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宿を出てから湯浪の休憩所まではちょうど二時間だった。寒さのせいなのか、お腹の調子が悪い。どうしたものかと思っていた時だったので、平成三十一年に新設されたばかりという綺麗なトイレがとてもありがたい。この休憩所には駐車スペースも少しだけあり、実際にここまでは自動車で登って来ることもできる。しかしこの先は通行止めとなっていて、ここからの参道は徒歩でしか登れない遍路ころがしの自然道である。


遍路道は妙之谷川が軸となり、両岸を何度も行ったり来たりしながら参道は高度を上げていく。参道の道のりが二・三キロしかないのに対し、湯浪と横峰寺の高低差は五百七十メートル以上もある。つまり、斜角がだいぶ大きいということだ。


四国巡礼の最難関と言えば春に歩いた十二番札所焼山寺に至る遍路ころがしで、六百メートルの高低差を十一キロの道のりで登る。もちろん、私はあれにもう一度挑戦したいという気は微塵もないが、登り坂の勾配だけで言えば、今日の方がきついかもしれないのだ。


登り坂の途中で八十歳に手が届きそうな老夫婦とすれ違った。彼らはお参りを終えて下山してきたのだ。


「こんにちは。お気をつけて」


私があいさつする前に婦人から声をかけられた。お気をつけてとは、若い私が言うべき言葉のはずではないか。息を整えてから、私はお礼を述べた。


「ありがとうございます。お気をつけて」


もちろん二人とも荷物は持っていないし、湯浪までは車で来たのだろう。それでも達者であることは間違いない。四国遍路ではこうした年配の参拝者やお遍路さんを頻繁に見かけるが、彼らに対しては心の底から賞賛の念が湧く。


参道は最後の一キロで勾配がぐっと上がる。二百メートル歩いては荷物を下ろして一息つき、また二百メートル歩いては休憩する。まさに牛歩の足取りである。

また別の参拝者とすれ違い、挨拶を交わした。


「せっかくここまで歩いて来られたのですから、奥の院もぜひ見ていってください」

男性は満面の笑顔で私にそう勧めた。私はすっかり息が上がり、余裕があれば寄ってみたいですと、ようやくそれだけ答えた。可能な限り寄り道は避けたいというのが私の本音だったのだが。


ようやく六十番札所横峰寺の山門が見えると言い知れぬ嬉しさが込み上げてきた。白鳥が梁に彫られた仁王門で一礼してから境内に入る。境内はひっそりと静まり返っていた。堂宇は少なく、細長い敷地に本堂と大師堂が離れて配置されている。


参道を必死に登っている時には寒さなど全く感じなかったが、標高が高いだけあって気温は低い。石鎚山から吹き込む冷たい風のせいもあるだろう。境内のあちこちに残る雪が、冬の寒さを物語っていた。納経所でご住職から墨書と朱印をいただく際に、こちらのお寺はさすがに寒いですねと話しかけると、下とは違うだろうという素っ気ない返事がかえってきた。参拝者のための休憩所が設えられていたが、寒さのせいであまり長く休みたいとは思わなかった。


ひと通りお参りを済ませると、先程会った男性の言葉が脳裏に蘇ってきた。奥の院、どうしようか。さらに少しだけ坂を登らなければならないが、せいぜい片道十分程度の距離のはずだ。よし、見に行ってみよう。


仁王門の脇を通り過ぎ、大きくS字を描くように山道を登っていく。すると突然、木立がなくなり開けた場所に出た。横峰寺の奥の院・星ヶ森だ。先客が二名いて、どうやら外国人らしく、しきりにインクレディブルと歓声を上げている。その言葉につられて彼女たちの視線の先を見やると、雪をかぶった石鎚山が眼前に広がっていた。何千年も前から何も変わらないと思わせるその姿は、息を飲むような美しさだった。これは、確かに寄り道するだけの価値がある。私は先ほどの男性に心の中で感謝した。


横峰寺まで戻り、境内の最奥にある大師堂を脇に抜けると、次の香園寺へと続く遍路道がある。往路と同じだけの高低差を、今度はしかし、先ほどよりも長い距離をかけて下る。この山道は曲者で、山あり谷あり、下っているはずなのに所々登らされるのだが、これが案外辛いのだ。


歩き始めて一時間もすると、明らかに空気の質が変わった。気温も確実に高くなっている。所々、腰丈ほどのコシダやサワラが遍路道を塞いでいるのを掻き分けながら歩き続け、昔のままの自然を残す遍路道を進んでいく。


ある場所で、何の前触れもなくガードレールが出現して驚いた。その辺の国道で見かける、白色の、何の変哲もないガードレールである。しかし、その平凡さが、山中の自然路というあり得ない場所とのミスマッチを際立たせており、まるで現代アート作品のようなシュールさがあった。もっと、相応しい柵があったはずなのに……。一体、何を思ってこんな所にガードレールを置いてしまったのか、設置者に問い合わせてみたいほどだ。


標高がさらに下がると、サザンカの紅色の花が目立ち始めた。香園寺まであと二キロという所で自然道が舗装路に変わり、その先には道沿いに香園寺の奥の院・白滝が見える。


ようやく山を降り切ってたどり着いた六十一番札所香園寺は、私にはひと目見てがっかりする代物だった。みすぼらしいのではない。その逆で、建造物があまりに立派すぎたのだ。堂々たる信徒会館や、本堂と大師堂を兼ねた鉄筋コンクリート製の直方体の大聖堂からは、寺院の大盛況ぶりがありありとうかがえる。いや、大盛況と言うより、むしろ大繁盛と言うべきか。この重厚な建造物にありがたみを感じないのは、ひょっとすると私がひねくれ者だからかもしれない。


大聖堂の中はこれまた豪華絢爛な金ピカの造りで、本尊とお大師様が鎮座している。思わずため息が出てしまい、私は読経に身が入らなかった。


タイやラオスなどの東南アジア諸国でお馴染みの上座部仏教では基本的に寺院や仏像が派手で、日本的な侘び寂びとは程遠いが、それでも現地の人々の厚い信仰を集めている。それは別に構わないけれども、絢爛豪華で派手な寺院が日本にあったら、私たち日本人はありがたみを感じにくいのではないだろうか。


しかし、考えてみるとここには矛盾がある。ご利益があり、人々が熱心ならば、寺院には多額のお布施が集まるわけで、結果的に建物を増改築し豪華な物にできる。実際、境内は多くの参拝者でごった返しているのだから、私以外の人はこの金ピカに有り難みを感じているということなのだろう。


香園寺で受けたショックから立ち直る暇もないまま、二十分ほど歩くと六十二番札所宝寿寺に着いた。境内のすぐ側を国道十一号線が走り、車が行き来する音もよく聞こえる。けれども、不思議と時間が止まったような落ち着きが境内を満たしている。なぜだろう。少し考えてみると、風鈴の音が原因なのだと分かった。香炉の天井に風鈴が並び、微風が境内を吹き抜ける度にカランカランと音を立てる。冬だというのに寒々しい感じは全くない。


境内を見回すと、手水所には手拭いがかかり、これも夏を思わせる(柿やススキ、お月見といった絵柄は秋っぽいが)。しかも、ビー玉が手水桶の底を隙間なく埋めていた。なかなか面白い趣向である。私は香園寺の雰囲気がすっかり気に入った。しかし、これは必ずしも意図したわけではないらしく、私が納経所で「夏のような趣がありますね」と口にすると、納経所の方はそんなことを考えもしなかったというような口調で「言われてみればそうですね」と笑って答えた。


立ち去りがたい気持ちのまま小ぶりの境内を散策していると、星ヶ森で少し言葉を交わした外国人の女性たちと再会した。彼女たちはカナダ人の母娘だったが、読経も般若心経だけでなく回向文まで唱えていて、少なくとも私よりだいぶ本格的だ。


「歩いて回っているのですか?」


母親の方が私に尋ねた。


「ええ。区切り打ちの、今回が三回目です」


「私は八十歳になり、さすがにもう歩けないので今回は車で回っています。でも、以前は何回も歩きましたよ」


どうやら年季の入ったリピーターのお遍路さんのようだ。


今回はどこから歩き始めたのかと訊かれ、私が四十番からですと答えると、即座に「観自在寺」の名前が返ってきたので驚いた。さすがに伊達ではない。


次回でたぶん結願の予定だと伝えると、母親が笑いながらこう言った。


「終わったら、再スタート。きっとまた歩き始めますよ」


ああ、ここにもお遍路に魅了され、お四国病にかかってしまった人がいた。お四国病は国籍を問わないのだ。


六十三番札所吉祥寺は毘沙門天を本尊とする唯一の札所で、その事実が大々的に山門で宣伝されていた。現在、本堂は改装中で、大師堂が仮本堂を兼ねていた。そこで、納め札を二枚まとめて大師堂に納めておいた。


境内そのものはさほど印象に残らなかったが、山門の前に置かれた二頭の象がタイやインドを思わせて興味深い。これまでの札所では象を見た記憶などなかった。そもそも日本にはいまだかつて野生の象が生息していたはずはないのだから、なおさら不思議である。


吉祥寺を出て遍路道を歩いている途中、目が合った人にあいさつすると、


「ずっと歩いてるんか、ひとつ持っていくか?」


どうやら農家の人だったらしく、軽トラの荷台に仕分けされた果実から色の良いのを選んでくれた。


「ありがとうございます。いただきます」


「今朝収穫したばかりだから、ちいとばかし酸っぱいかもしれんけど」


なるほど。かばんに入れておいて、しばらく置いてから食べればよいのかもしれない。ところで、気になったことがひとつある。


「これ、何カンですか」。こう訊ねると笑いながら伊予柑だと教えてくれた。それにしても、今回のお遍路では蜜柑や伊予柑を一体いくつ頂いたことだろう。伊予柑をかばんにしまい、前神寺へ向かう遍路道を進んでゆく。


六十四番札所前神寺の本堂は周囲を森に囲まれて、境内の奥まった所にある。本堂の左右に伸びる回廊が奥行きを出し、威風堂々たる貫禄を見せる。この雰囲気は私の好みだ。


この日最後のお参りを済ませ、納経帳に墨書と朱印を頂く。私は山門で一礼し、静けさに包まれた境内を後にした。

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