町境のトンネルを抜けると、そこは雪国だった~四国巡礼日記 third season~

土橋俊寛

1

柏バス停留所までは義父に送ってもらった。ここが今回のお遍路の出発地点である。今日はこれから三十キロの道のりを歩くというのに、すでに軽い疲労感がある。そう、今回はここへたどり着くまでが本当に波乱だったのだ。


岡山駅で新幹線を降りると、強風のために電車が瀬戸大橋を渡れないというアナウンスが構内に繰り返し流れていた。四国が本州とは別の島である事実を改めて認識した瞬間だった。一体どうすればよいのか……。今日中に宿毛まで行かなければならず、ここで足止めを食うわけにはいかなかった。しかし、予約した特急は運休し、予約し直した特急がまた運休した。


この日の始発電車が動き始めた時にはすでに夜七時を回っていた。もう、宿毛まで行くのはさすがに無理だ。私が乗り込んだ南風二十三号はデッキまであふれるほどの乗客を乗せて高知駅へ向かって出発した。高知駅に到着したのは夜十時で、駅近くのホテルで一泊することになった。


後から知った事だったが、実は高知駅から西へ向かう電車は終日運休で、どのみち宿毛まではたどり着けない運命だったのだ。この日、高知市には観測史上最大という大雪が降り、高知駅前に凛と立つ三人の志士――坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太も頭と肩に雪をかぶっていた。


もっとも、雪国の人間が見れば笑ってしまうような「大雪」で、このくらいで電車を止めないでほしい、というのが私の本音ではあった。


翌朝も電車は復旧せず、それどころか路線バスもすべて運休になった。普段、たいていの事は何とかなるだろうと楽観的な私もさすがに途方に暮れた。この程度で運休にするなんて、今日が土曜日で通勤通学に影響がないから除雪の手を抜いているのではないかと、穿った見方をしたくもなる。


そんな時に義父から電話があった。宿毛から高知まで車で迎えに来てくれるという。雪の影響がなかったとしても片道四時間の道のりである。さすがに申し訳なく最初は断ったものの、結局は厚意に甘えることにした。明日にはお遍路を歩き始めないと、今後の行程で予約してある宿をすべてキャンセルしなくてはならない。前回の夏のお遍路を教訓として、今回は最初の一週間分の宿を予め確保してあったのだ。


こうして私は今、柏バス停留所におり、予定通りに今日から歩き出せるのだった。本当に感謝のしようもない。


柏バス停留所からは宇和海沿いの国道五十六号線をゆく道と、もう少し内陸を歩く柏坂へんろ道の二手に分かれる。初日で体力もある。私は迷わずに柏坂へんろ道を選んだ。


一キロほどのんびりと田舎道を歩いていると、気分がすこぶる良い。お遍路とはこんなにも楽しいものだったか。順調に歩みを進めていたが、柏坂を登り始めるや爽快感は立ちどころに消え去ってしまった。すぐに息があがり、上半身に汗が吹き出しているのが分かる。たまらずセーターを脱いだ。歩くのが辛い、そうだ、これが私の記憶にあるお遍路だ。


登り坂の途中には道標代わりなのか、野口雨情の詩を記した立札が、ある程度の間隔を開けて並んでいた。雨情について私は「シャボン玉」くらいしか知らないが、彼はこの地にどのような縁があるのだろうか。足摺岬へ向かう途中にも「俳句の道」と称して俳句を並べた遍路道があったが、私はあの道を思い出していた。最初の二つ三つは足を止めて立札をしげしげと眺め、口の中で反芻さえしていたのだが、その内に疲労感で立札を気にする余裕がなくなっていった。


柏川を渡り、三キロほど歩くと清水大師がある。登り口から見ると高低差は四百メートルほどで、ここが愛南町と宇和島市の市境になっている。坂を登っていると、頂上が見えた瞬間の達成感は格別である。柏坂へんろみちの峠から宇和海を眺めると、息を切らして登り坂をここまで来た甲斐があったとしみじみと感じた。


ここからは緩やかな下り坂が続き、足取りがふっと軽くなる。「狸の尾曲がり」「鼻欠けオウマの墓」「クメヒチ屋敷由来」など、遍路道の要所要所に地名の由来や小噺、昔話を記した看板が立っている。中には、このご時世にコレは炎上案件になりかねないような話も混じっているが、SNSとは無縁の、ゆったりとした風情が感じられ、登り坂とは違った趣向が面白かった。


坂を下り切り、国道五十六号線と並んで走る遍路道を歩いていくと、また別の分岐点があった。まっすぐにこのまま北上する道と、右手に折れて野井坂遍路道を歩くコースだ。観自在寺から次の龍光寺に向かうルートには灘道、中道、篠山道の三つがある。江戸時代、宿毛から宇和島までの最短ルートは中道だったが、ここは藩の公用路とされていてお遍路は歩くことを許されなかった。野井坂遍路道はこの中道の一区間である。


直進コースは距離が短いが国道と大差ないためやや物足りない。三キロほど遠回りになるが、私は野井坂を歩くことに決めた。実は、この選択を後から激しく後悔することになるのだが、この時には知る由もなかった。


大正期までは交通の要衝だったという中道を歩いていると、雨がポツポツと降り始めた。気づけば空からは朝の青空がほとんど消えかけている。ブルゾンのフードをかぶると視界が狭くなるが、かなりの雨よけになる。


いや、これが原因だと言いたい訳ではない。遍路道を示す矢印マークが減ったなと感じてはいた。それに、これが宿毛へ向かう道であることを示す道路標識を先刻見た時に気づくべきだったのだ。今朝、私はその宿毛から来たのだから……。


傷口は浅いと自分に言い聞かせたが、往復で四キロ少々、一時間を丸々無駄にした事実は残る。何ともやり切れないが、この一時間で雨が上がったのがせめてもの救いと考えよう。


野井坂遍路道の峠は柏坂へんろみちの峠と比べて高さはないが、とにかく道が悪い。ゴツゴツとした石や枯れ枝が自然路のあちこちに散らばり、道に大きな凹凸を作っている。さらに、先ほどの雨が道を泥でぬかるませていた。しかし、これは私が自分で望んだ道なのであり、文句を言う筋合いはなかった。登り坂は相変わらず息が切れるが、峠の頂に立つとホッとした。


残すは下り坂なのだが、実はこれが曲者だった。至る所に「この先、倒木に注意。危険」の張り紙が見える。それに「迂回路あり」の手書き文字。倒木のせいなのか、どれが遍路道でどれが迂回路か、全くもって判別できない。またもや、気づくと周囲から道標がすっかり消えていた。しかも、今度は山の中、状況は先ほどよりも悪い。


先へ少し進むと五百メートルほど前方に宇和島道路と思しき道路が見える。とにかく、あれを目指そう。


道があってもなくても、とにかく直進すると決めたが、たぶん焦っていたのだろう。高さ三メートルほどの「坂道」は傾斜がキツいが、私はこの程度ならば恐らく降りられるだろうと踏んだ。冷静に考えればこの「坂道」は小さな崖のようなものだったのだが。そろりそろりと枯枝を足場にして降り始めると、とたんに枝が折れて一気に滑り落ちた。うわっ、と声が出た。滑り始めると途中で止まらないのだということが身に染みて理解できた。散乱した荷物が遠くまで飛んで行かなかったのは幸いだった。恐る恐る手足を動かしてみたが、どうやら怪我もないようだった。


滑り落ちた先は小さな川だったが、ほとんど水が流れていないのは幸運だった。正直なところ、歩く気力が失せていたが、こんな場所で茫然と立ち尽くすわけにはいかない。慎重に水を避けながら歩き始めた。川を過ぎると、背丈が一メートルほどの草木が生い茂っていて、それらを両手でかき分けながら進んだ。足元が見えないのが猛烈に不安だった。もし一歩を踏み出した先が急坂や深い川になっていたら危険この上ないが、目で見てもそれが判別できないのだ。


泥まみれになり、草まみれになりながらも、不意にアスファルトの小道が目の高さの位置に現れた。どうやら正規ルートもこの小道に繋がっているようだ。道なき道とどれくらい格闘していたのか、たぶん、実際にはさほど長い時間ではなかったのだろうが、私はすでに時間の感覚を失っていた。何よりも、安心して足の力が抜けた。


昼間の明るさが弱まり始めている。腕時計の針は午後五時を指していた。途中で何度か休憩を挟んだとはいえ、もう八時間以上も歩いている計算になる。宿に着くのは一体何時になるのだろう。


冬は日が短く、午後五時を回ると徐々に暗さが増してきて、午後六時には周囲が真っ暗になってしまった。地図を確認すると、ほとんど一本道を進み、国道五十六号線とぶつかった後は道沿いを行けばよいようだった。妙な色気を出さず、初めから国道沿いを歩けばとっくに宿に着いていた頃だ。私は自分の判断を呪いたくなった。


まだしばらく歩くので、どこかで腹ごしらえをしたかった。ちょうど道沿いに見つけた「セルフ」のうどん屋に入ることにした。私はセルフのお店を利用するのが初めてで、何がセルフなんだろうと思ったら、うどんを自分で茹でるシステムだった。


「うどんはどこで注文すればよいですか?」と店員さんに尋ねたら、少し間を置いて「こちらで好きなだけ茹でてください。何玉でも値段は一緒です」と教えてくれた。普段なら、好きなだけ、という店員さんの言葉を文字通りに受け取り、喜々として山ほどのうどんを茹でるところだったが、疲労のせいか、自分で考えていたほど食欲があるわけではないようだった。うどんを控えめに二玉だけ茹でる。関西風のあっさり味の汁が美味しかった。


陽が完全に落ちると、景色を楽しむことはもはや不可能だ。後はひたすら宇和島の宿泊先を目指して歩くのみである。


宇和島駅に程近い宿にチェックインするや、荷物をすべて下ろして部屋着に着替えた。お風呂に浸かり、早く布団に入りたい。私の疲れた頭に浮かんだのはそれだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る