私は妹の肩を叩いてそう言った。


「中でもサクラが一番好きなんだ。なんか彼女だけ本格的なアーティストっぽさが滲み出ててさ」


「え…」


私はその言葉に驚いた。


私からアーティストっぽさが…。


私は妹の顔を覗き込んだ。


「さ、サクラが好きなのか…。彼女可愛いよな」


私は顔から火が出そうになりながら言った。








「何なのあなたたち、今日はやたらと仲が良いじゃない」


樹の母は私と妹、奏美の顔を交互に見ながら微笑んでいた。


「だって私、お兄ちゃん大好きだもん」


奏美は私の腕に腕を絡ませながらニコニコと笑っていた。


久しぶりに食べている手料理のハンバーグ。

いつもコンビニ弁当やテレビ局の用意した弁当、温かい料理と言えば外食で食べるモノ。


「自炊すれば良いじゃない」とよく言われたが、芸能人なんて仕事をしていると自炊のハードルは高い。

しかも駆け出しの間は、家に帰るのは寝る時、なんていう生活で、自炊なんてとてもとても…。

しかも、行く先々に食べ物はあったりするので、本当に料理なんて一切した事が無く、マンションの備え付けのガスコンロは開栓の時に業者が一度火をつけただけで、お湯も沸かした事が無かった。


「ねぇ、お兄ちゃん」


奏美の言葉を聞いてなかったが、適当に「うん」とだけ返事をした。

その言葉に母と奏美がじっと私を見ている。


「ん…何…」


私は二人の顔を見て訊いた。

そんな私に二人は声を出して笑った。


結局、奏美が何を言ったのかはわからず終いで、そのまま三人で食事をした。


色々とわかって来た。


樹の父は何とかっていう大手のIT企業の課長で、朝も早く、夜も帰って来るのは遅いみたいで、今日も食卓には居なかった。

母は、職場結婚で父と結婚したらしいけど、結婚を機に退職して、奏美が中学生になったのきっかけに家の近くの小さな会社でSEをやっているらしい。

妹の奏美は兄の樹とは違い、頭も良いらしく、ちょっとした進学校の中学生で、カナリアンハミングにハマっている様子。

兄の樹とはあまり口も聞いてなかった様子だが、さっきのオーディナリーデイズでその壁は壊れた様だった。


食後に母はリンゴを剥いて出してくれた。

私はそれを食べて風呂に入った。


今日一日、樹として暮らした。

トイレは流石に困惑したが、慣れればそう難しい事では無い。

しかし、風呂に入り、樹の体を見ると、やはり男と女の違いは歴然。

少し遠慮気味に樹の体を洗った。

同じ様な困惑を私の体を持つ樹も考えている筈で…。

まあ、本当に樹が私、水島桜子の体に入ってしまっているのであればの事なのだけど…。


広い湯舟に肩までしっかりと浸かり、体を温めた。

何処に元に戻るきっかけがあるのかわからない。

お風呂で温まれば元に戻れるかもしれない。


テレビ番組でヒーローたちが変身する事がある。

何かベルトだったり腕時計だったり、変なカプセルみたいなモノだったり。

けど、元に戻る時って何をやっているのか、あまり映像にはされていない。


これからどうすればいいのだろう…。


私は鼻の下まで湯舟に浸かり、ブクブクと息を吐く。

そしてそのまま頭の先まで沈んでみた。






お風呂を出て、バスタオルを肩に掛けたまま部屋へと戻った。

奏美は既に部屋で勉強しているらしく、私は濡れた金髪を拭きながら、少し窓を開けた。

冷たい風が部屋に吹き込み、気持ちよかった。


そうだ…。

電話しなきゃ…。


私はベッドの上に放り出していたスマホを取り、さっき電話した私の番号をリダイアルした。


わざと出ないのかもしれない…。


そんな不安に苛まれながらも、私はスマホを耳に押し付ける。


もう、出てよ…。


そう思った瞬間だった。


「はい。サクラですが」


と電話の向こうから声がした。

自分の声を電話で聞くのは初めてだった。


「あ、あの…」


私は驚き、それだけ言った。

電話の向こうの私はクスクスと笑っていた。


「知ってるわよ。上村樹でしょ」


私はその言葉に息を飲む。

そして吐き出す様に言った。


「一体どうなってるのよ。これは何なの。あなたは樹なの」


何故かそれを口にすると涙が溢れて来た。

それでも電話の向こうの私はクスクスと笑っていた。


「代わってあげよっかって言ったじゃん」


電話の向こうの私は笑いながら言った。


「まあ、しばらく上村樹を楽しんでよ。俺もカナハミのサクラを楽しむからさ」


樹は電話を切った。


「ちょっと…」


私は切れた電話をしばらく見ていた。







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