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浅海駅から昨日の続きを歩き始めた。今日最初の札所まではまだ十七キロ以上もある。出来ればお昼前には札所に到着したいと思うのだが、菊間駅を過ぎた辺りから歩くのが苦痛になり始めた。歩き出してからまだ二時間も経たないのに……。
昨夜は外が騒がしくて熟睡できず、昨日の疲労感が残っているのは原因のひとつである。それに加え、昨夜と今朝はあまりご飯をしっかりと食べられなかった。朝食をとる時間がなかった今朝はともかく、そもそもお正月に営業している飲食店が限られているのだ。大手ドラッグストアやコンビニさえも閉まっている場合がある。これは私にとって大きな誤算だった。
どうにも空腹が我慢できなくなってきた。「営業中」の看板を出した飲食店をようやく見つけ、何屋さんなのかよく分からぬままに扉を引いて中へ飛び込んだ。店内を見渡すとテーブルの上にガスコンロが見える。その瞬間、しまった、と思った。念のために尋ねると、果たしてこちらは鉄板焼きのお店で、定食のメニューは用意がないという話だった。残念だが、さすがに鉄板焼きは無理だ。時間がかかりすぎる。がっかりして歩き始めると、店の女将さんが小走りに近づいてきた。何だろうと思っていたら、煮込みうどんなら用意できると言うではないか。「お遍路さんをそのままお帰しする訳にはいきませんので」
荷物を降ろし、椅子に座って休めるのも嬉しい。一人前用の鍋を火にかけ、しばらくすると中身がグツグツと煮え始めた。愛媛県で何度か食べた甘口出汁のうどんと違い、七味がぴりっと効いた辛口で美味しい。よろしければご飯もどうぞと言う女将さんに、お願いしますと答えた。辛口のうどんに白米が合うだろうなと、まさにそう思っていたところだったのだ。
すっかり満足し、いざお会計と思ったら代金はいらないと言う。ただでさえ無理を聞いてもらったのに、お金を受け取ってもらえないというのは困る。なんとか払おうとしたのだが、
「お遍路さんからお金は受け取れませんから」
結局、私はお代の支払いをあきらめた。
「ご馳走様でした。本当に助かりました。今年一年が良い年になりますように」
そんな月並みな言葉しか出てこず、女将さんの方が「ありがとうございます。お気をつけて」などと言うのを聞くと、自分が恥ずかしくなってきた。
誰の本で読んだのだったか、著者がお遍路の途中で空腹を覚え、通りがかった人に「この辺りにどこか食べる所がありませんか」と尋ねたのだそうだ。ファミレスや食堂を教えてくれるものだと思っていたら、なんと、その人は著者を自宅に招き、食事を振舞ってくれたのだった。私はその記述を読んだ時、四国のお接待文化とはすごいものだなと、単純にそう思っただけだった。それ以来、著者は自分の質問が何かをねだっているように聞こえないよう、言動に十分注意するようになったと書いていた。
誓って言うが、私は決して「食事のお接待」を期待していたわけではない。それでも、今の私にはその本のくだりが非常によく理解できた。先ほど「お代は要りません」と言われた時、私も自分が他人の好意に付け込んでいるように感じてしまったからだ。
私はある学生との会話を思い出した。この学生の友人が四国の出身で、幼少の頃から歩き遍路を日常的に見て育ったのだそうだ。ところが、その友人というのが、お遍路に対して悪感情を抱いているらしい。「へえ、どうしてなの?」と私が訊ねると、学生の答えは辛らつなものだった。「だって、お遍路なんて乞食みたいなもんじゃんって言ってました」
これは極端な例なのかもしれないが、少なくとも、世間にはそういった見方をする人もいるということだ。いや、歴史的に言えばこの見方は標準的なものだったとさえ言えるのかもしれない。上原善広氏による『四国辺土』は草遍路や乞食遍路などと呼ばれるお遍路さんを取材したルポルタージュだが、著者はその本の中で、昭和三十年代までの遍路は辺土、つまり乞食を意味していたのだと書いている。
お接待は地元の方との交流のひとつなので、それがお遍路の大きな楽しみであるのは間違いない。しかしお接待に感謝しつつも、それに甘えたり、それを当然視するような態度は慎むべきだと、私は切に思うのだ。
五十四番札所延命寺は小高い丘の上にあった。今日はずっと交通量の多い大きな道路を歩いてきたので、ようやくたどり着いたという解放感と相まって、境内の静けさが心地良い。
ところが境内に入り、山門に向けられた防犯カメラに気づいて私はぎょっとした。山門は今治城のかつての城門だという由緒ある代物とは言え、防犯カメラとはずいぶんと物々しい。納札箱に貼られた「納め札を取ってはいけません」という注意書きを始め、よく見ると境内のあちこちに注意書きが目立つ。それだけマナー違反が多いということなのだろうが、私は少し興ざめがした。
この先は歩いて一時間ごとの間隔で札所が並び、急にボーナスステージへ突入したような感じがする。手始めは五十五番札所南光坊である。この札所は何よりまず、名前が変わっている。八十八か所の札所で「坊」の文字が入るのは南光坊だけである。
仁王門を守る四天王像は立派で迫力があるが、お寺そのものには飾り気がなく、「町のお寺さん」といった親しみやすさを感じる。それに、砂地の広がる境内が、何となく公園の遊び場を思わせるのだ。道路が境内を横切っているという構造も珍しい。道を挟んで北東に本堂、南西に大師堂という配置である。
手元のガイドブックによれば、現在の本堂や山門は昭和末期から平成にかけて再建された、わりと新しい建造物だ。それに対し、私の目にはそれよりもさらに新しい建物と映った納経所であるが、お寺の方に尋ねてみると、こちらが建造されたのは意外にも昭和初期のことらしい。まるで公民館のような納経所の二階は、かつては宿坊だったという。南光坊は今治駅に近く、その立地上、時代が下るにつれて周辺にはビジネスホテルが増えた。それと時期を同じくして、南光坊の宿坊は役目を終えたのだった。そんな納経所は、住職によれば「そろそろ建て替えの時期」に差し掛かっているらしい。
南光坊を出て、道を南西へまっすぐに進めば五十六番札所泰山寺に着く。ただし境内があるのは、国道百九十六号線を脇道にそれてやや奥まった場所である。国道を行き交う自動車の音が聞こえるあたり、いかにも街中のお寺だ。泰山寺と太山寺は文字こそ違うが読み方は同じで、名前が少々紛らわしい。
「昔、『太』の字を使っていた時代もあったんだ」
納経の後に訊ねると、住職がそう教えてくれた。でも、なぜ「泰」に変えたのだろう?
「時の住職が気まぐれで変えたんだろう」
住職は豪快に笑うが、さすがにそれはないだろう。
そう言えば圓明寺と延命寺も名前が似ているが、元々は両方とも「圓明寺」だったらしい。間違えやすいので五十三番の名称を延命寺に変えたと手元のガイドブックには説明がある。ひょっとすると、泰山寺も同じ理由なのではないか。
街路を抜け、周囲には常緑樹の木立が増え始めた。五十七番札所栄福寺はその先、少しばかり山に入り込んだ場所に建っている。山門がなく境内も狭いのだが、それと不釣り合いなほどに広い駐車場が整備されていた。不思議な気もするが、きっと普段は駐車場に見合った参拝者があるのだろう。永福寺では久しぶりに鐘楼の鐘を撞くことができた。
納経所の前には石造りのテーブルが置かれ、その上で親子蛙の彫刻が西日を一身に浴びて輝いていた。そろそろ次の札所へ向かわなければならない。
仙遊寺へと向かう道すがら、私は手に金剛杖を持っていないことにはたと気がついた。納経所の前に設置された杖立てに置いてきたような気がする。今回のお遍路で二回目だ。
歩き始めからまだ十五分しか経っていないのだから、本当なら杖を取りに戻るべきだろう。しかし、今ここで引き返せば仙遊寺を今日中に打つのは難しくなる。一体何をやっているのだろう……。そもそも、時間に追われるように打ち続け、心にゆとりがないから杖を置き忘れるのだ。今夜の宿泊先と仙遊寺の距離が離れているのも逡巡を助長したが、結局、次を打ち終えてから杖を取りに戻ることに決めた。
今治市街の南西地区は周囲をぐるりと山に取り囲まれているが、仙遊寺の立地はその山上である。麓の方では緩やかだったアスファルトの登り坂だが、お寺が近づくにつれ勾配を増していく。背後から私を追い抜いていく自動車を尻目に、一歩一歩、しかしやや時間を気にしながら坂を登っていった。
仁王門から先は傾斜の急な山道だった。ああ、こんな道を歩く時にこそ金剛杖が必要なのに。自分の阿呆さを呪いたくなる。石段では誰かの寄進という手すりをつかみ、腕の力も借りながら一段ずつ登る。かつてはこれが唯一の遍路道だったのだろう、お遍路さんにとって厳しい札所のひとつだったに違いない。ようやく坂を登り切った先には中門までの六十六段の石段が待っていた。私はなかなか一筋縄ではいかないものだと妙に感心し、石段を見上げながら思わず声をあげて笑ってしまった。
境内に入るとお大師様の姿が目に入ってきた。いや、正確に言うと、私の目を引いたのは、弘法大師の周りをぐるりと取り囲む無数の小さな地蔵の方だった。そして、境内の隅に置かれたバスケットゴール。私にとって寺院は参拝の場だが、当然、ここで生活している人たちがいるわけなのだ。きっと、住職の孫が部活か何かでバスケットボールをするのだろう。
お参りを済ませ、納経所で朱印を頂くと、時間に間に合ったという安心感も手伝って、私はようやく気持ちが落ち着いた。自動車の参拝客はお参りをひと通り済ませると駐車場へさっさと戻っていったが、私は少し境内を散策しようと思った。山に囲まれた境内のあちこちから鳥の鳴き声が聞こえてくる。境内からは市街地や瀬戸内海を丸ごと望むことができた。
それにしても迂闊だったのは、仙遊寺には宿坊があり、しかも天然温泉が湧き出るお風呂を備えているのだった。宿坊の多くは冬季に営業を休むと聞いていたので、私は完全に下調べを怠っていた。ぜひ宿坊に泊まりたかったです、納経所の方にそう伝えると、「また次の機会にお願いします」と微笑みながら返してくれた。
この後は杖を取りに永福寺へ戻り、今夜の宿泊先へ向かう。公式の時間制限はもうないが、今度は日没が制約条件となる。日が落ちる前にてきぱきと済ませたいところだ。遍路道を麓まで駆け降り、地図アプリを頼りに永福寺までの最短距離を小走りに進む。確かここに置き忘れたはずと思い納経所の前まで行くと、果たして金剛杖はそこの杖置き場に残されていた。私は安堵で胸を撫で下ろした。それにしても危ないところだった。後十五分遅かったら辺りは真っ暗で杖どころではなかったかもしれない。
宿へ向けて歩き出した時にはすっかり日が暮れていた。大通り以外には電灯がなく、自分が歩いている道が地図上のどれに当たるのかが分かりづらい。一度、地元の方らしい女性が車越しに心配して声をかけてくれた。
「こんな時間に歩き遍路さんはあまり見ませんが、どちらへ向かわれていますか」
心配して声をかけてくださったことにお礼を言い、今夜の宿はもう遠くないのだと伝えると、女性は顔に安堵の表情を浮かべ、車をゆっくりと発進させた。お接待の文化が根付いているのを強く感じた瞬間だった。
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