8
今日訪れる札所はどちらも松山市内にあるが、場所は中心地から少し離れている。昨夜は繁華街に宿泊したせいで松山市には喧騒の街という印象を抱いたが、中心地から二時間も歩けば同じ市内でも雰囲気はまるで違う。背の高い建物が姿を消し、国道を離れればのどかな田園風景が広がっている。
乗客を乗せた伊予鉄のバスが参道入り口の門を中へ入っていった。ここまでの道のりがのどかだったせいで私は何となく小さなお寺を想像していたのだが、五十二番札所太山寺は近隣住民だけでなく、少し離れた場所に住む人もわざわざ車に乗って初詣に来るような規模の寺院のようだった。自動車が次々に門をくぐっていくのが見える。
参道の突き当りには鎌倉時代に建造されたという仁王門があり、先ほど見かけたバスの乗客は全員、ここで降りるようだった。太山寺の境内までは、しかし、ここから先がまだ長いのだ。本堂は勾配の急な参道のだいぶ先にあり、自動車で訪れた参拝者も、中門付近にある駐車場からは私と同じようにやはり徒歩で登らねばならない。それでも、たくさんの成木が立ち並ぶ参道は爽やかで、のんびりと歩けばなかなか気持ちが良かった。周囲の山では山鳥が新年を祝うように喧しく鳴いていた。
三番目の門を通り抜けると、本堂の前は元旦の初詣客で大変な賑わいだった。梵鐘をやたら何度も撞きたがる小さな子どもとそれを注意するお母さん、本堂の前で記念撮影する大家族、白衣に身を包んだお遍路さん――。今回のお遍路でこれほど多くの参拝者を見たのは今日が初めてだ。一通りのお参りを済ませてから参道を引き返して納経所へ向かうと、打って変わってこちらはしんと静まり返っていた。納経帳に朱印を頂き、今年の打ち初めが無事に済んだ。私は上々の滑り出しではないかと独りごちた。
五十三番札所円明寺までは四十分ほどで着いた。太山寺とほとんど並び合って建つと言えば大袈裟だが、両寺はわずか二キロしか離れていない。にもかかわらず、こちらの境内は閑静だった。参拝客もさほど多くない。道路に面した山門をくぐって円明寺の境内に入ると、境内の真ん中にまた門があるのが面白い。山門も中門も柱の色合いはよく似ていて、どちらも同じ時期に建てられたように思える。小さくまとまった境内が気持ちを落ち着かせてくれるようで、私の好みには太山寺よりも円明寺が合う。
六か寺もお参りした昨日とは違い、今日はもう札所を訪れる予定がない。何だか心に余裕がある。お参りとは本来こうあるべきだろうと思い、昨日の強行を少し反省した。
さあ、この後は今治市方面へ遍路道をひたすら歩くだけだ。今夜は遍路道沿いに宿泊先を確保できなかったため、適当な所まで行ったら電車で松山市内に戻ってこなければならない。昨夜の宿に連泊するのである。
そのため、目的地は自ずとJR予讃線の駅のどれか、ということになる。この先三十キロほどは遍路道がおおむね鉄道と並走しており、一駅の間隔も長くない。言ってみれば、今日は歩く距離に制約がほとんどない珍しい日なのだ。
遍路道に指定されている県道三百四十七号線を北東に進んでいくと、突然、目の前に海が現れた。瀬戸内海だ、と口の中で思わずつぶやいた。これまで、列車やバスで瀬戸大橋を渡る際に瀬戸内海を上から眺めたことはあったものの、横から見据えたのはこれが初めてだった。冬の海らしからぬ穏やかな海面で、私は気持ちよく泳げそうだという錯覚を覚えた。つまり夏の海のように見えたということだ。
それにしても、瀬戸内海にはなんと島の多いことだろう。
春も夏も、お遍路では海を眺めながら歩いた。お遍路は「辺路」、つまり四国の縁を歩くわけだから当然と言えば当然である。海岸線を二キロほど歩くと、道路は再び瀬戸内海から遠ざかり始めた。北条に入ると遍路道沿いの景色が海から山へと変わり、恵良山(えりょうさん)を少しだけ登っていく。
伊予柑なのか別の蜜柑なのか、柑橘類の木が並んだ畑の脇を通るのだが、愛媛県では実に至る所で柑橘類がなっている。峠を少し過ぎた辺りに「四国遍路を世界遺産に」と書かれた幟が旗めく休憩所があり、ここからは瀬戸内海が見渡せた。
ひと休みの後、鴻之坂を一気に駆け降りていく。その途中、軒先で数人がわいわいと正月談義を楽しんでいる家の前を通りかかった。親戚が集まって元日を祝っているようだった。すると、そのうちの一人が私の姿を認め、お寿司もあるから休んでいかないかと声を掛けてくれた。女将さんが急須でお茶を入れてくれ、小皿に巻き寿司とお稲荷さんを取り分けてくれる。
タクシー運転手をしているという初老の男性が、コロナ禍の前はタクシーをチャーターして回るお遍路さんがしばしばいたのだという話をしてくれた。三人でタクシーを一週間借り切って、八十八の札所を全て回るのである。歩き遍路の遍路道は千二百キロだが、自動車だと一周は千四百キロほどだと言われている。一週間で回るなら単純計算で一日二百キロである。車とは言え、決して行程は楽ではない。
そのようなタクシーツアーでは、運転手が先達、つまりお参りの作法を手ほどきしたり、札所の由来を話しながら境内を案内したりする役目を果たすこともあるそうだ。そして、気になる代金は宿代を別にして一人十万円くらいなのだそうだ。
高い! という感想を持つ人もいるだろう。しかし、歩き遍路と比べたら一周十万円という費用はかなり安いのである。一週間の行程なら宿泊は六泊、仮に一晩五千円とすれば、ツアー全体で一人十三万円という計算になる。ところが、歩き遍路は四十日から五十日が標準的なペースだろうから、宿代だけで二十万円から二十五万円かかる。お遍路の中で歩き遍路ほど贅沢なものはないと言われる所以である。
小一時間もお喋りをし、最後はお決まりのように蜜柑をいくつかもらってお宅を辞した。鴻之坂を道なりに進むとJR予讃線と再会し、浅海(あさなみ)駅の近くに出た。
明日のことを考えれば、もう一駅歩くという手もある。どうしようか。駅に備え付けの時刻表によれば、三十分後には松山方面へ向かう電車が来るようだ。よし、これに乗ろう。そう決めた瞬間、肩の力が抜けて気持ちが楽になった。心の内ではもう歩きたくなかったのだ。それに、正月早々、無理に急ぐこともないだろう。また明日、ここから続きを歩けばよいのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます