第2話 クロスオーバー
カーテンの隙間から朝日が漏れて丁度顔を差す。
私はその光で目が覚めた。昨日何時に寝たのか思い出せないが、かなり遅かったのは覚えている。
今日は学校に行かなくちゃ…。
上村家の家族構成は昨日頭に叩き込んだが、これが学校となるとその規模は何百倍に膨れ上がる。
かなりリスキーな一日。風邪をひいた事にして一日マスクをして、言葉少なに過ごそう。
と、今朝方まで考えてそう決めた。
ベッドから出ると、壁に掛けた制服を来てネクタイを締める。
ネクタイもアイドルをやるまで締めた事が無く、衣装にネクタイがあった時にスタイリストさんに教えてもらってやっと締めれる様になった。
勿論スタイリストさんも一人に一人って訳では無く、大部屋の他のグループも一緒に見てもらうスタイリストさんで、ネクタイの締め方一つ教えてもらうのも並んで待たなきゃいけない。
アイドル家業も華やかな人たちはほんの一握りで、苦労して下積みをやっている子たちがその大半だったりする。
樹の写真を見て、彼なりの着崩しを昨日覚えた。
ネクタイは緩めに締める。
締めてない写真もあったけど、学校にいる間は締めてるみたいで、学校が終わると外す様だった。
シャツはパンツの中には入れず、基本出しておくスタイル。
金髪の髪の毛は少し立たせる感じでナチュラルなスタイリング。
シルバーのネックレスが見えるのだが、それは何処にあるのか、部屋を探しても見つからなかった。
カバンの中身は昨日のままにしている。
とにかく教科書の類が部屋に無い。
多分、学校に置いているのだろう。
とりあえず、新しいノートを一冊カバンに突っ込む。
私は上着とカバンを持って部屋を出てダイニングへと降りた。
「おはよう…」
私は母に挨拶して、カバンと上着をリビングのソファの上に置いた。
昨日の夜に座った椅子に座り、目の前に置かれた食事を見る。
目玉焼きとサラダ、それにヨーグルト、コーヒー、フルーツとトースト。
何とも豪華な朝食で、ホテルのモーニング並みだった。
いつもこんなモノ準備してるの…。
お母さんって凄い。
自分が母親になった時にこんな事が朝から出来るか。
そんな自信はとてもじゃないが無い。
もっとも、このまま樹として生きていくのであればそんな心配も無いのだろうが…。
私は感心して手を合わせた。
「頂きます…」
私が小さな声で言うと、母は驚いた表情で私を見ていた。
「何…」
母は、首を振って口元を少しだけ歪めている。
多分、私のミステイク。
樹は手を合わせて頂きますなんてしないのだろう。
私は母から視線を外し、トーストにマーガリンを塗る。
ふと、テーブルを見ると、父も奏美も既に朝食を済ませて出掛けてしまった様子だった。
昨日遅くに父が帰って来た気配を感じたが、それどころでは無かったのでスルーした。
顔だけでも見ておけばよかったと後悔してる。
「タツキ、そろそろテストでしょ」
母は、私の向かいに座りトーストを口に放り込みながら言った。
そうそう。
確か来週から期末テスト。
これも机の中やゴミ箱を引っ搔き回して調べた情報。
「うん。来週月曜からね」
私は目玉焼きに掛けるソースを探すが見当たらず、立ち上がって冷蔵庫を開けた。
ウスターソース。
私は昔から目玉焼きにはウスターソース。
目玉焼きにウスターソースを掛ける私を見て、母は眉を寄せていた。
「あ、これね…。ヨースケが教えてくれたんだよ。目玉焼きにはウスターソースだって」
私はソースの蓋を閉めてテーブルの上に置いた。
「試してみる…」
私はソースを母の前に差し出した。
一気に朝食を終えると私は洗面所で歯を磨き、さっさと家を出た。
これ以上二人でいると色々とボロが出そうで怖かった。
学校までのルートは昨日の夜に調べておいた。
電車で二十分、歩いて十五分。
最寄り駅から学校までの間に誘惑の多い街もある。
私と樹が会った街もその間にある。
私は駅まで歩く間に制服の胸のポケットに入っていたICカードを見付けた。
学割と表示されたICカードを見て懐かしさを覚えた。
私も高校生の時は電車に乗って通学していた。
こんな都会では無かったが、電車の行き帰りは友達と時間を忘れておしゃべりをしていた事を思い出した。
制服のポケットに入ったイヤホンを見付け、スマホに繋いだ。
そして音楽フォルダを見付け再生する。
カナハミの音楽とは程遠い、本格的なロックを樹は好んでいる様だった。
私も嫌いじゃない音楽。
電車に乗り込んで、空いている座席に座る。
すると後から乗り込んできた老婆が私の傍に立ち、手摺に掴まっていた。
私は席を立ち、その老婆に、「どうぞ」と席を譲った。
老婆は何度も礼を言いながら座っていた。
私はドアの傍に立ち、車窓から流れる風景を見ていた。
私が住んでいる街は、樹の通学範囲には無く、もう少し都会だったが、マンションは駅から離れていて歩くと三十分は掛かる。
駅から降りてバスに乗りマンションの近くまで行くのだけど、初めはそのバスに酔う事が多く、辛かった。
タクシーで移動出来る程の身分でも無く、駅から歩いて帰る事も多かった。
学校のある駅に着いた。結構な人数が降りる中で、押し出される様に電車を降りた。そしてそのまま改札を出た。
ここまで来ると同じ制服を着た高校生が大勢いて、誰かに付いて行けば迷う事も無い。
私は久々の通学で疲れ、自販機でスポーツドリンクを買って飲んだ。
すると誰かが私の背中を力一杯叩いた。
「おはよ、タツキ」
その男はニコニコしながらこめかみに指を二本当てて挨拶していた。
どうやら友人らしい。
「おはよ」
私は早速マスク越しに風邪である演技をした。
「本当に風邪だったんだな」
その友人は私の肩に手を回して言う。
私はわざと咳払いをして、
「嘘付いてどうするんだよ」
とだけ返し、歩き出す。
同じ制服を着た生徒が学校に向かい歩いているのを見る。
かなり自由な学校の様で、樹の金髪が目立たない程、赤やピンクなどに髪を染めた生徒も多かった。
「なあ」
駅から一緒に歩いていた友人が肩に手を当てる。
「一本やってから行かないか」
とタバコを吸うジェスチャーをした。
私は頷いた。
「良いけど、俺は風邪で喉痛いから…」
私のそれを聞いてその友人は笑った。
「インフルエンザの時でも、味がしねぇって言いながら吸ってたのにな」
そう言いながら横道に逸れて行き、神社の敷地の中に入って行く。
私もそれに着いて神社の中に入った。
すると既に何人かの高校生が座り込んでタバコを吸っているのが見えた。
「おお、タツキ。大丈夫か」
座り込んでタバコを吸っていた一人が大声で言う。
私は目一杯不良を気取り、手を上げて挨拶した。
少し辛そうな演技をして空いているベンチに座る。
すると自然に私の周りに不良たちが集まった。
「大丈夫かよ」
「タツキが風邪って笑っちゃうよな」
「ずる休みだって思ってたのによ」
スマホの写真フォルダで見た顔もあったが名前がわからない。
私はマスクで上手く表情を隠して苦笑していた。
「タツキ」
神社の入り口から声がして、髪の毛をつんつんに立てた男が小走りに入って来た。
「遅せーぞ、ヨースケ」
彼がヨースケか…。
私はヨースケに手を上げて挨拶をした。
「悪い悪い、寝坊しちゃってよ。駅まで走ったよ」
ヨースケは肩で息をしながら、私の前にへたり込んだ。
「髪の毛立てる時間あるんだから」
友人たちは声を上げて笑った。
「あ、そうだ…」
ヨースケはカバンを開けて、有名な舌を出した口のマークのステッカーを取り出して私の前に差し出した。
「タツキ、ストーンズ好きだろ。バイト先でもらったんだよ。ほら…」
私は身を乗り出して、
「何で俺が好きな事知ってるんだよ」
そう言って数枚のステッカーを受け取った。
「何言ってんだよ、学校の机にもステッカー貼ってるじゃんかよ」
ヨースケは笑いながらタバコに火をつけた。
ヨースケのおかげで樹の席は直ぐに分かった。
窓際の一番後ろの席。
いわゆる昼寝席。
一日中寝る事の出来る席で、私が高校生の時もこの場所に座る同級生は一日中寝ていた記憶がある。
教室の後ろのロッカーにも同じストーンズのステッカーが貼ってあり、そのステッカーの上に「開けたら殺す タツキ」とマジックで書いてあったので、直ぐにわかった。
案の定、ロッカーの中に教科書の類は全部入っていた。
時折、嘘臭い咳をしながら、机の上で顔を伏せていると、また樹を呼ぶ声がした。
顔を上げると、直ぐ傍に真奈美の顔があり、私を覗き込んでいた。
「タツキ、大丈夫なの。熱は無いの…」
そう言って私の額に手を当てて来る。
「ああ、熱は引いたけど、咳が酷い。うつるかもしれないからしばらくは俺に近付くな」
私はまた机に顔を伏せた。
樹って結構人に好かれるタイプなのね…。
私は樹に感心しながらマスクの下で微笑んだ。
それにしてもヨースケと真奈美しかわからないんじゃ、学校生活に支障をきたすなぁ。
何か話している真奈美の声を他所に考えていた。
授業中は、一応教科書を開いて教師の話を聞いた。
私にとっては一度勉強した内容で、樹の通う学校とは失礼ながら偏差値にも差があり、何の問題も無かった。
このままだと、来週からの期末テストで樹の順位は大きく上がってしまう可能性もある。
そこは無理矢理に間違うか、白紙で出すか、その辺りは考える所。
でも、万が一、私がこのまま上村樹として生きていくのであれば、此処は完璧にテストをこなす必要もある気がする。
そんな事を考えながら私は教科書をロッカーにしまった。
樹と動機は違うが、教科書を持って帰る理由は無い。
「タツキ。帰ろうぜ」
教室の入り口でヨースケが大声で呼んでいた。
私は手を上げて、席を立つとカバンを取った。
靴を履き替えて外に出ると、朝、神社にいた不良たちが校門の所で待っていた。
皆、樹を待ってるの…。
私はヨースケの横をゆっくりと歩く。
「今日、どうする」
「カラオケでも行っちゃう」
「今日はゲーセンだろ」
「ゲーセン行くならパチンコ行くわ」
それぞれが楽しそうに大声で話している。
会話の内容は違ったが、私も高校生の時はこんな感じの会話をしながら帰っていたのを思い出した。
すると先頭を歩いていた二人が足を止め、自然に全員の足が止まった。
「おい、あれ…」
二人の視線を追うと、違う制服の集団がこっちを見ていた。
「またかよ…。懲りない奴らだな…」
ヨースケが小さな声で言った。
明らかに「仲良く遊びましょう」って雰囲気では無い。
え、喧嘩とか…。
私、出来るのかな…。
私は無意識に目を逸らした。
「おい、待ってたぞ、上村」
その不良の一人がそう言いながら近付いて来る。
ん…。
上村…。
あ、樹か。
じゃあ私が目的なの…。
私は自然と他所を見ていた。
「はいはい。タツキ君は今日、風邪ひいて調子悪いんだよ。出直せ」
先頭にいた二人がその男の前に立つ。
「知るかよ…風邪ひいた奴が悪いんだよ」
その男は二人の間を割りながら言った。
「調子悪いタツキに勝っても意味ないんじゃないか…。宮脇君よ」
どうやら男は宮脇って名前らしい。
雰囲気から言っても昨日今日で揉めている相手では無さそうで、向こうはやる気満々だった。
「うるせえよ。こっちもやられっぱなしじゃ格好付かないんだよ」
やられっぱなし…。
え、樹ってそんなに強いの…。
私はその男の顔を見た。
体つきも樹より大きいし、力も強そうなんですけど…。
「タツキが相手するまでも無い。俺が相手してやるよ」
私の前にいた仲間が言う。
誰…。
私はマスクを直した。
「おい、マサ」
ヨースケがその仲間の肩を掴む。
マサって言うのね…。
宮脇の仲間は遠くでニヤニヤと笑っていた。
私はマサの肩に手を伸ばした。
マサは振り返って私を見た。
「タツキ…」
私はマサに微笑み頷いた。
そして宮脇の前に立つ。
「宮脇君…。悪いけど今日はピアノのレッスンがあるんで」
私は宮脇に微笑んだ。
宮脇は私の顔をじっと見たまま奥歯をギシギシと鳴らしていた。
「上村…。お前…」
宮脇は私の顔の前に顔を近付けた。
その時、私の体は無意識に動き、思い切り宮脇の顔面に頭突きした。
宮脇はフラフラと後退り尻もちを突いた。
大量の鼻血を出しながら宮脇は気を失った様だった。
「走れ」
私は皆に言うと全員が駅に向かって走り出す。
宮脇の仲間たちは何が起きたのかわからない様子で、私たちの前に立ちはだかった。
その数人に仲間たちが蹴りを入れて倒した。
倒れた不良を相手にしようとヨースケが掴みかかったが、
「ほっとけ、走れ」
とヨースケの襟を掴んで走った。
私にも何が起きているのかわからなかった。
勝手に体が動き、宮脇に頭突きを入れていた。
これが樹なの…。
私は内心笑いながら、弾む様に仲間たちと走っていた。
気が付くと先頭を走り、駅の前で立ち止まり、仲間たちを待っていた。
「やっぱ…、すげぇわ、タツキ」
息を切らしながらマサが言う。
「頭突き一発で気絶させるってよ…ありえねぇだろ」
ヨースケは膝に手を突いて肩で息をしていた。
とりあえず電車に乗ろうという事になり、皆で改札を潜った。
空いた電車の中で、大声で話していたが、一人降り、二人降りと樹の家の最寄り駅に着く頃はヨースケと私の二人になっていた。
「じゃあまた明日」
私はヨースケに手を上げて電車を降りた。
思考だけが私で体力とか感覚は樹のままなのかな…。
私は駅を出て、フラフラと家路を辿る。
喉が渇いている事に気付き、自販機で缶コーヒーを買った。
無意識に冷たいブラックコーヒーのボタンを押す。
あれ…。
私はブラックコーヒーが苦手で、自分で買う事も、飲む事も無かった。
それなのに、ブラックコーヒーを買って口にしている。
しかも、苦手だと感じる味でも無かった。
これが樹なのかな…。
私は冷たいブラックコーヒーを立て続けに何口か飲んだ。
苦手どころか美味しく感じた。
何か不思議…。
私は俯いて笑みを浮かべた。
「あの…」
後ろから声を掛けられて、私は動きを止める。
また喧嘩を売られてるのかな…。
しかし、今回は女の声だった。
私はゆっくりと振り返り、声の主を見た。
そこには女子高生の姿があった。
「上村樹君ですよね…」
女子高生は小さな声で言う。
私は無言で頷き、缶コーヒーを一口飲んだ。
「少しだけ、お時間良いですか」
彼女は下を向いたままだった。
私は返事をしてそのまま近くの公園へと向かった。
誰も居ない公園のベンチに座り、彼女の俯いた横顔を見た。
芸能界にいると、その人が芸能界でやっていけるかどうかって線を引く癖が付いてしまう。
もちろん彼女も合格のレベルだろう。
私は、手に持った缶コーヒーを飲み干した。
さっきまでとは比べ物にならない程に喉が渇いている様だった。
「何…」
私は空になった缶コーヒーの缶をベンチの隅に立てると彼女に訊いた。
「今朝、電車でおばあさんに席譲ってるの見ました」
彼女は俯いたまま微笑んでた。
「ああ…」
私が声を発すると、彼女は私の方を向いて、
「何か、あんな事も出来るんだって思って、すごく不思議な気持ちになって、何か、それから上村君の事が気になって…。学校で、リサに相談してみたんですけど、あ、リサは私の親友なんですけど…。それって「恋」じゃないかなってリサが言うんで、そうなのかなって私も思っちゃって、それで、それで…」
私は彼女の必死な様子に自然と微笑んでしまった。
私は彼女の手を握った。
その瞬間彼女の体がピクリと動いた。
「落ち着けよ…」
私は目一杯、樹を気取った。
彼女はその言葉に大きく深呼吸した。
「はい」
私は彼女に頷く。
「悪く見えるのに、本当は優しいんだなって…。上村君」
私は照れ臭くなり、立ち上がった。
私は女。
だけど、今は男で…。
真奈美に対してもそうだけど、どうも言い寄って来る女が同性に感じて仕方がない。
勿論、奏美もそうだった。
お兄ちゃん、お兄ちゃんと纏わり付いて来ても同性のそれに感じる部分はあった。
「多分、好きなんです…私。上村君の事が」
稲妻に撃たれた様な気がした。
私自身は告白された経験なんて一度も無かった。
芸能人になってからファンレターは貰った事はある。
しかし、恋の告白とは少し違っていて、結論は「応援してます」だった。
もしかすると真奈美ともこんなやり取りがあった上で付き合っているのかもしれない。
本当に付き合っているのかどうかもわからないのだけど。
私は膝に手を突いて彼女の顔を覗き込んだ。
彼女は私の顔…、樹の顔に照れて真っ赤になって顔を逸らした。
「すみません…。迷惑ですよね…」
彼女は震えながらそう言った。
「そんな事ないよ。ありがとう」
樹ならどうするか。
それが本能的にわかる様だった。
言葉がスラスラと浮かんでくる。
「多分、好きなんだよね…」
私は彼女の横に座った。
「その多分の部分が、確信に変わるまではさ、友達って事でどうかな…」
その言葉に彼女はゆっくりと私の方を向いた。
「ほら、もしかするとその気持ち、一時的なモンかもしれないしさ」
私は膝の上で強く握られた彼女の手を掴む。
冷たく震えている様だった。
彼女の頬を伝う涙を、私は指で拭った。
彼女の名前は桜井遥と言うらしい。
公園で話した後、SNSのIDを交換し、別れた。
ヨースケと同じ中学で、樹の最寄り駅より二つ先の街に住んでいる様だった。
ヨースケの事は知っているらしいけど、話した事は無いと言っていた。
ヨースケと樹が電車で仲良く話しているのを見て、気になっていたと言っていた。
私は制服を着替え、ベッドに横になり、スマホを手に取る。
いつも一緒にいる仲間、ヨースケ、マサ、ヒロ、コウジ。
ヒロとコウジはまだどっちがどっちか不明。
もう一人いたらしいけど、二年になってからは学校に来ていないらしく、バーテンダーとして夜に働いているらしい。
それに遥。
親友のリサは彼女の事をサクラと呼んでいる様で、私もサクラと呼ぶ事にしようと思っている。
慣れ親しんだ名前でもあるから。
「はるか」って名前の子がクラスに何人もいるらしく、サクラはサクラになったそうだ。
名前にも流行があり、流行っている時にはそんな名前も多い。
私の時は「あやか」って名前の子がクラスに何人もいた。
最初は面白がって「あやかA」「あやかB」なんて呼んでいたが、そのうち、「あやかA」のあやかの方が取れて、「A」だの「B」だのと呼んでいた。
それではあまりにもひどく感じる。
芸能界でも同じで、名前が被る事なんて往々にしてある。
先輩、後輩って縦社会だったり、売れたモン勝ちの世界だったりもするので、私もサクラって呼ばれる事は少なく、大抵は「水島さん」って呼ばれていた。
それ以前に名前を覚えてもらえない事の方が多い。
樹は上手くやってるんだろうか…。
ふと、そんな事を考えた。
今日あった事を報告した方が良いのだろうか。
私は私の番号をリダイアルした。
数回コールした後、不意に私と樹は繋がった。
「はい」
私の声は短い返事をした。
「あ…」
繋がると思っていなかった私は、変な返事を返す。
「どうしたの…」
樹は私の声でそう訊いた。
「今、大丈夫…」
「うん、今日は休みだから…」
色々と訊きたい事は山ほどある。
だけど、そんなモノを訊いていると数日掛かりそうな気がした。
「今日あった事を報告しようと思って…」
私は電話の向こうの樹に言った。
すると樹はクスクスと私の声で笑う。
「そんなの良いよ。時が来ればまとめて話してもらうから」
時が来れば…。
時って何…。
元に戻れる時が来るって事…。
私はそれも怖くて聞けなかった。
「時って…」
私は勇気を出してそれだけ訊いた。
電話の向こうの樹は黙ってしまった。
「ねぇ、時って…」
私は元の私に戻れるのだろうか…。
「悪い様にはしないからさ…。もう少しだけ、もう少しだけ待ってよ」
私の声は電話の向こうから無機質な音になって聞こえて来た。
私はいつか水島桜子に戻れるんだ。
それだけで私は何かほっとした。
「じゃあ、私も上村樹をもう少しだけ生きてみるわ」
樹はクスクスと笑いながら電話を切った。
樹は悪い奴じゃない。
多分信じて良い人間なのだろう。
そう思った。
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